ヒーローは遅刻魔 その③

 わたし、佐藤春香は何を隠そう大のココア好きである。そんなわけで台所にはココアパウダーの瓶が予備含めて三つ常備してあるのです。

 台所でヒーローが描かれたお気に入りのマグカップに、砂糖とココアパウダー、そしてあったかいミルクを注いでいく。それからチラリと彼の様子を確認する。

 部屋に通した花坂形離さんは、借りてきた猫……いや拾ってきた瀕死の捨て猫みたいに、今にも消え入りそうな感じで部屋の真ん中でポツンと座っていた。

 そして何故か正座である。その腕には赤ちゃんがしっかりと抱かれていて、この雨風の中でもまったく濡れている様子はない。

 あとチラっと見ただけだが、可愛いらしい赤ちゃんだった。

 でもなんかちょっと普通じゃない。

 具体的に言うと、エビの尻尾みたいなのがお尻から生えていた。

 う~む、エビの尻尾みたいなのはアレかな?コスプレかな?

 などと自分を誤魔化すには無理があるほど、あまりにそれはリアルで。

 つまるところ、アレは本物の尻尾なのだろう。

 たぶんあの子は……人間ではない。

 正体はたぶん怪人エビ人間だ。ははは。日曜の朝の時間はもうとっくにすぎていますよ?

 ……なんてその場で色々ツッコミたかったが、やはり彼の状態的にそれは難しそうなので、とりあえず向こうから事情を話してくれるのを待つことにした。

 いくら適当に生きているわたしでも、目の前で赤ちゃんを抱きながら泣いて助けてくださいなんて言われたら手を差し伸べるのです。


「……どうぞ、タオルです。あ、よければココアも召し上がってください」


 台所から戻ってきたわたしはタオルを渡し、それから丸テーブルにココアを置いて、彼の向かいへと腰を下ろす。

 とりあえず甘いものでも差し出して様子を見てみよう、うん。


「ありがとうございま……」

「!?」


 まさかの追い泣きだった。しかも声を出さない、無言の号泣。うう、選択肢を間違えたか。誰だ泣いている人にはココアが効くとか言った人間は。

 ……わたしの大好きなヒーローです。話しが違うじゃないかヒーロー。


「ああ、えっと、その、ココアにはカカオポリフェノールが含まれていて、健康と美容にも良いんですよ!私なんか朝昼夜と毎日三杯飲んじゃうくらい大好きで!」


 何を言っているんだわたしは。今そんなの関係ないだろう。ああ、さぞ絵に描いたようなアタフタを演じるわたしは滑稽だろうな。顔から火が出そう。今なら顔面でホットココアを作れるに違いない。これが顔面偏差値(物理)高い系女子ですか?


