第7話
チャイムを鳴らしても一向に家人が出てこない。約束の時間より五分過ぎていて、誰もいないというのはおかしい。少し不安になって、雄太はドアノブに手をかけた。
「……なんで、鍵開いてるんだ?」
無用心な家だ、と愚痴りながら入ったのは海と美和の家だった。まだ外は明るいため、家の中の電気は点いていなかった。が、甘い香りが家中に漂っていた。焼き菓子の香りに、鼻をひくひくと動かす雄太。
「すいません、出られなく……雄太さん?」
「鍵開いてたよ」
エプロン姿で台所から出てきた美和に挨拶をする。髪を束ねているところをみると、まだ作っている真っ最中だとわかった。
「雄太さんでよかったです、気づいて下さったのが」
微笑む美和に、雄太もまた微笑み返した。本当に笑うようになった、本来の笑顔が戻ってよかったと素直に喜んでしまう。
だからあいつが惚気るのもわからなくもないんだよな。
全ての感情が停止した、人形のようになってしまった美和が笑うようになった。誰もが嬉しくて、一番側にいた海はもっと嬉しかったことだろう。もちろん友人として、雄太も嬉しかった。
「今、律子さんに渡すお菓子を作っていたところなんです。クッキーがやっと冷めたところなんです。味見しませんか?」
「夕飯食べた後にもらうよ。あと今日世話になるから、はい」
持参した紙袋を美和に手渡す。袋の中には雄太の母親が趣味で作っている野菜が入っていた。
「いつもありがとうございます」
「泊めてもらうんだから、安いぐらいだよ」
「今夜はこれを使って夕飯作りますね」
紙袋を持って美和は台所へと姿を消す。雄太は居間へと向かい、適当なソファーに腰掛けた。律子を迎えに行くため、若干近い二人の家から車で空港に向かうことになっていた。前々から泊まっていくことは決まっていたのだ。
「美和ちゃん」
「はい?」
冷えた麦茶の入ったグラスを運んできた美和に尋ねる。
「海は?」
「あ……」
名を聞いて、美和の表情が曇った。また何かあったのだろうか。
「部屋で寝ています」
「具合でも悪い?」
「いえ、あの」
実は、と昼間の出来事を雄太に話す美和。その内容に、雄太は露骨に眉間に皺を刻んだ。
「私は気にしていませんし、その方はあまりにも失礼すぎます。私は海さんが好きで、愛していたから結婚したのです。似たようなことは言われましたが、あの態度は初めてです」
「ああ、それは気にする必要はないよ。相手の言い方が悪い。俺だってそう言われたら、怒るだろうし……」
美和の説明で、海の心境が大体理解できた。
怒りで心を病んだわけではない――自分自身の過去を思い出されてしまったのだ。そのせいで身動きとれず、反論もうまくとれず、美和にフォローされてしまったことに落ち込んでいる――つまり自己嫌悪に陥っているだけなのだ。
「ちょっと海と話してくるよ」
「ですが」
「男同士の話だよ」
「……妻にも話していただけないのですか?」
悲しそうに呟く美和に、雄太は立ち上がりながら、当たり前のように言った。
「話してはくれるし、寝ている理由もわかってるだろ、美和ちゃんは」
雄太の言葉に、目を瞬かせ、少し考えてから静かに頷いた。
「海さんはとても優しいです」
「幸せ?」
「もちろんです。雄太さんも、律子さんと幸せになってくださいね」
気遣うつもりが、逆に気を使われてしまい、苦笑してしまう雄太だった。
海の部屋のドアをノックして、返事を待たずに中に入る。カーテンが窓からの光を遮断しているため、部屋の中は薄暗かった。電気のスイッチに手を伸ばす雄太。視界が開けて、ドアに背を向けて寝転んでいる海の姿が目に入ってきた。乱暴にベッドに腰掛ける雄太。
「何落ち込んでんだ、お前は」
返事がない。寝ているかどうかわからないので、好き勝手言うことにした。
「世間体がどうのこうのは、言われる覚悟あっただろ?」
「……でも」
「あと何年かの辛抱だろうが。そこまで気にする必要があるのか?」
「そうだけどさ」
「ったく、でかい図体して気が小さいな、お前は」
ぽかり、と軽く海の後頭部を叩く雄太。
「あんな言われ方は初めてだったしなぁ」
「美和ちゃんに聞いたよ。言っていることはともかく、あんな言われ方したら誰でも怒るだろうな。しかも人がいるところで言うのは論外だ。状況と空気を読めって感じだな」
気だるそうに起き上がり、雄太を見つめる海。どこか疲れている、そんな表情だった。
「美和を守れなかったよ」
「そこまで弱くないだろ、美和ちゃんは」
「それはわかってる、でもな」
往来の場所で守れなかったのは悔しかった。
母の死の間際を思い出すのも辛かった。
ありとあらゆる感情が混在しすぎてしまって、動けなかった自分自身が情けなかった。
「美和ちゃんもさ、両親が亡くなってまだそんなに日がたってない。お前だって、母親が亡くなって四年で、しかも美和ちゃんの件があって、思い出したりもしただろ?」
「そんなことあったな……」
美和の両親が亡くなって、懸命に支えながらも、海は過去の記憶に苦しんでいた。
母を失ったときの自分と、あまりにも美和が重なって見えてしまったのだ。
美和の笑顔を取り戻すため奔走し、父親に土下座して結婚するまで、散々苦しんでいたのを雄太は知っている。海の身近すぎる友人だから知っていた。海の母親が亡くなった時も、美和の両親が亡くなった時も見ている。今度一時帰国する恋人も。
「互いに家族が欲しかった、ただそれだけだろ? 早いか遅いか、それだけの話だろうが。世間体言われて落ち込む前に惚気れば、誰も文句言わないだろ」
「ああ」
海の父親は海外だ、美和も両親を失い、互いに頼るべき親戚もいない。
家族が欲しかった、いずれはそうなると決めていたからこそ、高校卒業と同時に結婚したのだ。まだ結婚して約三ヶ月しか経っていない。
「新婚が落ち込んでてどうする。しかも大学生活慣れて、念願の夏休みだろ? 落ち込む時間が勿体無い」
「だな」
大きく背伸びをして、ベッドから降りてから雄太に軽く頭を下げた。
「ありがとう」
「落ち込まれるほうが面倒だし、美和ちゃんも心配するぞ?」
「泣かれるのは困るからなぁ。あの可愛い顔が見られな……ぶっ」
枕を手に取り、海の顔面にたたきつける雄太。
「俺に惚気る必要はないだろうが、なんだ遠距離恋愛に対する嫌がらせか!?」
「明日には会えるだろー?」
「だから明日は送り届けるだけだ。今日は客室借りるからな」
大きな足音をたてて立ち去る雄太。なんだかんだといって心配してくれるお人よしだ。
明日は雄太の恋人であり、美和の親友の帰国だ。海にとっても友であり、世話になった恩人でもある。落ち込んでばかりもいられない。
ぱんっ、と頬を思い切り叩いてから、海は部屋を飛び出した。
菓子作りと夕飯の手伝いをするために、いつも通りの生活をするのだ。
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