第11話 蘇軾〈縦筆 三首 其一〉

やめる おきなが とうばに ひとり

しもに こごえる しろいひげ

よくなったね と よろこぶ ぼうず

これは よってて あかいのさ


(ひらがなは読みづらい人向け)

① 病める翁が 東坡に一人

② 霜に凍える 白い髭

③ 良くなったねと 喜ぶ坊主

④ これは酔ってて 赤いのさ


(原詩)

① 寂寂東坡一病翁

② 白鬚蕭散滿霜風

③ 小兒誤󠄁喜朱顏在

④ 一笑那知是酒紅


【ひとこと】

 蘇軾そしょくこと蘇東坡そとうばの作。①の東坡とうばは蘇軾のことと読む説と、地名のことと読む説がある。ここでは地名としてとった。③坊主は蘇軾の子供を指している(三男とか四男とかのことだった気がするけど忘れた)。


 蘇軾とは関係ない話をします。

 人の詩集を読みました。人の詩を読むことの難しさに、ね……ほんと、ね? 解説って大事だよねと思い直した次第です。

 「本を読むことの素晴らしさは、本を閉じたときにこそある」と、私はそう思うわけです。文字を目で追うときでなく、読み終えてふと思い出す中残るものこそが大事。その時にやっと文字の向こう側へ行けるから。

 でもね、一読者として詩に触れた時、それ以前のところにハードルがあると思ったわけです。初見でりつ(575とか57577とかのこと。ここでは7775のこと)がパッと分からなかったり、いん(②はシ。「霜」「白」のシ。③④はヨ。「良くなった」「喜ぶ」「酔ってて」のヨ)がパッと分からなかったり、そもそも何言ってるか分からなかったり。そうすると「面白いな」ってならないじゃないですか。面白くないものは繰り返し読まないし、読み終えても残らない。思い出してもらえない……。それじゃあ、ね……。


 詩には必然があるのです。必然を見たくて詩を作るのです。必然とは、律や韻や意味によって形作られる構造のことです。意味だけでいいなら、それは散文です。どれほど美しくても、必然がなければ、私にとって詩ではないのです。詩には律の柱があります。律の柱は韻によって架橋されるのです。詩の中には律だけ、韻だけで構造化された詩もありますね。(あるいは歌詞として曲による構造を持つものものありますが、詩とは少し性質が違うでしょう)

 日本語の詩の歴史……俳句・川柳(575)や和歌・短歌(57577)や都々逸(7775)や今様(75 75 75 75)や、対句やタイポグラフィーによる形式や押韻詩(脚韻や頭韻によってabbaやcdcdやeef-ggfの構造をもつもの。ラップの歌詞のように母音の対や反復でリズムを生み出したもの)や、あるいは自由詩についての先人の試みは膨大で、私はやっとほんの少し勉強し始めたばかりで、調べるほどに自分のものの知らなさに打ちのめされるけれど……詩に必然があることは疑いないのです。


 いまはその必然をうまく説明できません……説明できるようになりたくて文字を綴って見たけれど、まだ混沌としていることがわかっただけでした。説明できない確信は信仰というのでしょう。

 詩の必然は、今はまだ信仰かもしれないけれど、それなら教義よりも先にあるこの信仰について、私なりの教義を見定めたいと詩を書くのです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る