「………………すみません、急に押しかけてしまって」


 そう言って肩を落とし、それでも音も立てずに泣き続ける形離さん。


「そんなそんな!全然気にしないでください」


 手を団扇のようにぶんぶんと降る。


「…………いいえ、これは……はは、俺の責任なんです。でももう俺一人じゃもうどうにもできなくて、だから佐藤さんに助けてほしくて、ここに来てしまいました」

「……助けてほしい、ですか。それはもしかしてその赤ちゃんの事について、ですか?」


 それから数秒の沈黙のあと、形離さんはゆっくりと口を開いた。


「はい。率直に言って、この子は普通の人間の赤ちゃんではありません」

「そうですか」


 ですよネ。やはり怪人エビ人間か。


「あ、あまり驚かれないんですね」

「え?いや、こういうシチュエーションは夢見て……じゃなくて想定していたので」


 自分の夢(ヒーローにお姫様抱っこで助けられる)のイメトレのおかげで鍛えられていたからとは流石に言えない……。


「はぁ……なるほど、流石は佐藤さんです。いつ何時もどんな命でも守れるように頭を働かせているんですね。……尊敬します」

「え?いやそういうわけじゃ……」


 ごめんなさい。いつもヒーローの事ばっか考えてます。今日も朝から特撮ヒーロー見てはしゃいでました……。


「そんな佐藤さんに甘えるようで恐縮ですが、実は────」


 それから形離さんが語ったのは、実に奇想天外、妄想全開な内容だった。

 わたしも大概自分を夢見がちな人間だと思って生きてきた。けれど事実は小説より奇なりと昔の誰かが言ったように、現実も中々夢見がちというか夢見が悪い。

 まさか宇宙人に襲われてエイリアンを寄生させられて死にかけてそれから産まれてきたエイリアンを認知して独りで子育てとか……オイオイである、小説でも盛りすぎですよ。設定の過剰積載すぎる。

 しかしそれが現実だというのだから、頭を抱えてしまう。いや本当に頭を抱えたいのは形離さん本人だろうけど。

 だが今はそんな悠長な感想を抱いている時ではない。形離さんはエビちゃんを救ってほしくてこんなわたしを頼ってきたのだ。なら未熟ながらも力を貸すのが、今のわたしのやるべき事だ。


「じゃあ早速エビちゃんの容態を診させてもらっていいですか?」

「はい、お願いします」


 そう言って形離さんは腕に抱いたエビちゃんをこちらに近づける。

 形離さんの腕に抱かれるエビちゃんは確かに苦しそうで、顔も赤い。聞いた話では吐いたりもしたそうだ。


「……少し待っていてくださいね」


 それからわたしは学校やバイト先の産婦人科で習った知識を総動員して診察を開始した。

 熱を測ったり、喉の奥や呼吸が正常かどうかを調べたり、時には教科書や参考書や論文を引っ張り出して、それらとにらめっこしながら頭をフル回転して、エビちゃんの症状をつぶさに確認した。

 そうしてわたしは、ようやく一つの可能性へと思い至る。


 ……もしかしてこれは。


「その、わたしは看護学校に通っているだけの一般人で、医師免許を持っているわけではありません。そしてエビちゃんは普通の人間でもないので断言はできないのですが……」


 エビちゃんを抱く目の前の形離さんが、ゴクリと唾を飲みこむ。まるで判決をくだされる被告人のように。


「……風邪を引いているわけでもないし、深刻な容態でもないと思います」

「本当ですか!?」


 まるで逆転無罪を勝ち取ったかのように形離さんは立ち上がってこちらの肩を掴む。


「は、はい。確かに少し熱っぽいですが、診察している間にも熱が下がってきていました。今のぐらいの体温なら許容範囲です。とはいえ赤ちゃんはまだ代謝がうまく調節できないので、基本熱がこもりがちですからこれからもしっかりと様子は見ないとですが」

「大丈夫、なんですか? で、でもまだぐったりしているし。それにさっきは吐いたりもして……」

「確かに風邪の可能性はあるにはあります。そもそも産まれたばかりの赤ちゃんは病気に戦う為の抗体がほぼないので、病気に凄く弱いんです。だから本来なら赤ちゃんはお母さんの母乳から抗体を受け取り、それを使って病気と戦います」

「でもエビは……母乳を、抗体を受け取っていません」

「そうですね。でもエビちゃんはその……エイリアンなので、そもそも病気に凄く強いんじゃないでしょうか?」

「エビが……病気に強い?」

「ほらエイリアンって寄生先の特性を吸収しつつ進化する生き物じゃないですか。だから形離さんが持つ抗体、免疫力は基本受け継がれているとわたしは思います。

 映画やアニメの知識なので断言はできませんけど。でも広い宇宙を渡り歩き、その都度寄生して増えていく特性上、その星の未知の病原菌に対する何らかの対抗策はあるはずです。……少なくとも、今のエビちゃんは病気で苦しんでいるわけではないと思います。それらしい症状も見受けられませんし」

