第3話 急襲
そこで彼が見たものは故郷の村ではなかった。強いて言うならばその廃墟であった。家も教会も石の残骸と化し、炎々と燃える家屋から立ち込める煙は村を晦冥に変えた。その火柱の向こうに、彼は熱気を透かして揺らめく山嶺に似た巨大な影を見つけた。
それは大きな人型をしていた。だがそれは首から下までの話だった。そこから上は、首の部分から徐々に鱗で覆われて、中天に至る高さには巨大な蛇の頭が坐っている。爬虫類特有の表情のない慧眼は、その周囲を飛び回る小さな影を執拗に追い回していた。
その小さな影が実は巨大な影に立ち向かうテトラの勇姿だった。身体の随所に傷を負い、外套や鎧の一部を失いながらも、彼女は蛇の巨人の隙を見つけては果敢に飛び込んで腰に収めていた剣を振るう。ところがその剣は蛇の巨人の骨を断つにはあまりに短すぎた。彼女の斬撃はその血の気のない青白い皮膚に切れ込みを入れるにとどまり、その後は蛇の巨人の容赦ない反撃に逃げ回ることになる。
テトラは飛燕のごとく火の粉の舞い散る空を自由に駆け巡り、間一髪のところでそれを躱した。彼女が退避した家の屋根に少し遅れて巨人の拳が墜落し、その跡には柱の一本も残らなかった。
「テトラ姉ちゃん!」
孤軍奮闘するテトラに向かってタイチが叫ぶと、彼女は戸惑った表情で叫び返した。
「どうして来たのよ! 君は早く逃げなさい!」
タイチは衝撃を受けた。村を襲ったこの世のものとは思えない蛇の巨人を目の当たりにした以前に、あのテトラが追い詰められることの方がよほど信じられなかったのである。
気圧されたタイチが自分も戦うと豪語するなど、出来るはずもなかった。
「だめ! その子には!」
その時の二人の束の間のやり取りが、タイチにとって命取りとなった。慧眼の矛先をタイチに変えた蛇の頭がそのまま伸長してタイチに襲い掛かったのである。タイチにはその情景が、自分に向かって蛇の頭が飛んでくるように見えた。
ところがタイチは次の瞬間に何も見えなくなった。それは蛇に飲まれたからではなく、テトラの背中が彼の視界を奪ったからだった。小さなテトラの呻吟の声にタイチは我に返った。
「テトラ姉ちゃん?」
テトラの身体は角のように湾曲した蛇の二本の牙に貫かれていた。それにもかかわらず、テトラは持っていた剣を大きく開いた蛇の喉元にねじ込んだ。思わぬ反撃を受けた蛇の頭は悶えながら巨人の首の上に戻る。そして何度か嚥下するようなそぶりを見せると再び体勢を立て直してテトラを睨みつける。魚の小骨のように剣を丸呑みされて、満身創痍の彼女に戦う余力はなかった。
「くっ」
何度も気を失いそうになりながらも彼女はタイチをかばい続けた。タイチにとって、この時ほどテトラの背中が大きく見えたことはなく、今までテトラの身長の低さを嘲弄した自分を恥じた。しかし、それでも蛇の巨人の姿はテトラの背中の向こうから上半身を覗かせるほど巨大だった。
「この子だけは、何があっても」
蹌踉とした足取りで数歩進んだところで、テトラの身体が急に消えた。それは巨大な蛇の尾が風を唸らせたのとほぼ同時であった。蛇の尾に弾かれたテトラは民家の壁に勢いよく叩きつけられた。
「うあぁ!」
タイチは喊声を上げながらテトラに駆け寄った。テトラが目を半開きにしてタイチの姿を認めると、彼女はタイチの小さな手を取った。
「早く、逃げなさい・・・・・・」
「何でだよ! おれはテトラ姉ちゃんを手伝うつもりだったのに、どうしておれを助けたんだよ!」
火の手が轟々と上がる炎の原野にぴしゃりと平手打ちが飛んできた。それはテトラが初めてタイチに見せた厳しさだった。
「そんなこと言わないの」
「だったらテトラ姉ちゃんの仇は!」
タイチは憧れていたテトラの剣を握りしめる。剣は想像以上に重かった。テトラの流麗な剣捌きを見ていたタイチにはそれが信じられなかった。しかし、タイチの復讐心を留めたのは剣の重さではなく、彼の手に重ねられたテトラの手だった。
「ダメ、あの幻鬼と戦っちゃ」
「だってアイツは!」
「タイチは神威衛士になるんでしょ! ここでその夢を諦めちゃダメ。それより、約束して。目の前の敵を憎むより、目の前の人を助けるって」
テトラはよろめきながら何とか立ち上がり、蛇の頭の巨人と向かい合う。
「アンタだけは、絶対に!」
テトラの声がそこで止まった。身体を硬直させ、やがて彼女は崩れ落ちた。テトラに止めを刺したのは蛇の巨人ではなく、火の海から現れた外套をまとう人影だった。素顔は見えなかったが、尋常ならぬ殺気と狂気が感覚的にタイチにも伝わってきた。
「神威衛士の小娘が」
外套の中から聞こえた男の声は倒れたテトラに向かって吐き捨てるように言った。
「何だ、子供か」
外套の男はタイチを視野に入れるが、まるで相手にしていなかった。やがて踵を返した彼は火影と陽炎に満ちた景色の向こうへ姿を消す。
「テトラ姉ちゃん!」
外套の男が去るとタイチはテトラに駆け寄った。顔を上に向けた時、テトラは全ての苦痛から解放された安らかな顔をしていた。
「うあぁー!」
泣きじゃくるタイチは彼女の懐から何かが転がったのを見つけた。それは滄溟のようにどこまでも深淵な青を秘めた玲瓏な宝玉だった。
「ウソだ! テトラ姉ちゃん!」
タイチは宝玉を握りしめながらテトラの体をゆすった。テトラの落とし物を彼女が受け取ってくれることに一縷の望みを託したのだ。だがテトラの身体はタイチの微力に任されるだけで全く意思がなかった。
「何すんだよ。 テトラ姉ちゃんを返せ!」
タイチは言葉一つ一つに憎悪を込めて蛇の巨人に立ち向かう。その時タイチには、焼かれた村の黒煙に紛れて何かが蛇の巨人の背後に取りついたのを見た。その後に一条の紫色の光の柱が出現し、それは次第に太くなって蛇の巨人の全容を包み込む。
タイチが覚えているのはそこまでだった。気が付けば彼は誰かに救出されて隣の村の教会に保護されていたのだった。落ち着いたところで神父の口から助かったのは彼一人だと告げられた。それは幼い少年にとってあまりに酷な現実だった。
「テトラ姉ちゃん。おれ、絶対に神威衛士になるから」
誰もいなくなった教会の一室で、タイチはずっと握りしめていた碧玉に誓った。掌に握るその石の正体を神玉と知るのは、それから三年後のことである。
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