サイエンスでフューチャーするベビーなエビデンス その④
腐女子から「終わったよ」の一言をもらい、俺とエビは自分の部屋でやっと一息つこう……とした瞬間、またエビが腕の中でぐずり出す。
おいおいタイミングバッチしかよ。
「うあ、あああ、うきゃあああああああああああああああああああああああ!!!」
超音波兵器と間違いかねない泣き声、しかし今の自分にはそこまでのダメージを与えなかった。部屋にも問題が発生している様子はない。
五月蠅いが、それでも人間の赤ちゃんレベルに抑えられている。どうやら腐女子の加護とやらはしっかり働いているようだ。
ちょっと原理というか、俺の身体どうなってんの?みたいな不安はあるが、そこは無視するしかない。
「……と余計な事考えてる場合じゃないな。早く泣き止ませないと。ほ~らエビちゃん、あっぷっぷぅのへんてこのすけぇ」
俺はまた顔芸を駆使してエビのご機嫌をとってみる。……が、一向に泣き止む気配がない。
「うきゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
というか段々勢いを増していってませんかねコレ!?
そこでようやくエビの異変に気付く。エビを包んでいたバスタオルが、異様なほど濡れていたのだ。
「これは……おしっこか!」
どうやらエビは人生初のおしっこをして泣いていたようだ。
それにしても赤ちゃんだと何をするにも初が付くから、何だかおめでたい気持ちになってお得である。
そんな己の感心をよそにバスタオルはどんどんびしょ濡れになり、その勢いは止まらず床にまで到達する。
自分の血の汚れもたいして取れていないというのに、今度はおしっこによって盛大に汚れていく我が家の床下。
血と尿の化学反応。その効果は……敷金が返ってこないのです。
敷金は犠牲になったのだ。
「とりあえず敷金のことは忘れよう。今は早速買ってきたオムツが役立ったと思えばいい」
「ううう、あああああ、ああああああうあああうあああああ」
おしっこで濡れたタオルが不快なのか、エビはおしっこを出し切った後も泣き止む様子はない。
「ああ、はいはい、ちょっと待っててね。すぐ新品のオムツを履かせてあげまちゅからねぇ」
エビを床に優しく寝かせ、濡れたバスタオルを丸めて洗濯籠へシュート。それから買ったばかりのオムツを取り出し、説明書を見ながら履かせて……履かせて、なんだこれ難しくありませんか?
「え……ここをこうして? いやなんか違う。あ、ダメだ変にくっついた。あーっと、ああ、ああ、もうこれはダメですネ。じゃあ新しいので……」
気のせいか不安そうに泣きながらこちらを見上げているエビ。
「ああ、よしよし、もうあとちょっとたぶんすぐにできるだけはやく可能な限り迅速に新しいオムツが履けまちゅからねぇ……。へへ」
最後、コンビニで鍛えた営業スマイルでこの場に蔓延る不安を誤魔化してみた。
「うきゃああああああああああああああああああああああああああ」
「オーケー、できるだけ急ぎます」
催促のお返事いただきましたぁ!
……だが落ち着け。落ち着いて、そして最速でオムツを履かせろ。一枚目のオムツの犠牲を無駄にするな。手順通り、そう機械の如く手順に従え。
「ほーれいきますよぉ。くるっと包んでハイポンポン……ポンっと」
「きゃあああああぁ? ……うう、ああう」
……どうにか、形にはなった、か? わからない。基準を知らないから、これでいいかもわからない。
一方それを着こなすモデル様は……。
「きゃああああああああああああああああああああああああああああ」
超ご不満なご様子。デザイナー形離廃業だ。
「いやでも……とりあえず履かせる事はできたし、これはまた別の理由で泣いている……とか?」
そもそも赤ちゃんの泣くという行為は、大人でいうところの会話などに類する外界へのコミュニケーションに他ならない。勿論理由がなく泣く場合もあるだろうが、しかしその大体は赤ちゃんなりの理由が、意思がある。だからそれを察してあげるのが……育て人の役目だ。
つまり、自分の役目。……。
「うきゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
いや無理ですごめんなさい。泣き声だけで何か察せるなら、エスパー形離として生きていっています。
「えーっと、ああと、あ、本! こういう時は知識が無双するって相場が決まっている」
俺は急いで買ったばかりの本『サイエンスでフューチャーするベビーなエビデンス』をひろげ、助けを求める。なになにフムフム?