「なら……何が原因でエビは苦しんでいるんですか?」

「その、まず診ていて思ったのが、エビちゃんは生後一週間にしてはかなり大きいんです」

「大きい?」

「はい。出生時の赤ちゃんの大きさはそれぞれ異なりますが、それでも平均して四十センチ後半ぐらいです。でも今のエビちゃんは見た感じ七十センチはあります。これは生後半年ぐらいの赤ちゃんの大きさなんです。形離さん、産まれたばかりのエビちゃんがどれくらいの大きさだったか、覚えていますか?」

「えっと……確か三十センチぐらい、だったかと。すみません、詳しくは測ってないので憶測ですが」


 まぁ無理もないか。きっと形離さんのこの一週間は地獄のように慌ただしかっただろうし。


「……でも、はじめの頃より大きくなっているのは確かです」


 目を見張って、力強く形離さんはそう断言した。


「……そうですか。じゃあやっぱりエビちゃんはこの一週間で、普通の赤ちゃんの半年分成長している可能性があります」

「一週間で……半年分」


 普通に考えれば途方もない成長速度だ。だけどエビちゃんはエイリアンである。ならこの成長速度も納得はいく。……けれどそれでも、何らかの負担はかかるはず。


「それで考えたんですけど、もしかしたらエビちゃんの具合の悪い原因は……成長疲れかもしれません」

「成長痛……みたいなもの、ですか?」

「身体の成長の負担が原因ですから、確かに似たようなものかもですね」

「じ、じゃあ、エビは……大丈夫なんですか?」


 形離さんは膝立ちになり、わたしからの回答を待つ、

 喉を鳴らして唾を飲み込む。ああ、人の病状の診断を下すのがここまで心労に負担のかかるものなのだとはじめて知った。もし……もしわたしが今から告げるこの診断結果が間違いであれば、全てはわたしの責任だ。

 これが、命に携わるということ。その重さに、やっとわたしは気づいたのだった。

 でも、ここで逃げるのは許されない。だってここで逃げたら、いったい誰が形離さんを、そしてエビちゃんを救うというのか。誰も頼れない中で、それでも必死に決断してわたしに頼った彼ら。それを見捨てるのは、絶対にダメだ。


 だから勇気を出せ。

 その勇気で二人を安心さえろ、佐藤春香。


「……はい。今のところ容態も落ち着いてきていますし、このままゆっくり休ませてあげて、起きたら栄養をしっかり与えてあげてください。たぶんもうすぐ歯も生えてくると思うので、離乳食の準備をしておくといいと思います」


 それを聞いた形離さんは憑き物でも落ちたように、その場にストンと座り息を吐き出す。


「………………よかったぁ」


 それは本当に、心の底から出た安堵の溜息だった。



「────なんだツマラナイ。もう形離の挫折パートは終わりなのか」



「ひっ!?」


 そこへ突然わたし達以外の声が聞こえてきた。しかもわたしの真後ろから!


「おや、驚かしてしまってすまない。ワタシは二〇四号室の者だ。こうやって直に会うのははじめてだったね、サトウサン」


 振り向いた先には、どっかの怪しい宗教団体の教祖みたいな女性がいた。いや、どちらかというとそこで祀られている存在の方が近いかも……。


「え、は、はひ。どうも……はじめまして。二〇二号室の佐藤春香、です」

「腐女子、お前いきなり出てきたら佐藤さんがビックリするだろう。せめて俺の後ろから出てこいよ」


 いやそういう問題ではないんですけど! ここ、わたしのお家! 不法侵入、ダメ、絶対!


「いやワタシの事はもうサトウサンには話したのだろう? なら遠慮する必要はないかと思ってね」

「お前なぁ、佐藤さんは普通の人なんだぞ。いきなり怖がらせるようなマネはするな」

「フフフ。普通の人間なんていう平均化した言葉で他人を評するなんて、形離も偉くなったものだね」

「屁理屈を……」

「それに……サトウサンは決して君が思っているほど普通じゃないとワタシは思うよ」


 女性はそう言うとニタリと笑って、わたしを見つめた。……何気にこの人?は、わたしがヒーロー狂いの……凡そ普通の人間などと呼べないというのをお見通しなようだった。

 ナニソレ怖い。形離さんから人間じゃないと聞いていたが、実際目の前にするとなんかこう、ラスボスが偶々序盤の村に立ち寄って出会ってしまった感がある。つまりデッドエンド。おお、死んでしまうとは情けない。

