第8話 無敵の斬撃

「敵をこの程度で倒せるとは思ってないし」

横たわる木枠が粉砕され、大きな黒い影が煙のように巨大な図体を日の下にさらした。炭のように真っ黒な厚皮と力こぶに覆われた筋骨隆々とした巨躯の猿人。背丈はエリーレの五倍はあった。その頭部だけは鉄の兜が覆い、顔の面積の半分を占める大口だけを認めることが出来た。身体がでたらめに大きいせいか、頭はアンバランスなほど小さく見える。

「化け物・・・・・・」

「これが、噂の幻鬼かよ」

観客達はそのおぞましい姿を見ただけで慄然とし、言葉をなくした。気の弱そうな貴婦人はその姿を目の当たりにして半狂乱の悲鳴を上げ、失神した。

「少し小さいけど、まあいいか」

自分よりずっと高い頭を見上げるエリーレは臆するどころか落胆した様子を一瞬見せたが、すぐにその濃緑の瞳には全身全霊を込めた闘志が宿る。観客達が巨大な猿人を呆然と眺める間に、エリーレは猿人に戦いを挑むべく、前へと踏み出した。


黒い幻鬼は地の底を揺るがすほどの咆哮を轟かせ、エリーレを迎え撃つ。エリーレもまた、後ろに縛った髪をなびかせて幻鬼の正面から肉迫した。

機先を制したのはエリーレだった。エリーレは素早く身を翻して懐に潜り込むと、精彩を放つ刀身を閃光の如く輝かせながら怪物の向う脛、脇腹、背中の順に斬りつけた。長期戦を避けるべく機動力を最大に発揮して敵に損害を与えるつもりなのだろう。

軽快な健脚が幻鬼を翻弄する。彼女の繊手が握る無反りで細身の剣は無数の楕円軌跡を描き、飛び散る紫色の体液が闘技場の大地を染めた。散々に手傷を負わされた幻鬼はうずくまる様に膝をつき、抵抗する力を削られていった。

「すげえ」

幻鬼を剣で切り刻むエリーレの勇姿に観客達は恐怖を忘れて歓喜した。彼らが瞠目したのは卓越した剣技だけでなく、圧倒的な体格差を誇る怪物に果敢と立ち向かう少女の勇気だった。あるいは、勇気という言葉には語弊が有るのかもしれない。まるで自分の命を一切惜しまない破滅的な精神ともいうべきだ。

 しかし幻鬼もやられてばかりではない。片手で引きずる様に持っていた棍棒を力任せに闇雲に振り回す。巨木一本から丸ごと削り出したような巨大な棍棒。当たれば身体はボロ布みたいに引き裂かれる。しかしエリーレは風をつかむように空中で身を翻し、虚空を切り裂く棍棒はかすりもしなかった。そして空振りで態勢を崩した幻鬼にはエリーレの返し技が必ず報いた。

 遂に耐えかねた幻鬼は戦意を喪失したのか、頭を抱えながら膝をつき、身体の均衡を崩して四つん這いになった。

「この程度?」

エリーレは幻鬼の背中を渡り歩いて、その頭部に止めの剣を突き立てようとしていた。エリーレが逆手に持った剣でその頭部を断斬しようとした次の瞬間、幻鬼は急に頭を上げてエリーレを虚空に投げ出した。

「しまった!」

すぐさま振り向き、エリーレの首を鷲掴みにすると棍棒を放り投げ、両手で彼女の細い首を絞めつける。その衝撃で髪留めが外れ、ライトブラウンの髪がふわっと広がった。

「あっ、うぐっ」

エリーレは手足をばたつかせながら呻き声を漏らす。縄ほどもある太く黒い指は彼女の細い首をへし折りそうな強さで食い込み、爪に引っ掛かれた色白の肌から赤い鮮血がにじみ出る。

「いいぞ、そのまま絞め殺せ!」

今度は黒外套の集団が席を立ちあがって高揚する。外套の下から怪しい光を放つ彼らの目は、神威衛士への敵愾心と嗜虐心で光っていた。

「なんてね」

エリーレは手にした剣を幻鬼の腕に添える。すると彼女の鎧の内側の胸部から緑色の光がみなぎり、それが携えた剣に伝わって刀身の輪郭に重なった。そして気が付くと、幻鬼の丸太ほどもある腕が斬り飛ばされていた。その勢いたるや、剣を折るつもりで力任せに斬りつけても一筋縄ではいかないあの腕が、裂帛のように綺麗な断面を残してあっさりと胴から離れたのだ。

「私に斬れないものなんてないのよ! とおりゃあぁ!」

 空中で身を捩らせたエリーレは幻鬼から解放されると、矢継ぎ早に反撃へと転じる。対抗する幻鬼は棍棒を拾い上げると同時に上へスイングする。頭を狙って幻鬼の眼前に飛び込んできたエリーレの一撃とほぼ同時だったが、エリーレの剣は棍棒を切り裂いてもなお、その勢いが衰えることはなかった。

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