「子育てにおいてもっとも大事なのはエビデンスをしっかりとフューチャーし、それをアナライザーする事がエッセンシャルでビューティフォーです、と。フムフムなるほどね。……………………………はい?」
間違って俺は魔術書でも買ってしまったのだろうか。何が書いてあるかサッパリわからない。
「今は魔術が知りたいんじゃなくて、エビの気持ちが知りたいんだよ」
苛立ちにも似た気持ちで、乱暴に開いたページを閉じる。
ああもう、こんな事ならケチらず本屋で気になる本全部買えば良かった。
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「……愚痴ってもしょうがない。とりあえず……そうだ!衣食住。人間の不満なんて大概それなんだから、ソイツを解消したらどうにかなるはずだ。なら衣……は今履かせた。じゃあ次は食、ミルクでどうだ!?」
デザイナーの次はシェフだ。
よくよく考えれば産まれてからエビは何も口にしていない。ならおしっこしてお腹が空いて泣いている可能性は大いにある。
「うきゃあああああああうううううう、いあああああああああ」
エビは休むことなく、ただ泣き続ける。
いくら脳にダメージを負わないからといって、赤ちゃんを泣かせ続けるのは精神的にクるものがある。
「こんな時、母乳が出たら楽なんだけどな」
そうすれば、エビを待たせずに済む。
だが悲しいかな、俺の雄ッパイにはミルクが詰まっていない。詰まっているのは夢だけ。
……何言ってんだ俺。
「ふぅ」
とりあえず、地道に手作業でミルクを作るしかない。
俺はエビを腕に抱きながら台所へ行き、とりあえずお湯を沸かす。
その間に粉ミルクの作り方の確認をする。
買ってきた粉ミルクはバケツ缶タイプで、上の蓋の部分に丁寧に作り方が書いてある親切設計。これにはどこぞの魔術書も見習ってもらいたい。
「まず哺乳瓶に粉を入れて、それからできあがる量の三分の二までお湯を注ぐ。それから水を入れて熱を冷まして蓋をした後に、今度は人肌並みになるまで哺乳瓶を水に晒す……か」
なるほど。こうする事によって赤ちゃんが火傷しないようにしているんだな。かしこい。
俺はできたお湯で先ほどの工程を行い、ミルクを作成していく。
「でも人肌ってどれくらいなんだ?というかどこの人肌?人間の肌って部位によって温度違くないか?」
しかしそこら辺の指定は説明書には書かれていない。
「いやそこまで難しく考えなくていい、のか? でも相手は赤ちゃんだぞ?もしもの事があったら……」
己の腕にある命の重さ、責任。それらが急に実体を伴った恐怖に変わる。
たった一つの判断ミスが、この子を殺してしまう可能性がある、かもしれない。
それは予想以上に俺の精神を蝕みつつあった。
「……落ち着け。ここで俺が潰れたらそれこそ馬鹿だ。大丈夫、大丈夫。落ち着いてやればできる」
「きゃあああああああああああああああ」
しかしエビの泣き声に神経と精神が急かされる。平常心を保とうにもこの騒音の中では難しい。
ナイトクラブで優雅に読書をしろと言われているようなものだ。どうしたって思考が明後日の方向にいってしまう。
「うきゃあああああああ! ああああああ! ああああああああああああああああああああ」
「……ああ、ごめん。すぐ、ミルク、あげるから、な」
水に晒していたミルクは、いつの間にか手のひらの温度よりも少し冷たくなっていた。
ジャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
蛇口から流れ出る水の音が、妙に疲労を感じさせ。
「……」
蛇口を捻って水を止める。さっきまでジャー、ジャー喚いていた水音は、排水口に消えていくみすぼらしい音へと変わっていった。
……ざまぁみろ。
「ああああああ! ああああああああああ!」
「────っと、そうだ。は~い、ミルクができましたよ~」
