ヒーローは遅刻魔 その②
────遡る事一時間前
俺、花坂形離人生初となる子育てがはじまって、はや一週間が経過した。
色々語りたいが、残念ながらその間の記憶が俺にはない。
404。お探しのデータは存在しませんデス。
というかなんか知らない間にネットでエビの超可愛い服などを買っていたりして、急に配達されて驚いたほどだ。
そんな感じに限界一歩手前で足搔きつつ、けどまぁ何とかはじめの一週間を乗り越える事ができた。
相変わらずエビの訴えている事は九割わからないし、泣き止ませ方もわからない。うまくオムツは履かせられないままだし、ミルクを作る作業もぎこちない。エビの眠る時間はまちまちで、こちらの睡眠時間は雀の涙ほど。おかげで地獄かと思った初日よりもさらに疲労困憊。社畜もビックリなサービス残業のオンパレード。
……でも少しずつだが確実に俺とエビは成長していた。それだけは間違いない。
自分自身の子育て技術の向上。そして何よりもエビ自身の成長。
それらが日を追うごとに目に見えて成長していくのだから、楽しくないわけがないのでして。
そんな達成感にも似た充足を心の糧に、今日も朝から俺は四畳半の部屋にて子育てに邁進する。
「さぁて、今日もミルクの時間でちゅねぇ」
腕に抱いたエビに優しく語り掛ける。
うむ、大分らしくなってきたんじゃないか俺。世の人々がなんで赤ちゃんの前であんなキモい赤ちゃん言葉なのか、理屈ではなく心で今なら理解できる。考えるな、感じろってやつだ。
「……あ…………うぅ」
「……うん、どうちまちた?」
なんだかいつもと様子が違う、ような。
身体をだらりとさせて、息の勢いも弱い気がする。
こんなエビは…………見たことがない。
「どうしたエビ?」
「……、……、……」
身体は気だるげともいえる弱々しさで、息を吸うだけで精一杯といった様子。
俺はそっとエビの、スマホの画面よりも小さな額に触れてみた。
……それは、驚くほど発熱していた。
「……風邪か!?」
その単語を口にした途端、思考が津波のように押し寄せ目の前が一瞬で真っ暗闇に変わる。
思考の海での窒息も、本物の海と変わりなく身体から酸素を急激に奪っていく。
病気か?だとしたら病院、でもエビを普通の人間に診せていいのか?最悪通報されてどこかの研究室にでも連れていかれるんじゃないか、だったら市販の薬だけでも。いやでもそもそも人間の薬が効くのか、エビは人間じゃないんだぞ、くそ俺はまだエビの事何も知らないじゃないか、この子を育てる立場であるのに、責任があるのに。というかそもそもこの症状が本当に病気かもわからない、もしかしたら俺の子育てに問題があったのかもしれない、ああその可能性は十分にあり得るじゃないか、なにせ俺はどうしようもないろくでなしで────……
「あぅ……」
その一泣きに、視界の暗闇が一瞬にして掻き消える。
「そうだ。……今はとにかくできる事をやろう」
俺は思考を殺し、身体の赴くまま行動を開始した。
まずは台所にダッシュし、ミルクを作る。結局一番はじめにやろうと考えていた行動を身体は選択した。
お湯を沸かせ、粉ミルクを哺乳瓶に規定の分量を入れ、湧いたお湯を注ぐ。人肌になったら完成。
だがいざミルクをエビにあげる段階になって、己の愚かさに眩暈がした。
今ミルクをせっせと作ってどうする? 息も絶え絶えなエビが美味しそうにミルクを飲むとでも思ったのか?
「……熱、ならやっぱり、冷やさないと!そう、アレだ!どっかにあっただろ!」
穴を掘る土竜のように、部屋の片隅にある押入れから荷物を掻き出していく。
そうして奥から冷えピタと書かれた、浅く変色した箱を見つけ出す。
箱をひっくり返し、残っていた一枚を取り出しエビのおでこにそっと張ってみる。
「……ぁぅ……」
急な冷気が不快だったのか、エビは僅かに顔を逸らし身じろぎする。でもそれが限界だったのか、泣く事はなかった。
いつもの泣き声がないだけで、ここまで不安になるとは思わなかった。まるで背骨が抜き取られたかのように身体に力が入らない。
赤ちゃんにとって泣くのは仕事にして、必要不可欠なもの。けれどどうやら泣き声は俺にとっても必要不可欠なものだったらしい。
泣き声がないと、俺はエビとまともなコミュニケーションもできないのだ。
こんなの、気付きたくもない発見だったけど。
そしてそして、また役立たずの頭は余計な思考を働かせて、最悪な連想ゲームを思いつく。
生きる上で必要な行為ができない、それは言い換えればエビは────
「生きてられないって事かよ」
口に出してしまえばハイおしまい。形のなかった恐怖が、明確な凶器を持ってこちらの心を殺しにかかる。
死。命の終わり。取り返しのつかない絶対的な終わり。
自分が冷静じゃないのはわかる。けれど、だからって死の可能性が一ミリでもあるなら冷静でなんていられない。
「ああ、くそ!」
俺は恐怖に駆られて、憐れに、惨めに、エビを布団にそっと寝かせて例の買ってきた本にすがりつく。
それは『サイエンスでフューチャーするベビーなエビデンス』という、今までクソの役にも立ったことのないアリガタイ魔術書。
だから勿論、冷静さを失った状態で本……魔術書なんて読めるわけもなかった。
文字が滑って、笑ってしまうくらい解読不能だ。
いや、元から解読不能だったっけ? ホント無様で滑稽だ。コントにでも出演するのかな?
