第57話

「イシュメル、どうしてここに?」

「いくらやりきれない戦いだからって、タイチを見捨てるわけにはいかないもの! これは神威衛士の義務とか家柄の因縁でもない! 今度は私が、タイチを守るって決めたの!」

「下がっていろ。そいつは今までの幻鬼とは次元が違うし、ノルガの制御下から完全に離脱している。それに、お前には帰る場所があるだろ? お前に何か有れば悲しむ人たちがいるだろう?」

「タイチには、そんな人が居ないっていうの?」

「いなくなったよ。たった今。俺の見ている前で、最後まで俺を見守ってくれたコトミさんまで、幻鬼の手に掛かった。アイツは、俺が差し違えてでも地獄に送らなければならない」

「馬鹿野郎!」

 威勢のいい怒鳴り声がその場の空気を切り裂いた。見覚えのある堂々たる背中がタイチの前に躍り出る。

「タイチ、何か一つ勘違いしているぜ。俺達の気持ちを考えろよ。お前が居なくなって誰も何も思わないなんて言うなよ」

「アーロ・・・・・・」

「タイチが昔、幻鬼に故郷を滅ぼされたって、自分から今ある居場所を捨てることなんてないじゃない。お願いだから、帰って来てよ、私達の待つ所へ!」

 肩を震わせて涙にそぼ濡れるイシュメルの頬をタイチは撫でた。

「ごめんな。俺、大事な人にまた悲しい思いをさせようとしていた。そんな人達を作らないために神威衛士になったはずなのに」

 タイチはイシュメルの後ろへと歩き出す。ダーケスト・フォーは瓦礫を一つずつ踏み越えながら着実にタイチに迫ろうとしていた。

「イシュメル、帰ろうぜ。皆の待っている赤の帝都へ」

 その言葉にイシュメルは喜色を浮かべて立ち上がる。

「その前に、コイツを何とかするか」

 幻鬼が剣を構え直す。その剣が紫色に光り始めた。

「またさっきのが来るのか?」

 その時、飛び出したアーロがダーケスト・フォーの斬撃を大胆にかわして短槍の矛先を騎士の向う脛に叩きつけて足払いをかけた。思わぬ方向から打撃を受けた騎士の身体は天を仰ぎ、タイチ達を狙った攻撃は上空へとねじ向けられてしまった。紫色の光波は空の中に消え、周囲の雲を霧散させて大きな蒼穹の一点を作り出した。

「今だ!」

 アーロの合図に呼応したのはタイチではなく、銀縁眼鏡の神威衛士だった。ノルガのカニバリズム以来謹慎を命じられているマクスファーだった。態勢を崩した幻鬼に向かって彼は何度も斬りつける。マクスファーの膂力ではやはり鎧の守備は破れない。やがて横一線に剣を振り払うとマクスファーは十分な間合いまで下がった。

 マクスファーはいかつい目で幻鬼の全身を眺め回す。幻鬼の鎧で何かが弾ける音が立て続けになると、鉄環やら留め金の類のいくつかが外れて地面に落ちた。

「《撃力》で傷つけた割れ目に《発散》のエッセンスをくさびのように打ち込んだつもりだったが、思った以上にきかなかったか」

 マクスファーは眼鏡を掛け直しながら悪びれた。

「マクスファー!」

「あの幻鬼に暴れられてこれ以上僕の恥を上塗りされるのは御免だからな」

 マクスファーを通り過ぎてタイチは駆け出した。幻鬼の鎧の損傷は激しく、関節のある角度での動きがややぎこちない。それでも強大な戦力はまだ保持している。肉迫するタイチを見つけるとそれを迎え撃つべく幻鬼は天に剣を掲げた。

「させるか!」

 背中から飛び突いたアーロがダーケスト・フォーの剣を我が身の巨躯で押さえつける。ダーケスト・フォーは身を左右に振ってアーロを何とか振り切るが、その頃には完全にタイチに機先を制されていた。

「うわあぁ!」

 タイチの勢いは止まらない。一度に限らず二度も三度も繰り出される剣は鎧の防御を出し抜いて幻鬼の騎士は耐えかねて悲鳴を上げた。だが相手もやられてばかりの手ぬるい手合ではない。自分の肉を切らせながらも、幻鬼はタイチの骨を断つつもりで次の一撃に期待と勢力の全てを込めて振り下ろす。それは丁度、ヴィルテュが幻鬼の左肩の付け根を貫いた時だ。ヴィルテュが防御に転じるには手遅れだった。

「タイチ!」

 自分を狙うその剣を、タイチは左腕で受け止めた。しかし腕は斬り飛ばされなかった。タイチの袖の裏にはヴィルテュの予備の鎖が巻き付けられていたのである。

「かかったな」

 タイチは左腕を軽く払い、奇術のような手の動きでダーケスト・フォーを鎖でがんじがらめにした。そして自分はヴィルテュの剣と鎖にしがみつく。

「イシュメル、今だ!」

 背後からイシュメルは地面を蹴り上げて剣を空に閃かせた。イシュメルのエッセンスならばこの幻鬼の鎧に打ち勝てる。タイチ達の命がけの攻撃は本命の彼女に攻撃のチャンスを託すための揺動だったのだ。

 イシュメルは裂帛の気合に満ちた声を上げて幻鬼の黒い甲冑に一閃を描いた。兜の頭頂部から腰まで続く斬撃の合間から幻鬼の紫色の鮮血が噴き出た。

「やったか!」

 黒の鎧が崩れかけ、反対側のイシュメルの姿が現れるはずだった。ところが幻鬼の両足は持ち応え、深手を負わせたイシュメルにおぞましいほどの殺気を放った。

「逃げろ、イシュメル!」

 イシュメルは動けずにいた。人間を生き物とも思わぬ殺し方をするダーケスト・フォーに本物の殺意を抱かれたのだ。タイチがヴィルテュの刀身を引き抜くのと同時に幻鬼の湾曲した剣はイシュメルの姿を映し出していた。それが虚空を斬ってイシュメルの肌身に迫ろうとしたその時、幻鬼の動きは時を止めたように硬直した。

「何が起こった?」

 幻鬼は振り上げた剣を下ろそうと足掻くが、あたかもヴィルテュの鎖が巻き付いたかのように肘を曲げられずにいる。

「何をしている。ソイツを早く止めるのだ!」

 ノルガは血のにじむ脇腹を抱え、歯を食いしばりながら詠唱するノルガが幻鬼に制動力を課していたのだとわかった。

「ノルガ、どうして」

「俺は神威衛士を憎むが帝都の破滅は望まん。無駄な話をしないで早くしろ」

 タイチは頷くより先に今しがたイシュメルが刻んだ鎧の傷にヴィルテュの刀身でなぞった。寸分たがわぬ噴き出した紫色の血は背中だけでなく正面からも横溢して、胸甲の内側から刀身がつんざいた。幻鬼の手から湾曲刀がこぼれ落ち、崩れた鎧姿は爆砕するように青の炎に包まれた。

「終わった」

「タイチ=トキヤ・・・・・・」

 振り向くと、燃え盛る炎の中に外套を脱ぎ捨てたノルガが一人佇んでいた。その表情はどこか無念そうであり、満足感に浸っているようにも見えた。

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