先ほどの思考の空白を埋めるように、無理矢理元気な声を上げてエビの口へミルクを近づける。
「あああああ……うう? ううちゃ、うむ、あむ」
まるで反射のような本能的な動きでエビは哺乳瓶に口を吸いつかせる。そして少しずつ、だが確実にミルクを飲みだした。
「────」
何だかそれが無性に嬉しくて、安心して、涙が出そうなくらい、心が沸き立った。
「なんだこれ、いやというか、泣いてんのか俺?」
結局俺は泣いていた。どうして泣いているのかもわからず、でも止める事のできないその涙は、結局エビがミルクを飲み終わるまで止まらなかった。
ミルクを飲み終わった後は、粉ミルクが入っていたバケツ缶の注意書きに習ってエビの背中を優しく刺激しゲップをさせる。
するとエビはスヤスヤとまた気持ち良さそうに寝てしまった。
先程までの騒ぎが噓のように。
「というか俺も、ちょっと寝たい……かも」
疲労が蓄積していたのだろう。まだ昼を過ぎてちょっとしか経っていないというのに、驚くほど瞼が重い。
よく考えたら、宇宙人に襲われて激痛の中エビを出産して死にかけてでも生き返ってそれから子を育てるという人生最大の決断をしてそのまますぐにはじめてエビと二人で買い物に出かけて帰ったら腐女子と交渉して部屋の改造をしてそれからおむつ交換してミルクを作って飲ませてゲップさせたのだ。
……我ながらよく体力と精神がもったな。短時間にここまで過密スケジュールこなすやつ人類で初じゃないのか。
当分は何もせずゆっくりしたい。それかせめて丸一日だけでもゆっくり寝かせてくださいお願いします。
……まぁ無理だろうな。でも仮眠はしよう。じゃないと真面目に死ぬ可能性があるからネ。
「だけどその前に……スタントマンの事務所に活動休止の連絡、あ、それからバイト先にも当分シフト入れないって伝えないと。…………はぁ」
気が重い。自分が選んだとはいえ、夢から遠ざかる選択は今までの自分の生き方を否定するようなものだ。そこにどんな理由があっても、一度夢から遠ざかった人間には驚くほど冷たく現実的なのが夢というやつだ。
そんな末路を、今まで沢山見てきた。嫌というほど。
最早嫌と感じる心が錆びつくまで、何度も何度も何度も見てきた。
少し自分を見つめなおしたくて、実家の仕事を継がないと、将来が不安で、限界を感じて、年齢が、何歳までに成功できなかったから、怪我が原因で、借金が、バイトから店長になったので、学生の頃の人間の目が痛くて、炎上した、マネージャーと喧嘩した、業界から干された、事務所が潰れた等々。そして。
────子供ができたから。
そういった様々な背景があって、みんな夢を諦めていった。
今までそれを横目に、あるいは目の前で形だけの固い握手をして別れたりした。
その度に俺も心のどこかを欠けさせて、あるいは何かを背負って……歯を食いしばってここまで進んできた。
でもその進んできた己の道が急に行き止まりになった。
まだ俺の心は死んでいない。必死に足搔ける程度の根気は残っている。
でも進めない。何故なら道が塞がったから。
子供ができた。
そんなありきたりな……夢を諦める理由。
今まで自分以外の人間がそうだったように、ただ自分の番がきただけの話。
…………みんな、こんな気分だったのかなぁ。
突然で理不尽でどうしようもない……壁。確かにこんなもん目の前にあったら、大概の人間は引き返す。それが正しく賢い生き方ってやつだ。
なのにそれでも壁の前で諦めきれずにウロウロする奴はただの馬鹿。現実が見えていない恥知らず。負けず嫌い。社会人失格。見た目は大人オツムはガキ未満の迷探偵。事件を解決するどころか周りに迷惑をかけることしかできない無能。
笑ってしまう。そんな奴が物語にいればきっと嫌われる事間違いなしだ。
「……ああ、でも、一番笑えるのは、それが自分だって事だよな……」
だって、それでも、まだ、俺は、夢を諦めきれないんだよ。