 それにしても、そんな魔王的なヒトと堂々と話す形離さんも中々普通じゃない。

 ……普通じゃないヤツばっかだなこの部屋。……まぁそれはともかく。


「あの……腐女子さんって呼んでいいんですよね?」


 結構攻めた名前ですけども。いやこの場合受けともいえるのか。

 

「……………………ああ、構わないよ。ニンゲンになんと呼ばれようとワタシにとってはどうでもいい」


 ひぃ、やっぱ怖い。今明らかにわたしのこと虫を見る目で見ていましたよね。

 で、でもこれだけは彼女に聞かなくてはいけない。例え自分の命を危険に晒してでも……。


「その、腐女子さんに聞きたい事があるんですけど」

「──なにかな?」


 な、なんでただの返事だけでここまで怖いんだろう。呪いで喉うがいでもすればこんな迫力ある声になるのだろうか。いや気圧されるなわたし、やるべきことをやれわたし。


「その、エビちゃんの容態が、わたしの診断で合っているのか、それを知りたいんです……。

 所詮わたしはただの看護見習いです。患者の命に責任を持つ覚悟はありますが、真にその資格があるわけでもその立場でもありません。だからどうか、真実を教えてくださいませんでしょうか」


 わたしはその場で腐女子さんに土下座する。

 正直こんなわたし程度の土下座で教えてくれるかはわからないが、せめてこれぐらいは身体を張らないと。

 じゃないと、大雨の中玄関前で必死にわたしなんかに助けを求めてきた目の前の親子に示しがつかない。


「佐藤さん、そんな土下座なんて!」

「いえ、これが他人の命を預かるということですから」


 うろたえる形離さんを片手で制す。そしてそれを見ていた腐女子さんはというと、


「フフ、フフフフフフフ! ……思ったよりサトウサンも面白いニンゲンのようだ。フフフ、いいぞ、これは予想外の収穫だ。また新しい玩具が増えたぞ」


 なんて言葉を吐いた。


「はい?」


 なんか今死刑宣告並みにヤバイ発言ありませんでした?


「いいとも。その蛮勇に免じて今回だけは特別に対価無しで教えてあげようじゃないか。

 そうだね。サトウサンの診断は概ね合っている。いやはや、初見でこの生き物の特性を見抜くとは中々良い目、いや勘を持っているよ」

「あ、どうもです」


 褒められた……のかな?


「さすが佐藤さんだ」


 そして形離さんの尊敬の眼差しがこちらを射抜いてくる。

 いやそこは感心しないで。ハードルを上げないで。


「フフ、君もこれから苦労するだろうね」


 そこで何故か腐女子さんは同情的……いや挑発的な口調でわたしに声をかけてくる。


「わたしがですか?」

「ああ、何せ形離とそこのエイリアンの事情を知っている医療関係者は君だけだからね。何かあればまず頼られるのは君になる」

「なるほど」


 それはそうか。ううむ、責任重大だ。これからに向けてもっと勉強して、それから参考文献とか揃えないと。


「…………………………」

「どうしました?」


 わたしが腕を組んで彼らの為の今後の予定を組み立てていると、腐女子さんが目をまん丸にしながらこちらを見ていた。


「……いや、どうやらサトウサンは形離の理想、いや想像どおり、よくできたニンゲンなのだと感心してね。まさか嫌な顔一つしないとは」

「……はぁ」


 嫌な顔をする要素なんてあっただろうか?


