第8話 狐の頼み事
そんなしょうもないシャレを考えていると、目の前いっぱいに見覚えのある顔が映し出された。この顔はたしか……。
何度か瞬きを繰り返したあと、状況を確認するため私の腰あたりを掴んで浮かすモフモフと、視界いっぱいに広がるこの顔を交互に見る。そしてわかったのは、この大きな狐は間違いなく夏休み中に見た玉藻前だということだった。こんな時間に、こんなところで会うなんて最悪である。
私は正体がわかった瞬間に目を逸らし、ついでに顔を手で覆う。理由はもちろん食われると思ったからだ。何を隠そう、この玉藻前は夏芽さんのご友人を殺した妖怪で、ついでに私のこともあまり好いていない様子。
人間自体が好きじゃないというのもあるだろうが、私はとにかく食われる要素満載なので顔を隠して目を逸らした。まあ、尻尾で捕まえられた時点で気づかれているとは思うけれど。
「おい小娘……ではなく、百合」
ほらやっぱり。
この狐に「おい」と言われたことが少々腹が立つが、ここで反応しては相手の思うつぼ。私は苛立ちを心の奥底に沈めて、あっけらかんとして「人違いじゃないですか」と言い放った、が。
「人違い? そんなわけないだろう。そこの林から出てくる小娘は変わり者のお前だけだ」
「うっ……」
痛いところを突かれた私は、思わず押し黙ってしまう。たしかに玉藻前の言う通り、年頃の女子中学生がこんな林の中から出てくるはずがない。それも浮かれた表情で。
もっとマシな嘘を吐けば良かったのだろうか。いや、そもそもバレているのだから吐いたとしても無駄だろう。
玉藻前相手に私が引くのはとても癪だが、早く家に帰るためにもここはもう潔く諦めるしかない。とても癪だけれど。
「そうですよ、百合です。何か用ですか。早く帰りたいので手短に済ませてください」
「なぜそんなに生意気な態度をとるのだ。夏芽にされるならまだしも、お前にとられる筋合いは…………ああ、いやなんでもない」
「?」
ゴホンっと話を変えるように大きな咳払いを一つした玉藻前は、今までずっと腰を掴んでいた尻尾を地面に近づけ、ゆっくりと私を下ろした。
帰してくれるのか。そう期待したのも束の間、先ほどまで乱暴な態度をとっていた玉藻前が、私に対して急に恭しく頭を垂らした。あの自己中心的で荒々しいこの玉藻前が、それも嫌っている人間に対して頭を下げるなんて。
その態度の変わりように私が軽く引いていると、しばらく静寂の時間が流れた。
玉藻前は頭を下げたままピクリとも動かないし、私は戸惑いを隠せず帰るに帰れない状況。まさにカオスである。
こんな時、夏芽さんはどうするだろうか。頭の中で夏芽さんを思い浮かべ、彼女の日々の言動を記憶のタンスから引っ張り出しながら考えてみる。何か手がかりがあるかもしれない。
しかしそんな期待は淡く散り、私の頭の中での夏芽さんはすぐさま心を読んで会話をしてさようならだった。全く参考にならないとはこのことである。人外かもしれないこと以外は平凡な人間の私がもちろん心なんて読めるはずもなく、思考は振り出しに戻ったのだった。
いっその事置いて帰ってしまおうか。考えることさえも面倒くさくなった私は、ついに帰ることを決断する。だって、このままだと小一時間は待たされそうではないか。待つのがあまり好きでない私にとって、それは拷問と等しい。
ということで、ピクリとも動かない玉藻前をその場に残して、私は抜き足差し足忍び足で家に帰ったのだった。
――なんてなるはずもなく。
「少し待て。お前に頼みたいことがある」
「もう充分待ちましたし、頼み事を受けるほど仲良くないです」
「く……っ! 悔しいがその通りだ。というか私もお前に頼み事など……いやなんでもない」
ちょっと待て。この狐、今「こっちだってお前に頼みたくないわ」的なことを言いかけなかったか。私が耳を疑っていると、玉藻前がボソリと「苦渋の決断だ、仕方ない」と呟く声が聞こえる。
いや、それを私が言うならまだしも、なぜ頼む側の玉藻前に言われなければならないのだ。怒りというよりも心底疑問という感情がふつふつと心を渦巻き、だんだんと額にしわが集まっていくのが自分でもわかる。
「…………その、私はここ数日間何も食べておらんでな。腹が減っているのだ。何かないか、こ……百合」
「無いです。さようなら」
「えっ? ちょ、待っ……!」
人の気持ちも知らずに、玉藻前は何か食べ物をくれと言ってきたので、私は早々に狐に背を向けた。先ほど想像した夏芽さんの行動がここで役にたつとは思いもよらなかった。
そして玉藻前の言葉に、もはや頼んできたとも感じられないのは私の器が小さいせいなのかと自分に問う。
否、きっと玉藻前も頼んでいるという気はないのだろう。下僕に食料を調達してこいと命令しているような感じだ。
そんなやつにあげる食べ物を私は持ち合わせていない。
悪いが他を当たってくれ、という気で身を翻し狐から遠ざかって行った。
しかし、本当にお腹が空いているのか、執念深い狐は私の前に立ち塞がり通行の邪魔をしてくる。正直言って面倒くさい他ない。私は早く帰って課題を終わらせなければならないのに。
「邪魔です。どいてください」
「食べ物を渡さぬ限りここは通さない」
「うわぁ……」
典型的なおじゃま虫ではないか。
ああ、ここに夏芽さんがいたらどんなに良かったか。天狗さんと猫又さんも猫会議に行っていて不在だし、本当に自分の運の悪さを呪った。
その後、数十分くらいその場で退く退かないの言い合いをしたが、玉藻前は一向に引かなかった。それだけ空腹なのか、はたまた私に対する嫌がらせか。
どちらにせよ、食にありつきたいがために嫌いな私に対して必死に説得してくる玉藻前が、何だか哀れに見えてきた。
それに……、これだけ腹が空いていると言っていても私を食べようとする気配は一切ない。例えフリをしていたとしても、腹が減ったを理由に見境なしに人を食べないという点は意外だった。
私は再び恭しく頭を下げる玉藻前を見ながら短く息を吐く。
「……狐って、何食べるんですか」
「……! 油揚げだ、油揚げにしろ!」
「はいはい、分かりました」
まるで犬のように九つの尻尾を振り回す玉藻前に、思わず笑みがこぼれる。そんなにお腹を空かせていたのかと。
油揚げでは無いが、たしか冷蔵庫にお母さん特製のいなり寿司があったような気がする。私用に作られているため、普通のより少々甘味が強いかもしれないが、まあ玉藻前だし大丈夫だろう。
「とりあえず、小さくなってください。目立つので」
「ふむ。……これくらいか?」
「はい。それくらいで大丈夫です」
家にあげるには大きすぎるのと、この大きさで歩かれたら目立つので子犬サイズくらいまで小さくなってもらった。少しだけ可愛いと思ったのは、あの哀れなお辞儀を見たすぐ後だからだろう。そう、決して惑わされてはいない。
ヨタヨタと歩く小さな小狐と化した玉藻前の横を歩く。
……ここだけの話、やはり少し可愛いと思った。だが、本人に言えば調子に乗るので、口が緩まないよう家までの道のりはずっと手で覆っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます