第53話 犠牲

「げっ!! 何が起こりやがった?」

 顔を醜く歪めた幻鬼術師、ユリネが空を見上げた時には、彼女のブラッディワスプは尽く地面に叩き潰されて燐光を炎々と燃えあがらせていた。

「エリーレさん、大丈夫か?」

「タイチ君、君は!」

 コトミが驚いて振り返る。

「ええ、しばらくすれば神玉の力で何とか治るわ。でも、毒が体に回らないために暫くは動けない」

「そこで待っていてくれ。もう誰も死なせはしない。皆で生きて帰るんだ!」

「また貴様か」

 氷のように冷めた声がタイチを捕らえた。ノルガが憎悪の眼差しを注いでいた。その間にユリネが杖を構えて割り込む。

「何だ? まだいたのか?」

「ふざけんじゃねええよ! いきなり空から降って来たと思えばよくもブラッディワスプを!! 恥を知りやがれ! この卑怯者! タマ無し野郎!!」

「タマならあるぜ。もちろん、神玉の話だ」

「タイチ君・・・・・・それ、下ネタ?」

「うるさい! こっちは命張ってんだ!」

「俺が剣を振るうのは幻鬼だけだ。幻鬼術師とはいえ、人間を斬るつもりはない。それこそ幻鬼と同じだからな」

「つべこべ言ってないで、さしで勝負し・・・・・・うっ!」

 ユリネの細い首が雷に打たれたような衝撃に襲われ、気絶してうつ伏せに倒れた。背後から回り込んだノルガが素早く杖でユリネのうなじをしたたかに打っていた。

「黙れ」

「タイチ=トキヤ。まだ神威衛士のまやかしに囚われているのか?」

「それはお前の方だろ? あの日の記憶は今も俺の中に鮮明に残っている。それに、テトラ姉ちゃんが守ろうとした俺が何よりの証拠だ。それをお前なんかに消させてたまるか!」

「捏造だ! 我が憎しみの炎で消し去ってくれよう」

 ダーケスト・フォーは言葉の代わりにおたけびに似た荒い喊声を上げた。そして腰の鞘から刃の出張った湾曲刀をゆっくり引き抜く。柄にも口から刀身を吐き出す竜の頭が彫られていた。

「来るぞ!」

 ダーケスト・フォーの握っていた剣の刀身が紫色に染まり、その場から一歩も動くことなく無造作に振り下ろされた。ただ虚空を切り裂いたはずのその刀身は赤い軌跡を描き、その軌跡は一陣の風のようにタイチを捕らえようとした。身を横に滑らせたタイチの右を極熱の衝撃波が刹那の間に通り過ぎていく。

「今の攻撃は・・・・・・」

 幻鬼の繰り出した大技を言葉で表現しきれずにいるタイチの後ろで地滑りのような轟音が響く。振り向くとデリトリオン神殿を囲む壁の一郭が支柱を抜かれたように脆くも崩れ去り、闘技場内は濛々たる砂塵と黒煙に満たされる。やっと粉塵が落ち着いた時には神殿の壁どころかその外周に建ち並んでいた家屋までもが、巨大な蛇が這ったように跡形もなく消し去られている。

 だがそれは、幻鬼の本来の力ではなかったのだ。なぜならその一撃はコトミの捨て身の防御により最小限に防がれたのである。

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