「良かったね形離。本来無関係なはずのサトウサンはこれからも、君達のを律儀にも見てくれるそうだよ」


 腐女子さんはまた何か含む言い方をした。

 それに形離さんは敏感に反応する。


「……すみません佐藤さん。全く関係が無いのに、こんな面倒事に巻き込んでしまって」


 エビちゃんを抱きかかえながら、形離さんはこちらが申し訳なるくらいの勢いで頭を下げる。


「え? いやいや! 全然気にしないで良いですよ!」

「でも……佐藤さんは看護の勉強や産婦人科でのバイトで忙しい身なのに……」

「あはは、そんなの大丈夫ですよ。そこまで負担になるわけでもないですし。あ、勿論相談やお手伝いは全力で取り組みますのでそこは心配しないでください」

「いや……そんな心配は……」


 うーむ、どうにも形離さんはわたしを神聖視しすぎているきらいがあると思う。

 今も本当に苦しそうに頭を垂れていて、まるで餌をぶちまけて大失敗した飼い猫みたいだ。しょぼん……なんて擬音がそのまま聞こえてきそうである。


「……そもそも、わたしなんかより形離さんの方が立派じゃないですか」


 だから、言わずにはいられなかった。


「俺が……ですか?」

「はい。だってエビちゃんを育てる為に頑張っています」

「それは……普通の事ですよ」

「あはは、それこそ普通じゃないですよ。……形離さんは全然普通じゃないです」


 それだけは断言できる。それは彼が宇宙人に襲われエイリアンを寄生させられ死にかけたのもそうだが、それとは別で普通じゃないところがある。

 それは彼の選択。

 彼は質の悪いジョークみたいな目に遭っても、赤ちゃんを見捨てるという選択肢を取らず子育てを選んだ。

 ……この人はわたしの事を聖人か何かのように扱うが、わたしから言わせれば彼こそ聖人と言いたい。


 ────わたしは産婦人科のバイトで、現実を知った。


 それも、何も特別な事などないありふれた現実を。……普通を。

 日本で一番多い死因は何か知っているだろうか?

 癌? 交通事故? 自殺?

 

 ────答えは中絶だ。


 少子高齢化が叫ばれるこの日本で一番の死因が中絶なんて、なんだかなぁと空を見上げて溜息を吐きたくなってしまう。これも世の無常さなのだろうか。

 勿論中絶にも様々な理由があって、そこに良い悪いなんて判断をわたしなんかがくだせるわけがない。

 でもくだせないからこそ、目を背ける事だけはしたくなかった。それがなんの意味のない、自己満足だと自分を嘲りながらも。

 妊娠が発覚した途端蒸発する自称IT系の社長の彼氏。不倫で出来てしまった赤ちゃん。彼氏に迫られて、なし崩し的に中学生で妊娠してしまった子。ただ遊ぶ金欲しさに身体を売る子もいれば、身体を売る事でしか生計を立てる術の無かった、親の虐待から逃げて家出したその日暮らしの子。

 また時には……レイプされて……。

 世の中は残忍で理不尽だ。身も心どころか存在自体が容易く踏み潰されて当たり前の世の中だ。

 だから、だからこの世界にはヒーローが必要なんだ。

 いてくれないと……困るのだ。

 絶望に飲まれ一瞬先さえ見えない暗闇の中でも力強く手を取ってくれる、そんなヒーローが。


「……佐藤さん?」

「あ、いえ」


 やべえ、思考が彼方にぶっ飛んでいた。いけない、いけない。


「やっぱり俺、佐藤さんが言うみたいなヤツじゃないですよ。育て人として、どうしようもない失格者、なんです」

「ちょ……形離さん?」


 彼は下を向いて、まるで壊れた蛇口みたいに言葉を垂れ流し続ける。


「それは普通じゃないから。未熟だから。………………俺という人間が、生まれながらにどうしようもないろくでなしだから。

 だからエビを満足に育てられなくて。そして無関係な佐藤さんにここまでご迷惑をおかけして……。ああ、ほんとに、何をやっても失敗ばかり。本当……ダメだなぁ」


 壊れた蛇口は止まることを知らない。だから形離さんの言も止まらない。止まれない。


「そ、そんなことありませんよ……」


 だからわたしのこんな当たり障りのない、ただその場を穏便に流すだけのおキレイな言葉では……絶対に止めることなんてできない。


「責任ばかり意識して、もっと本当に大切なことを蔑ろにしてしまっていた。最初は一歩ずつ、自分達なりに進めばいいなんて甘えた考えで子育てをしていました。でも結局は無理で、泣いて、こうして誰かにすがりつくしかできない。本当に無様で滑稽で、軽蔑しますよね────」


