サイエンスでフューチャーするベビーなエビデンス その③

 結局『スーパーしのはる』では粉ミルク、哺乳瓶、オムツ、タオル、除菌シート、あとベビーパウダーが買えた。ベビーパウダーが何なのかはイマイチよくわからないが、売り場に沢山並んでいたのできっと必要なのだろうと思って買っておいた。

 これで合計五千弱の出費。覚悟していたとはいえ、やはりこの出費は痛い。


「いやでもこれは必要経費だし」


 ここで落ち込んでも金は返ってこない。余計な感傷は非効率だ。

 そんな愚痴にも満たない垂れ流しの思考を内心で浮かべつつ、袋を吊り下げた腕でまたもスヤスヤと寝ているエビを抱っこして俺は次の目的地、商店街にあるいつもの本屋へと向かった。


「……はぁ。やっぱどれを買えばいいかわからないな」


 いつもは立ち寄る事も気に留める事もない赤ちゃんに関する書籍エリアにて、初心者らしい何ともありきたりな悩みを抱いて立ち尽くす自分。


「えーっと? 『子育てに科学の光を』『赤ちゃんを迎える準備お金編』『子育て迷信をぶった切り』『今こそ学ぶおばあちゃんの知恵袋子育て編』『寝付け大百科』『もう一人じゃない子育ての味方』『親子のはじめ方』『ばぶみで学ぶ子育て』『ベビィ・プレイヤー・マム』『サイエンスでフューチャーするベビーなエビデンス』……」


 どれもそれらしい、今の自分に必要そうなタイトルの羅列。

 本音を言えばここにある本全部欲しいが、流石にそれは非効率。

 俺は無難に平積みされている『サイエンスでフューチャーするベビーなエビデンス』を買う事に決めた。

 いやタイトルに書かれている言葉の意味は一切理解できないが、平積みは正義なのだ。

 俺は平積みから目的の本を一冊持ち上げ、レジへと向かう。


「「……」」


 いつものやり取りのはずなのに、妙に気まずい。

 どんなエログロなBL本でも繭一つ動かさない例の書店員が、明らかにうろたえていた。

 え、この人結婚してたの? というか両刀だったのか!? 

 みたいな目をしていらっしゃる。いや違うんですよ、これには色んな事情があって、というか俺は元々ノーマルです……などと弁明したかったが、所詮は書店員と客の関係に過ぎない俺達。ならわざわざ誤解を解くこともない。

 そんなのはそう……非効率だ。

 すると不意に腕の中のエビが身じろぎし、バスタオルが解けてエビの尻尾がお尻の辺りからコンニチワしてしまう。

 俺はすぐさま尻尾をタオルの内側へと隠し、何事もなかったかのように振る舞う。


「────」


 ……いや、流石に厳しいですよネ。

 俺はもうダメだと諦め顔を上げてみると、書店員の顔は自分の予想とは違ったものだった。

 に、人形を赤ちゃんに見立てて疑似子育てプレイをしている……だと?!

 それはもうさっきまでの驚きとは一線を画す、所謂ドン引きという部類に入るものに変わっていた。

 ……エビの正体に気づかれていないなら、それでいいんだけど……サ。


「「………………」」


 俺は書店員の驚愕の眼差しに堪えながら、千五百円払って本屋から駆け足で逃げ出した。






 そんな人生で一番波瀾万丈な買い物を済ませた俺は、何とか自分の部屋へと帰ってくる事ができた。

 戦利品を床に置き、そのまま自分も床へダイブ……といきたいところだが、まだ俺にはやらなければいけない事がある。

 それはエビのあの破壊的泣き声の今後の対処だ。

 スーパーではどうにか誤魔化せたが、このボロアパートであんな大音量の泣き声が放たれれば、近所迷惑どころの話じゃない。下手すりゃ水道管やガス管が破裂して死人が出る。

 それだけは何とか避けなければいけない。


「あう? うう、ぶぶぅ」


 無邪気で、未だ何の罪も知らない、無垢な顔が己の腕の中にあった。


「よ~しよし、いい子、いい子」


 この子を人殺しになんて、絶対にさせない。

 俺は固い決意と共に、部屋を出た。


「…………それで、早速ワタシに助けを求めにきたというわけか」

「頼む腐女子。こればっかりはお前にしか頼めない。お前の謎パワーで俺の部屋を鉄壁の防音室に変えてくれ」


 腐女子の部屋の扉の前で地べたに座り、エビを抱きつつお手本のような土下座で先制攻撃。


「さきほども言ったが、ワタシは基本形離の子育てを手伝う気はない。さらばだ」


 しかし効果はいまひとつ。有無を言わさず扉を閉めようとする相変わらずのヒトデナシ。


「待て腐女子。……これはお前の生活にも関わる事なんだぞ」

「どういう意味だい?」

「わからないか? ここで俺達を見捨てれば、お隣さんであるお前が一番被害に遭うんだ。昼も夜も問わず隣から尋常じゃない赤ちゃんの……エイリアンであるエビの泣き声が聞こえてくる。それはどう考えたってテロ行為に等しいぞ」 

