第2話 戻れ
淡緑の新芽も濃緑に染まりかけた頃、テイセリス帝国の南に位置する丘陵の中を、一人の少年が目前の石造りの堂を目指してつづら折りの道を辿っていた。手には途中の木立から見つけ出した小枝を握りしめている。
「タイチ!」
葉擦れの音に混じって、声変わりしていない男の子の声が大木の上から少年の名を呼んだ。木洩れ日のゆらめく頭上を眺めると、彼と同い年位の幼い少年が二人、枝に身体を預けて見下ろしている。その下にはやや年上の少女が大木の幹に寄り添うように立っていた。スカートを気にして木登りを遠慮したようである。
「また神威衛士(しんいえじ)の所に行くのかよ?」
枝から飛び降りた少年はタイチの前で見事に着地した。
「神威衛士の所へは行くなって、母ちゃんが言っていたぜ」
続いてもう一人も飛び降りるが、着地がややぶれた。
「どうして?」
「あの人達はね、帝国を守るために一生懸命働いているの。だからタイチと遊んでいるほど暇じゃないの」
女の子がやや大人ぶった言い方をした。
「でも、テトラ姉ちゃんはいつも鍛錬してくれる」
「テトラ姉ちゃんだって、タイチの相手ばっかりしていられないよ」
「だったらおれ、いつか神威衛士になってテトラ姉ちゃんを助けてあげる」
それを聞くと彼らは一斉に噴き出した。
「聞いたか? タイチが神威衛士になるってさ!」
「お前みたいなチビが?」
「だから強くなるためにテトラ姉ちゃんの所に行くんじゃないか!」
タイチは感情に任せて反論したのだが、それは実に的を射ていたもので、子供達は笑いを止めて黙然と彼を見つめていた。
「でもね、タイチは神威衛士になれないのよ」
沈黙を破ったのは少女のませた口調だった。
「どうして?」
「神威衛士になるにはね、神玉が必要なんだって」
「しんぎょく?」
「あ、神話で聞いたことがある。この国を作った神様が、人間の世の中に変えるために作った七つの宝玉ってやつだろ?」
「神玉がなければいくら強くても神威衛士にはなれないの。そんなことより、家の手伝いでもしたら?」
少女はつづら折りの道をタイチとは反対方向に下った。二人の少年も彼女に続いて麓の小さな村へと帰って行った。
「でも、おれが頑張らなきゃテトラ姉ちゃんを誰が助けるんだよ?」
少年は気を取り直して歩みを進め、目的地に到着する。少年の背丈の五倍ほどもある石垣に囲まれた建物は辺境警備隊駐屯所と呼ばれ、地方の治安を監視する神威衛士達の牙城となっていた。テトラなる人物もまた、ここに常駐しているのだ。
「何だ、お前? ミュートフ村のガキか?」
門前のタイチを見かけた門番役の神威衛士は急峻な山のような偉丈夫で、正体不明の幼い来訪客を見咎めた。鎧に包まれたそのガタイはタイチに底知れぬ威圧感を与えた。
「テトラ姉ちゃん、居ないの?」
「テトラ様だと? あの方はこの第二十三辺境警備隊を統括される将校であるぞ。お前みたいな小僧の相手など」
「私がどうしたって?」
静謐な女性の声が門番の恫喝を一瞬にして消し去る。振り返った門番は熊にでも出くわしたように慌てふためき、ぎこちない動作で敬礼した。門の奥には駐屯所の本館へ至るまでの石畳が真っ直ぐにしかれ、その中心を一人の神威衛士がこちらへ向かってきた。彼女とすれ違った神威衛士達は階級も年も関係なく居ずまいを正して敬礼する。
肩口まで切りそろえた艶々とした黒髪を涼風にそよがせ、知性に満ちた表情には寛容さに溢れた優しい面持ちをしていた。それでも小柄で華奢な身体は本格的な甲冑とその上に外套をまとっている。外套のスリットから時折のぞく剣の柄に手を掛けながら、彼女はタイチの前で中腰の姿勢を取る。
「また来たの?」
優しくとも凛とした声がタイチに安心感を与える。
「早く強くなってテトラ姉ちゃんの部下になりたいから!」
「お前!」
もの言いたげな門番を制して、テトラはタイチに向かって微笑みかけた。
「少し待って。二、三の雑事を片付けるからここで待っていなさい」
タイチは快諾した。そして彼女は用を済ませるまでの間、門番にタイチを見張るように指示すると、暫く経ってから木剣と共に現れた。
「どこからでも打ち込んできなさい」
「えいや!」
