第4話 アンネマリーは気弱で地味な令嬢(1)
その瞬間まで、アンネマリー・ブッケル伯爵令嬢は気弱で地味な、普通の少女だった。
「相変わらず控えめでいらっしゃるのね。『貞淑な』アンネマリーさんは、自己表現すらお控えになるようだわ」
何故かアポロニアのその言葉が、もどかし気に光るその黄色の瞳が、アンネマリーがすべてを思い出すきっかけとなる。
記憶が川が氾濫するようにあふれ出す。
ディアの無理やりな笑顔も、ネリの痛みに耐えるような微笑みも――こぶしをぶつけ合った感触すら、鮮やかに手の上に戻って来る。
三人で、来世を誓ったあの最期。
「いや、これ『前世』じゃん」
「はぁ?」
「なんでもありませんですはい」
うっかり呟いてしまったせいで、アポロニア嬢は――若きお母様は怪訝な顔をしてこちらをねめつけている。逃亡経路を捜そうと、アンネマリーは辺りを見渡した。
豪奢な鏡づくりの壁板には、アンネマリーの姿が映っている。
「来世」のアンは華やかな赤毛に、アポロニアゆずりの黄色の瞳を持っていた。
しかし今世のアンネマリーは栗色の髪に青色の目、丸眼鏡と、目立ちもパッともしない容姿である。
アンネマリーは額に手を当てて、状況の整理を始める。
――つまり幸運なことに、三姉妹の魔法は成功した。
「先ほどから、どうしましたの。汚い悲鳴を上げたかと思えば、脈略のないことを叫んで。『貞淑のブッケル伯爵家』長女の名が泣きましてよ」
「貞淑のブッケル伯爵家」長女とは、アンネマリーの社交界での通称である。
ブッケル家の家訓は「貞淑」であり、代々優れて夫を支えた淑女が生まれたと評判の家である。
要はどれだけ舐めても大丈夫、という意味であろう。心外である。
アポロニア嬢はそんなことを言いながら、扇で上品に口元を隠して、オホホと笑う。
信じがたい……! アンネマリーは目の前の令嬢を凝視する。
鮮やかな赤毛も迫力のある黄色の瞳も、すべてがお母様のものである。
だからといって、何をどう間違えば、「令嬢の鑑」と呼ばれたお母様が、こんなバチクソ嫌味の冷酷令嬢になるのか。
いや、逆に冷酷令嬢が、「令嬢の鑑」なお母様になったのか。
それは褒められたことではある。
なんにせよ、大好きな母親の黒歴史など、今一番見たくないものである。
「持病の癪が……っ、失礼いたします」
「あ、え、ちょっと」
まだ何か言い足りない様子のアポロニア嬢を置いて、アンネマリーは脱兎のごとく会場を逃げ出した。
***
屋敷に帰ったアンネマリーは、まず自室に向かった。
机の引き出しの中には大量の殿方同士の恋愛、略して「殿方同士ラブ」の春画がある。もちろん、アンネマリー特製である。
振り返れば、天井まで届く本棚には、殿方同士ラブの香りを感じられるアンネマリーの愛読書がこれでもかと詰め込まれている。
アンネマリーは目を閉じて思い返し、悟った。
アンネマリーとして生まれた時から、アンネマリーはこんな感じだった。
過去に巻き戻ったことで、消えたはずのアンの魂はアンの「前世の身体」であるアンネマリーに引きずり戻されていたらしい。
「何かの誤差」が起こった――過去に小さな影響が出始めたのである。
「……私、生きてます……」
一拍後、アンネマリーはへなへなとその場で腰を抜かした。
最悪、黒魔術によって魂までも消えることを想定していたのだ。
いやむしろ、存在ごと魂も消えると思い込んでいた。
来世を誓い合ったのも、姉妹と笑ってお別れするための冗談であった。
まぁ、今いるのは「来世」ではなく「前世」だが。
「しかし、今世の私もたくさん描きましたね」
引き出しから自作の春画を取り出して、しげしげと眺める。
「意外とよく描けています……いいえ、冷静になりたい、誰かの意見が欲しい……」
――ぶちまけるべきでないところで、ぶちまけてはいけませんわ――
愛しき母の声が反射的に脳裏を打った。とたんに、母を想う胸と昔ぶっ叩かれた尻に鋭い痛みを感じる。
「すみません反省します反省します反省します……」
アンネマリーは引き出しに絵を突っ込みながら呻いた。
記憶がなくとも、魂に刻み込まれたこの教え。
この教えがあったからこそ、アンネマリーは誰にも言わず密やかに活動していたのである。
アンネマリーは口を閉ざした。しばらくのあいだ黙り込んで、目を瞑って検討した。
やがて、叫んだ。
「あの冷酷令嬢!? 本当にあの意地悪かつ性悪のアポロニア様が私のお母様だって言うんですか!?」
アポロニア様はアンネマリーの天敵であった。
会うたびに地味だの冴えないだの嫌味を言われて、ガラスハートのアンネマリーは、パーティーが終わるたびに寝込んでいた。
「認めない、というか、認めたくない……」
叫びながら、アンネマリーはシーツと布団の隙間に潜り込んでじたばたともがいた。
しかし、アンネマリーは気づいていた。
来世の母親は優秀でプライドの高い人だった。
そしてそれだけに、ライバル意識を強く燃やす人だった。
そのうえ、アポロニアはまだ十七歳である。未熟なのだ。
来世の母親が未熟であるとしたら、同世代で目を付けた女がいたら、ジャブ代わりに軽く嫌味の一つ言いかねない。
「だからって、ちょっとこれはひどくないですかぁ」
シーツに顔をうずめたまま、アンネマリーはぼやく。
その時、扉が軽い音を立てて開いた。
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