第9話 狐の誘惑

しかし――家までの道のりは、そう容易いものではなかった。

小さな狐と時には隠れ、時には走って人に見つからないよう家に向かう。もちろん理由は、九つの尾を持つ狐がいるなんて知られたら玉藻前が暮らしにくくなると思ったからだ。いくら嫌いだ憎いだと言っても、私のせいで誰かが悲しむのは嫌だ。

だからこうも念に念を重ねて隠密行動をとっている、が。私はこんなにも焦っているというのに、この狐は「まるで忍者だ」とワクワクしていた。私一人が焦っているのが馬鹿みたいに思えてくる。

というより、やっぱり忍者は存在していたのか。私よりうんと長く生きている玉藻前は、忍者がいたであろう時代にも生きていて、会ったことがあるのかもしれない。道中、玉藻前に話を聞いてみると、全盛期には忍者と呼ばれるものが多数いたそうで、私も何度も狩られかけたと楽しそうに語る。なぜ殺されそうになっていたのにこうも楽しそうに話せるのか、私には玉藻前がよく分からなかった。


「着きましたよ。お母さんいないか見てくるので、ちょっとここで待っててください」

「うむ。承知した」


忍者の話で盛り上がっていると、いつの間にかうちの家はもう目の前だった。

相変わらず一々返事が偉そうな玉藻前にはその場で待機してもらい、私は一足先に家の中へ踏み入る。

家の中はしんと静まっていた。人の気配はしない。母は買い物にでも出かけているみたいだ。

母の不在を確認した私は、外にいる玉藻前に向かって、窓からちょいちょいと手招きをする。ぱあっと顔を輝かせた腹ぺこ小狐は、先ほどの言動が嘘のように素直に飛び込んできた。たとえどんな妖怪でも、食欲には勝てないらしい。まだ何も食べ物をあげていないのにやけにニコニコする玉藻前を見て、呆れに近い笑いが出た。

玉藻前には私の部屋でくつろいでいてと伝え、私は冷蔵庫にあるであろういなり寿司を取りに行く。これでもしいなり寿司がなかったら、今度こそ食われてしまうだろうか。いや、いなり寿司の代わりのもの――それも大好物の油揚げなんかを用意すれば食われる未来は避けられるだろう。探しながらそんなことを考えていると、イチゴジャムの後ろ側にそれはあった。

黄金色に輝く、本当は私が食べるはずだったいなり寿司だ。

目当てのものを見つけた私は、そそくさと冷蔵庫を閉めて逃げるように自室へ上がる。パタンとドアを閉じた後は、体の力が抜けるようにその場に座り込んだ。秘密事とは、こんなにも体力や精神をすり減らすものだったのか。改めて漫画で二重スパイをしているキャラに尊敬の意を示した。


「はい、いなり寿司ですよ。食い散らかさないでくださいね」

「高貴な私がそんな醜態を晒すわけなかろう。へへ……」


いなり寿司を前にヨダレを垂らすその姿は、高貴さのこの字もない姿だった。そしてそれに気がついていないというのも、まあなんだか玉藻前らしい。はくはくと一生懸命口を動かして美味しそうに頬張る玉藻前を見て、思わず笑いがこぼれた。

何日かぶりにありつけた食事には、とても満足してくれたようだ。

しばらくじっと見つめていると、小さい姿のせいか頬張る姿も愛おしく見えてきてしまう。しかし、相手は人を食う妖怪。もしかしたら私のことも食べるかもしれない妖怪だ。ここで油断や隙を与えれば、きっと後悔することになる。我に返り、モフモフの尻尾を掴もうとする自分の手を必死に押さえ、猫又さんの艶やかな毛並みを思い浮かべる。

そうだ、撫でたいならば明日猫又さんにお願いして撫でさせてもらえば良い。何も玉藻前を撫でなくても良いではないか。

頭で何度かそう唱えれば、いつしか「玉藻前を撫でたい」という気持ちは薄れていき、ついに消すことに成功した。その事にほっと安堵の息をもらす。このままだと、きっといつかこの狐につけ込まれてしまいそうだ。気を引き締めていかなければ。

そう思いながら、まだ食べている玉藻前に目を見やると。


「百合、百合! もう無いのかこれは! 私が今まで食べてきたどんないなり寿司よりも美味いぞ!」

「うぐ……っ! そ、そうですか。まあ……また作って貰えるように、お母さんに頼んでおきます」

「そうか!」


簡単に絆されてしまった。

ここに来てこんなに手ごわい相手と対面することになろうとは。

私が一人この狐の可愛さに押し負けたことを悔しがっていると、その原因が服の裾をちょんちょんと引っ張ってくる。それにも一瞬だけ悶えると、小狐はとんでもないことを言い出した。


「このいなり寿司の礼だが、私はお金? なるものは持ち合わせておらぬでな。だから、百合が困った時、私の名を呼べば一瞬で駆けつけてやるという権利をお前に授ける」

「えっ?」

「どうだ、誇らしいだろう。高貴な私の名を呼ぶだけで、一瞬で飛んできてやるのだぞ」

「あー……まあ、はい」


と、いうよりも、私にはそのシステムが某妖怪アニメのあれにしか聞こえなかった。

友達になった妖怪にメダルをもらい、助けて欲しい時には特殊な時計にメダルを差し込んで、友達妖怪が戦ってくれるアレだ。私も憧れて時計やメダルを集めていたっけ。

メダルや時計は貰わないけれど、アニメやゲームを嗜んでいた私からすれば、この現状に懐かしさを感じてくすくす笑う。

きっと知らずに、玉藻前なりに役に立てることを考えてくれたのだろう。


「ありがとうございます」

「……! ふ、ふふ、そうだもっと私を崇め讃えろ!」

「うわ……そういうとこですよ」


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