「ああもう、そうじゃないでしょうが!!!」


 だから荒療治でも、その元栓こころを修理する事にした。


「え」


 わたしは咄嗟に立ち上がり、ビシッと人差し指を彼の顔に突きつける。

 キレイ事とか知るか。もうこうなったらわたしもわたしの言いたいことぶつけてやる。


「いいですか? 形離さんはよくやっています。寧ろこれ以上ないくらい頑張ってます! 

 そもそも子育ては千差万別。それぞれのやり方があるんです。一概に間違っているなんて言えません。そして世の中の親は一人の例外なくみ~んな子育てで悩んでます! 断言します。それは当たり前のことで、通過儀礼です。だから特別に形離さんがダメとかそんなわけがないのです」

「でも……」

「ないのです!」


 ああもう、自分でもなんだかわからないくらいイライラしている。これもたぶん全部遅刻魔のヒーローのせいだ。


「……産後鬱って言葉もあるくらい、子育ては大変なんです。当たり前じゃないですか。だって子育ては、生き物にとっての使命なんですから。そんな簡単なわけがありません。でもだからこそ、命を繋ぐリレーは美しいし、命を懸ける価値がある」


 ヒーローは相変わらず遅刻魔で、この世は残忍で理不尽だけど、それだけで終わらせないのが命というものの意味で強さなんだとわたしは思う。


 そうであってほしいと、願っている。


「そして形離さんのもう一つ偉いところは……ちゃんとわたしに相談してくれた事です」

「相談が……ですか? 寧ろ逆じゃ……」

「いいえ。子育てで一番怖いのは、独りで抱え込んでそのまま潰れてしまうこと。誰にも胸の内を打ち明けずそのまま親子共に最悪のケースに至るのは決して珍しくありません。……本当に。

 だから形離さんは偉いです。こんな相談しにくいケースでも最後はエビちゃんの為に誰かを頼る選択をした。……それは胸を張って良いんですよ」

「俺が……胸を張る?」


 彼の顔に、やっと微かな光が差した気がした。


「形離さんは立派な……この子の『親』です。それは否定しようとわたしが保証します」


 それからあっけにとられたように数秒わたしを見ていた形離さんは、一度ゆっくりと瞼を閉じ、それから目を開く。

 それはまるで何かを瞼で嚙みしめたかに見えた。


「……ありがとう、ございます」


 形離さんはそう言うと、腕にエビちゃん抱きながら深くお辞儀をした。

 そこには、さっきまでの悲惨さは消えていて。

 やれやれである。

 別にお礼を言われるような事は何もしていないが、わたしの言葉が少しでも彼の心の重りを取り除けるのに役に立ったなら……うん、それでいい。

 ということにしておこう。

 じゃないと色々恥ずかしい。二十歳にもなって感情のまま言葉を吐き出すとか、顔面赤面どころの騒ぎじゃないのですよ。いやホントに。


「ともかく! 形離さんは気にせずわたしに頼ってください。いいですね! 寧ろここまで知った後に何も相談とかが無いと、逆にわたしが不安で夜も眠れませんので。だからわたしの安眠の為にもこれからバンバン相談してくださいね」