それでも藁にも縋る思いでページをめくっていく。
しかし、藁に縋った所で、結局溺れる運命に変わりはない。
「■■■■■■!!」
最早言葉にならない暴言。しかしその暴言はどちらに向けて言っているのか?
本その物にか、こんな本を買ってしまった愚かな自分にか。まぁその違いには何の意味もないのだけれど。だって俺がバカだって真実に変わりはない。
「ああ、そうだ。腐女子、アイツに頼れば……」
自分で言っておいて、その可能性は無いと即座に判断する。
だってアイツは、寧ろこの現状をこそ見たかったに違いない。
慌てふためき、絶望したこの状況を。そしてピエロがやっとピエロらしくなったと、アイツは手を叩いて笑うだろう。ああ、もしかしたらおひねりならくれるかもな。それからもっと泣いて無様を晒せと迫るだろう。アイツはそういうヤツだ。
──、オォ、ぇ。
「え?」
それは最初何の音かわからなかった。ただ酷く不快で、生理的嫌悪を催す音だというのだけはわかる。ゆっくりと、その音の出所に目を向ければ、それはエビの口から出た音だった。
「……吐いたのか!?」
最初泡のようだった吐瀉物は、しかし止まる事なく吐き出され続ける。
おいおい、これじゃエビじゃなくてカニじゃないか。
キャパを超えて狂った頭は、そんなどうでもいいツッコミをしていた。
その小さな出口一つでは足りなかったのか、吐瀉物は口だけでなく鼻からも溢れ出す。
まるで決壊寸前のダムみたいだ。急いで修復しないと。
そう思って布団にいるエビの口元に手を伸ばせば、
「熱……!?」
どうやらそのダム水には違法な工場排水が混ぜっていたらしい。危険な薬品の如く、吐瀉物に触れた手が火傷でもしたみたいに爛れだす。
「これは……エビの消化液、か。く……」
もしかして映画のエイリアンの例のアレか。
映画ではエイリアンの血や体液は、鉄をも溶かす強力な酸でできていた。
だからエイリアンの赤ちゃんであるエビの体液……それも胃の消化液の混じった吐瀉物ともなると、ここまで危険な溶解液に変わるらしい。
……嫌な幻想と現実との一致だ。
溶解液はエビの身体以外に触れた物体を簡単に溶かしいく。
俺のタダ同然だった服がとうとう正真正銘のゴミに変わり、それから身体、そして床もボコボコ煙を出して溶ける様は、アイスクリームに熱々のチョコレートを流し込んだかのよう。
痺れるような痛みが、皮膚を通して脳へ、それからこの惨状を目の当たりにした視覚からも痛みとして脳に伝わり、ダブルパンチを叩き込む。
お陰で俺の意識はケーオー寸前といったところ。
それでも気力を振り絞り、どうにかエビの気道を確保する為、必死に抱きあげ背を優しくさすったり、トントンと刺激を与えていく。
もちろんその間も容赦なくエビの溶解液はこちらの身体を溶かしていくが、もう自身の身体になど構っている場合ではない。
……けれど不思議だ。服は容赦なく溶けてしまって跡形も無いのに、俺の身体と床だけは水膨れや焦げ跡程度の溶解で止まっていた。
「腐女子のお陰……なのか?」
防音加工をという名の腐女子からの魔改造はこの部屋と俺の身体に施されている。それがどうやらエビの溶解液にも耐性を持っていたらしい。
不幸中の幸い、というやつだ。
「…………何が、幸いだよ」
こんな幸い程度では、現在の惨状を乗り切るには不十分だ。
原因不明の高熱。それに伴う嘔吐。回復手段は皆目見当もつかず、役に立つはずの本は読む事さえできない。おまけにエビの溶解液で俺の身体はボロボロ。跡形もなく溶けるという事態は避けられていても、水膨れが身体のあちこちに発生している。
限界、だった。
「────あれ?」
心の均衡は、あっけなく崩れ去った。涙が止まらない。ただただ、目から涙が音も無く流れ続ける。
ふと思う。
一体俺は、エビを育てはじめてから何回泣いたのだろうか。
嬉し涙もあった。
けどそれ以上に、陰ではもはや数え切れないほどの悲しみの涙を流していて。