そんな賢い生き方ができるなら、もっと前に引き返して…………いやそれどころか、とっくにくたばっていた。
「────落ち着け。今はとりあえず、電話だ」
怒りさえ生温い激情が、眠気をイイ感じにぶっ飛ばしてくれた。
今なら事務所への電話も辛気臭くならずに済みそうだ。ナイス俺、結果オーライだ。
出来る限り音を立てずに外に出てからスマホを操作し、事務所へ電話をかける。数回のコール音の後、お馴染みの声が聞こえてきた。
『……形離か。どうした』
聞き方によっては無愛想ともとられかねない声。
電話に出たのは俺より二つ年上で三十歳である、事務所のマネージャーの
松本さんは色々誤解を受けやすいタイプで、意外に面倒見が良い、というか端的に言えばイイ人だ。
俺自身も何かとお世話になっていたが、まさかこんな形でも迷惑をかけることになるとは正直思っていなかった。
……うぐぐ。色々申し訳ない気持ちが蛇みたいに渦巻いて、中々次の言葉を発せない。
『形離?』
もう誤魔化せない。断頭台の刃は降ろされたのだ。
「お、お疲れ様です松本さん。実は折り入って相談が……」
『……相談?』
「はい、あの突然なんですけど、しばらく事務所の仕事を休業させてもらいたいと思いまして」
ああ、言ってしまった。
自分の首に刃が刺さったみたいに喉が痛い。
『おまえが? ……あの花坂形離が? ……何か理由でもあるのか』
「それなんですけど……」
さて、ここで馬鹿正直に子供ができましたというべきなのか。それとも適当な嘘をつくべきなのか判断に一瞬迷う。
しかしここで噓を吐いた所で、結局休業するのに変わりはない。
なら噓を吐くだけ滑稽だよな。別に恥ずかしい理由でもないし。
「実は子供ができまして……」
『はぁ?』
「松本さん?」
『…………………………すまん。あまりにも意外な理由すぎて。あ、とりあえずおめでとう』
「ありがとうございます」
『でもおまえ、女っけ全然なかったのに裏ではしっかりヤる事ヤってたんだな』
「あはは……」
『まぁいい。それでいつ頃産まれる予定だ』
「もう産まれています」
『がはっ!?』
「松本さん?」
『あぁ?もう産まれてる? なうでおぎゃあでばぶり中か?』
「なうでおぎゃあでばぶり中です」
つられてマネしたが、意外に響きがいい。語感だけで脳に直接イメージを叩き込むには打って付けだ。というかかなりテンパってないか松本さん。
『そ、そうか。まぁそういう事もある、か。ちなみに、お相手とはもう結婚したのか』
「相手はいません」
『ごほ!?』
「松本さん?」
『相手いないって……なんだそれは? どういう状況だ?』
困ったな。意外に興味を示されてしまった。一体どこまで話してよいやら。とりあえずエイリアンの事は黙っておくとして……。
「今日突然認知だけを迫られまして。それで俺が独りで育てる事になりました」
『はぐはっ!?!』
嘘は言っていない。
『なんだその昼ドラ並みの修羅場。形離おまえ、もしかして騙されて……』
実際騙されるよりも酷い話なのだが……。
「でもこの子には俺しかいないので」
『…………………………確かに子供に罪は無い、な。そうか。形離がそう言うならオレは何も言わねぇ。わかった。社長からはオレからしっかり話付けとくから何も心配はするな。あと何か困った事があったらいつでも相談にのる……から……気軽に電話してくれ』
「ありがとうございます」
『ああ、それじゃあ色々頑張れよ。……ホント頑張れな』
「はい、失礼します」
ツー、ツーと少しモノ悲しい音が耳にこだまする。
「……なんか、思ったよりなんとかなったな」
もっと冷たい対応をされると思っていたが、寧ろ応援された。
「……松本さん、やっぱイイ人だな」
そんなこんなで、とりあえず
寧ろその後のバイト先への電話の方が揉めに揉めたのは、何だか世の
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