「はい……ありがとうございます」


 うむ。ここまで念押ししとけば、形離さんもこれから気軽にわたしに相談したりできるだろう。

 ……なんか勢いで変なことを口走った気がするけど、もうここまで来たら気にしたら負けだ。


「……」


 すると形離さんはなんだかぼおっとした様子でわたしを見ていた。


「ど、どうしました?」

「ああいやその……なんだか佐藤さんが、ヒーローみたいだなって思ってしまって」

「────」


 反応、できなかった。その時のわたしはきっと馬鹿みたいにポケーとした顔をしていたに違いない。まぁ端的に言えば宇宙ネコ状態である。

 それはとっても予想外な一言で、自分でも今の自分の気持ちがわからなかった。

 たぶん本当に思ってもみなかった言葉だったから、その新たな思考回路の為に脳の色んな所で新たな開通工事の作業で大忙しで、他の所に思考のリソースを割くのが無理だったんだと思う。


「す、すみません。勝手にヒーローとか……」

「……そっか」

「佐藤さん?」

「いえ大丈夫ですよ。ただこれも木乃伊取りが木乃伊になるっていうのかなぁとか思っていただけですので」

「はぁ……?」

「いいですよねヒーロー。わたしも大好きです」


 とびきりの笑顔でそう言った。

 世の中は残忍で理不尽だ。それと同時に、変なところで笑いを取るセンスの持ち主だ。

 ヒーローを求めてやまなかった自分をヒーローと呼ばせるなんて、わたしの情緒をなんだと思っているんだ世界は。

 おかげさまで大変な事になってしまったじゃないか。悪趣味にもほどがある。


「はい、いいですよねヒーロー」


 そしてそんなわたしを特に訝かしむでもなくヒーローいいよね、いい……的な返しをしてくれる形離さん。

 おやや、こんな所で同志を発見。

 ……そうか、形離さんもヒーロー好きなのか。まぁそりゃそうだ。だって形離さん、確か前聞いた話ではスタントマンだそうだし。

 と、特撮ヒーローとかも撮ったりしてるのかな。あのヒーローのサインとか、もらえたりするのだろうか?


「フフ……フフフフフフフフ!!!」


 とそこへ耐えきれないとばかりに大笑いをする腐女子さん。


「突然どうした腐女子」

「フフ、すまない。あまりに愉快すぎて、フフフ、笑いをこらえきれなかった。……まぁサトウサンも大変だね」

「…………あはは」


 わたしの心中もお見通しですか。やっぱ怖いよこの方。


「ああ、面白いものを見させてもらった。ありがとう。そしてこれからもその調子で頼むよ二人とも」


 ニヤニヤと笑う腐女子さん。随分ご機嫌だ。でもわたしは彼女の発言が気にかかって、思わず顔をムッとさせる。


「……腐女子さん、違いますよ」

「なに?」

。形離さんとわたし、そして何よりエビちゃんで三人です。そこは間違えないでください」

「「────」」


 形離さんの子育てを観察して楽しみたいなら、絶対にエビちゃんの存在を忘れてはいけない。だからそこはしっかり訂正しないと。

 けれど腐女子さん、それどころか形離さんも面喰ったように言葉を失くしていた。

 ……わたし、またなにかやっちゃいました?


「……はは、ヒーローね。案外的外れでもない、というわけか。本当にこれから楽しみだ。三人とも、ね」


 そうして腐女子さんは、今度はちゃんと三人と言い直してくれた。

 でもなんだろうこの、地雷原でタップダンスとブレイクダンスをしたその馬鹿さ加減を褒められたような気分は。……生きた心地がしない。


「佐藤さんはやっぱり凄い」

「……」


 そして結局最後は毎度のこの形離さんの謎評価に繋がるのだった。

 世の中は悪趣味である。

 いやいや、だから凄いのは形離さんですよ、と。

 だって自身に寄生したエイリアンを育てるとか、正気の沙汰じゃないすぎる。

 ……うん。でも本当にそうだ。


 ────どうして形離さんはエビちゃんを育てると決めたのだろう?



 その疑問は、けれど言葉になるまえに心の片隅に消えてしまった。

 なんとなくそれは、気軽に聞くべきではなないと思ったから。

 そして結果的にわたしのその判断は、正しかったのだと後に判明する。

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