「ふむ、確かにそうだ。忠告ありがとう。ならワタシの部屋にだけ防音処理を綿密に施しておこう。これでワタシの生活の平和は守られる」

「おいコラ人でなし」

「人じゃないが?」


 自分の領土が平和ならそれでいいとか。この人外、性格悪すぎ。……知ってたけど。


「そこは俺の部屋に施してくれよ」


 結局どこか一つの部屋には防音処理をしなければいけないのなら労力は変わらないはず。

 助け合い万歳。みんなニコニコハッピーだ。


「嫌だね。気分が乗らない。自分で何とかしたまえ」


 しかし現実は厳しい。


「これは自分の頑張りでどうにかなるレベルじゃない」

「そうかな? 山奥にでも引っ越せばいい」

「現実的じゃない。俺には不可能だ」

「やってみなければわからないじゃないか。後先考えず行動してしまうのが、ニンゲンの数少ない利点だろ」

「引っ越していいのか? 俺の観察が楽しみじゃなかったのか」

「山奥ぐらいなら十分ワタシの観察範囲内だ」

「……急に怖い事言うな」


 それってつまり、コイツに目を付けられたらどこに逃げても無駄って事じゃないか。


「説得は終わりかい? なら諦めて今日中に荷物を纏める準備でも……」


 今度こそ腐女子は話が終わったとばかりに、嫌味な別れ言葉を告げドアを閉めはじめる。

 しかし俺は立ち上がり懐からとある一冊の本を取り出して、それを腐女子の顔面に突き出す。


「なっ……これは!?」


 さっきまでとは打って変わって、明らかに態度が変わる腐女子。


「お前が欲しがっていた幻の同人誌『ホモサピエンスってなんかエロくね?』先生がはじめて出された本。『爆弾に花束を』だ」

「何故君がこれを所持している……!?」

「昔川で溺れている女性を助けたら、お礼に貰った」

「相変わらず君の人生はメチャクチャだな! いやだが今はそんなことより……」

「いつかお前との交渉で役立つと思ってずっと隠し持っていたんだ。どうやらこれは、効果は抜群みたいだな」


 ホントあの女性には感謝しないと。

 まあそれはそうと助けたお礼にBL本渡された時は困惑しかなかったんだが。しかし命の次に大事なものなので是非受け取ってくださいなんて言われたら断るに断れないし。実際役に立っているわけだし。

 世の中何が起こるかわからないもんである。


「さぁどうする? 俺の頼みを聞くか、断るか」

「……………………く、わかった。言う通りにする」


 熟考のあと、凌辱三秒前の姫騎士みたいな声を上げた腐女子からやっと目当ての言葉を引き出せた。


「本当か!?」

「ああ。まさか君がここまでの隠し玉を持っていたとはね。恐れ入ったよ」


 さすが俺の最終兵器、あの腐女子の説得にこうもあっさり成功した。


「……よし! じゃあ早速俺の部屋に防音処理を頼む」

「ついでに、君自身にもある程度の加護を施しておこう」

「え」


 腐女子は自身の手でこちらの頭をポンと一回叩く。すると一瞬耳にノイズのようなモノが走った。


「ぐ……」

「はい終了。これで君にもある程度の耐久性が備わったよ」


 どうやら今の一瞬でその加護とやらを施したらしい。


「マジか」


 昔の機械並みの簡単さ。俺の身体はコイツにとってその程度なのか。……やべぇ、なんか悔しい。

 でも正直自身の身体についての問題は耳栓と気合い、最悪鼓膜を潰してでも自力でどうにか対処する予定だったので、それも解決してくれるなら正直大助かりだ。


「けど……」


 コイツの急な大盤振る舞いはかえって不気味だ。

 俺の不安を察してか、腐女子は肩をすくめる。


「それだけ君が出したカードが強力だったというだけさ。ここで中途半端な協力の対価としてその同人誌を貰おうものなら、その同人誌に、そして『ホモサピエンスってなんかエロくね?』先生に失礼だ。彼女の幻の作品はその程度のものと認めるようなもの。そして遡れば、その程度のものを必死になって欲しがるワタシの品位も落ちるというものだ」


 コイツの品位に関してはもはや地を抉ってマントルだろう。

 まぁそれはそれとして、


「結局は自分の為なんだな。ぶれないな全く」

「……それは君にも言える事だ」

「俺が? どういう意味だよ」

「君のその潔すぎる割り切った考え方だよ。自分にできる限りは全力で努力し、無理ならそうそうに諦めて別の手段を模索する。そのシワ寄せがくるこちらはたまったものではない」


 だって仕方ない。今すぐ引っ越すなんて土台無理な話なんだから。なら手段を持っているヤツに頼るのが効率的で現実的だ。


「しかしここまでだ。これ以上はさすがに手を貸すつもりはないよ」

「わかってる」

「……本当にわかっているんだろうね。まぁいい。少し君の部屋にあがらせてもらうよ。五分ほど外で待っていてくれ」


 そう言って腐女子は俺の部屋へと入っていった。


「…………」


 腐女子の言いたい事はわかっている。

 結局の所、エビの泣き声の問題なんて、これから起こるであろう問題の一つでしかない。

 普通の赤ちゃんではない、エイリアンの子育て。それはどうやら自分が思っているより大変なのだと、まるで地獄の釜の蓋が開きかけたかのような寒気を今回の件は俺にもたらしたのだった。

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