「……はは、何が一緒に成長すればいい、だ。そんなの、ただの俺の怠慢じゃないか。俺がもっとしっかりしていれば、子育てに真剣だったら、何もかも投げ打ってエビの為に頑張っていたら、赤ちゃんをこんな目に合わせる事もなかった」
ああ、そうだ。俺はただ惨めな慰めで自分を赤ちゃんのようにあやしていただけ。本当にあやさなければいけない本当の赤ちゃんを見捨てて。
────俺がこの子を育てる。最後まで責任を持って。
最初の一歩。覚悟の選択。誓いの言葉。
それは自分で言うのもなんだが、立派ではあっただろう。
しかし責任だけで子育てはできない。そこに愛、それも『無償の愛』というやつがなければ、きっとどこかで破綻する。それが今だ。この惨状だ。
そもそも最初の一歩を間違えていた。だからこうなる。だから皆苦しんでいる。
全てお前の責任だ。
俺は……俺、は……。
認めろ。それもお前の責任だ。お前の罪だ。だから言え。あの言葉を。自分の口から。
「やっぱり、俺は……子を育てる能力も資格もない、ただの
その事実だけが、重く重く俺にようやくのしかかった。
覚束ない足を動かし、エビを抱いて家から出る。外はいつのまにか大雨で、アパートの二階で屋根のあるはずの廊下にも容赦なく滝のような雨が降り注いでいた。
あまりの暗さに、昼前なのにまるで夜のようにあたりは真っ暗だった。
……もうまともな判断なぞ永久の彼方に吹っ飛んでいる。それでも身体が動くのは自分でも不思議だったが、人間なんて元々そこまで考えて行動してなどいないというだけの話。だからこんな状態でも身体は動く。
ただいつもよりは考え無しなので、他人への配慮とか良識は消えているので注意が必要です。突然野良犬のように嚙みついてきても、不運だったと思って諦めてください。
家から出た俺はそのまま隣の部屋のインターホンを押す。
腐女子の部屋では……ない。アイツに無暗に嚙みつけば命が無いくらいは考えなくても本能でわかる。
だから、別の人。
二〇二号室の
自分のような半端な人間ではない、真っ当で善良な人間。
他人の為に頑張る事のできる素晴らしい人。眩しくてこちらの目が潰れてしまうんじゃないかと本気で思う、そんな人。
そしてもう二度と深く関わるまいと決めていた、そんな人種。
……何ともやるせない。過去の誓いをたやすく破るしかない無能な自分。そして無関係な人間を巻き込んでしまうという事実。
でもそんな葛藤も良識も、今の俺には高価すぎて手に余る。
焼け爛れたボロボロの手で、インターホンをもう一度押す。
ピンポン──ピンポン────。
なんてことない残響が虚しくて、また涙が溢れ出す。
おお、これはまた新しい発見。
情緒の崩壊を極めれば、人はインターホンの音だけでも泣けるのです。
すると少しもしない内に扉が開き、驚いた顔の小柄な女性が現れる。
栗のような柔らかな茶色の短髪、目元は優し気なのにどこか不思議と力強さのある顔立ち。小柄なのにまるで大木の前に立っているような安心感をもたらすその女性こそ、二〇二号室の住人、佐藤春香さんだった。
「か、形離さん? どうしたんですかこんな大雨の中……ってしかもボロボロじゃないですか! 大丈夫……なわけないですよね! と、というかその腕に抱いてるお子さんは?」
なんてことのない労りの言葉。
ああ、やっぱり佐藤さんは良い人だ。急にこんなわけのわからない人間が大雨の中大泣きしながら赤ちゃん抱いて突然現れても、決して邪険にしない。
「…………い」
唇が震える。
「えっと、とりあえず中入ります?」
「……さい」
言葉が上手く紡げない。
「え?」
「助けてください」
いやだからといって、開口一番に助けてくださいはないだろう。もっと言いようがあるはずだ。これでは佐藤さんも困惑して……。
「はい……わたしでよければ、力になりますよ」
けれど佐藤さんは、力強く頷いて俺の拙い『助けて』を受け入れてくれた。
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