第7話 対戦
闘技場にはまだ誰もいない。唯一、西側の扉だけが口を開けているのみだ。あの入り口はこの神殿の地下通路に通じている。やがて松明だけの薄暗い明かりの中から一つの影がその実態を現した。それは微光を放つほど容姿端麗な一人の少女。ベルトにやや細身の直剣を差し、くびれた腰を強調しながら歩く。決して長身とは言えない彼女の体のラインに合わせて、なよやかな曲線を描く白銀の甲冑の隙間からは、月下に照らすような白い肌を露出させている。柔らかなライトブラウンの髪は紗の布で後ろに一束ねにしている。
闘技場の入場口から次第に照らされる彼女の表情は武人にしておくには惜しいと思わせるような美貌の持ち主。闘技場を初めて訪れた者は、誰もが彼女がその場所に立つ理由を知りたくなるだろう。
「エリーレ様!」
夕日に映える彼女の姿を認めた観客達は熱狂的な声援を送り続ける。エリーレ=クレイゼルの名はデリトリオン神殿の高い壁を乗り越えて、帝都中に轟くほどの絶大な人気だった。純粋に彼女の容姿と技量に憧憬の念を抱く者、神殿で行われる行事の顛末に今宵の食費を賭けた者、あるいは気高さと美貌を持つ美少女がいつか倒れる日を密かに待ちわびる変わった趣向の持ち主と、様々な思惑の声が混じって本人の耳に届いていることだろう。
「エリーレ様、どうか忌まわしき邪神からこのデリトリオン神殿をお救い下さい」
頭もひげもすっかり白くなり、背が丸くなった神官が付き添いながら、ひたすらエリーレに懇願していた。
「わかっているわ。絶対に勝って見せる」
エリーレは満場の観戦席をぐるりと見まわした。後ろの髪が吹き抜ける風を受けて華麗にはためく。
「それにしても今日も満席ね」
埋め尽くされた神殿の景観を確かめたエリーレはさも満悦気な表情で闘技場の中心を目指す。
闘技場を見渡すバルコニーから、さっきの神官とは別格の煌びやかな装飾と絹の法衣をまとう司祭が躍り出た。皇帝の勅命の下、このデリトリオン神殿で神聖決闘を司る聖職者階級、司儀官である。準備万端整ったエリーレを目視で確認した彼は高く杖を掲げて、赤く染まりつつある天に向かって声を張り上げる。
「デリトリオン神殿に集いしテイセリスの臣民よ。神の御元において開催される神聖なる決闘の立ち合いに感謝する」
エリーレは凛々しい面差しで正面の扉を睨みつけ、腰の剣の柄に掌を添えた。彼女が片時も目を離すことのないその先は全面を黒金で裏打ちされた重々しい扉、扉の奥には尋常ならぬ気配が立ち込めていた。何者かが闇の向こうで彼女を狙っているという緊張感は遠く離れた客席からも窺い知ることができた。
「幻鬼の召喚、整いました」
重々しく頷いた司儀官は今一度闘技場を振り返る。そして身の丈よりも遥かに長い杖の石突をついた。
「皇聖歴三十五年、十一月二十四日、テイセリス帝国第二十八代皇帝の御名の下に、これより神威衛士、エリーレ=クレイゼルと幻鬼術師、アルガ=イーダンのカニバリズムを開始する。幻鬼を解放せよ」
合図を受けて、重い扉が錆をこぼしながらゆっくりと引き上げられる。観客は固唾をのんで扉の奥を見守った。
つややかな髪を背に避けて、エリーレも背をかがめて身構える。細く長い足が大胆に開くと男の視線はもう釘付けだ。腰の剣には手を掛けるが、まだ鯉口さえも切っていない。その表情には恐怖など微塵も感じさせず、過剰ともいえる自信だけがみなぎっていた。
「何だよ、まだかよ」
扉が開いて五分、扉からはまだ何者も姿を現さない。目立った動きのない闘技場に観客達はしびれを切らしていた。司儀官達でさえ、思わぬアクシデントに動揺を隠せずにいた。
「幻鬼はどうした?」
「調べるのは危険です。幻鬼術師以外の人間を幻鬼は襲います」
「だからと言って帝国の主催する決闘にかような不祥事など・・・・・・」
突然、扉の方から爆発音がした。土煙を上げる門の前にはえぐられた地面が続き、その先にはエリーレが剣を抜き放っていた。まるで時間が細切れにされたように、まさに瞬間的な早業だった。
「今の、何が起こった?」
「風みたいなのが横切ったみたいだったけど、早くて見えなかった」
「卑怯だぞ! 騙し討ちか!」
罵声を飛ばしたのは闘技場の隅に固まって詰めかける黒衣の集団。帝都の臣民とは明らかに異なる装束で、その言動はお世辞にも品性をわきまえているとは言えない。中には赤の帝都で禁忌とされている卑猥な手つきをする者もある。しかしそんな口さがない批判にもかかわらず、エリーレは泰然としていた。
「仕方ないでしょ。いつまでも待っていられないわ。それに」
崩れかけた入り口から足音が近づく。地響きの振動がデリト石の亀裂に拍車をかけて、入り口自体が今にも崩れそうだ。
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