タイチは渾身の斬撃で小枝を振り払う。だがテトラが軽く身を翻すとすぐにあしらわれた。二撃目も同じように避けられた。それでも追撃を何度も試みると、彼女は遂に小枝に木剣を交えた。
その太刀捌きは奇術か何かのように思われた。鎧の隙間から垣間見えるなよやかな四肢が美しく伸縮したかと思えば、ただ木と木とを交えただけのはずが、小枝はタイチの手から木剣に絡めとられて地面に落ちた。
「闇雲に斬りかかっても、体力を消耗するだけよ。特に小柄な君には、そんな戦い方は向かない」
それを言われてタイチは憮然とした。小柄といえば他の神威衛士に比べたテトラとて同じことだ。自分が不利なのは武器のせいだとかこつけた彼は自分の小枝とテトラの木剣を交換するよう訴えた。テトラはすんなりと武器を交換してくれたが、結局今度は木剣が小枝に奪われた。
「やっぱり、神威衛士になれないのかな」
実力差を認めざるを得なくなったタイチは俯きながら小枝を見つめた。
「どうして神威衛士になりたいの?」
「だって、神威衛士ってかっこいいし。それにテトラ姉ちゃんの手伝いがしたいから」
「私を?」
テトラは声を上げて笑った。だがそれは決してタイチを嘲笑しているのではなかった。燦燦と輝く太陽のような、周囲を明るくする笑顔しか彼女は見せたことがない。
「君のような志の高い神威衛士が居てくれたら、私も心強いな」
「テトラ姉ちゃんはどうして神威衛士になったの?」
「私? 私は元々、家が神威衛士の家系だから。君の村でも、鍛冶屋の家の子は鍛冶屋になるし、大工の子は大工になるでしょ? それと同じ事。だから私も姉も、神威衛士としてこの国の人達を守るの」
「テトラ姉ちゃんってお姉さんが居たの? 今度会ってもいい?」
「え、会うのはちょっと」
テトラはそれを聞いてなぜか狼狽えた。
「また、今度ね」
「その人とテトラ姉ちゃんって、どっちが強いの?」
「姉は私より断然強いわ。今は赤の帝都にいる。私もがんばらなきゃ」
テトラははるか前方の北の大地に広がる茫洋たる草原を見晴るかした。クルセノス平原と呼ばれるその大地の先に、この国で最も反映する帝都、赤の帝都がそびえている。村を一歩も出たことのないタイチにとって、雲の上の都市ともいうべき至尊の地だった。
「決めた! おれ、神玉なんかなくたって絶対強くなって神威衛士になる。そしてテトラ姉ちゃんもそのお姉ちゃんも皆を守りたい!」
「そうなれるといいね」
テトラが微笑み返すと、丘の上から馬蹄の響きが伝わってきた。やがて起伏に富んだ大地の一郭から数騎の騎兵が馳せ参じた。
「何があったの?」
テトラは立ち上がると腰の剣を差し直し、馬上の神威衛士達に問うた。
「テトラ様、一大事にございます! ミュートフ村が襲われました!」
「そんな・・・・・・。ロタニアが攻めてくるはずもないし、一体誰が」
「幻鬼術師のギストリにございます」
馬上の神威衛士の言葉にテトラは戦慄を覚えた。
「幻鬼術師? 彼らはテイセリス帝国への忠誠を誓ったはずよ。どうして彼らが?」
「いえ、しかし村を襲ったのは幻鬼との目撃情報があります。奴ら、いかがわしい呪術の研究に没頭しているかと思えば、不遜にも我らが皇帝陛下の権勢を簒奪しようと雌伏していたに相違ありません!」
後ろの神威衛士が馬を連れて前に出た。
「赤の帝都には増援を要請しておりますが、幻鬼の力は強大ゆえ、我らで抑えきれるかわかりません。既にハーラベルト卿が討たれたとの知らせも受けております」
神威衛士の言葉は次第に小さくなって震えた。
「ハーラベルト卿が? あの方は紫位の神威衛士よ! 信じられない。私も行くわ。君はここに居て。絶対に動いちゃダメよ」
テトラがこれまでタイチに頭ごなしに何かを命じたことなど一度もなかった。タイチにも何か異変が起きたのは察知していたが、彼は神威衛士達の難解な言葉を半分も理解していなかった。あるいはもう少し知恵がついて、大方の状況を察したならばタイチはその場を動かなかっただろう。だが幼少のタイチは言葉で理解できなかった部分を自分の目で補おうと考えた。故に彼はテトラに牽制されたにもかかわらず、丘を下って我が家の待つ故郷の村へと戻った。
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