第2話 記憶(1)
「来世」の最後の記憶は、このようなものだ。
埃だらけの床。あちこち破れた古いカーテン。揺れる赤色の尾提髪。
記憶の中で、アンネマリーは息を弾ませてアメルン侯爵の別邸の廊下を走っていた。
勢いよく扉を開くと、重いカーテンが閉まった暗い部屋の中で、燭台の灯りがちろちろと揺れていた。
そばの二脚の木製の椅子に腰かける、二人の少女の姿がぼんやりと浮かび上がる。
《あら、アン。どうしたの?》
「来世」のアンネマリーを見て、二人の少女は微笑んだ。
胸に本を抱えている「来世」の彼女はアメルン家の三女「アン」であり、二人の美しい少女はアンの姉なのだ。
三人とも雰囲気はばらばらだが、赤い巻き毛だけが見てわかるほどそっくり同じである。
《もしかして、前に勧めたナナバ国戦記を読んでくれたの?》
《ええ、ええ、ディアお姉さま、ネリお姉さま》
アンは姉たちに勧められた戦記ものの本を、ベッドの中で一晩徹夜して読んだ直後であった。
アンは部屋の隅から椅子を一脚引きずってくると、燭台のそばに置いて座った。そうすると、ちょうど三人で輪の形に並んだようになる。
アンは息を整えると、頬を紅潮させ目を輝かせながら叫んだ。
《ナナバ国王子と騎士団長、絶対付き合ってますよね――!》
――アンは、殿方同士の恋愛が大好きだった。
《なぜいつもそうなの、アン!》
長女のディアが、長い髪を揺らして椅子から崩れ落ち、床に膝をついた。
《どう考えても王子と付き合っているのは、王子付きの従者でしょう!》
――ディアも、殿方同士の恋愛が大好きだった。
《アン、あなたは毎回いいところを突くのに、いつも若干ずれたところに着地するんだから》
《そんな、ずれてるのはディアお姉さまでしょう》
《馬鹿ね、あらゆる個所をあらゆる角度から分析すると、王子と従者は付き合っていることになるのよ。いいから、ちょっと私の話を聞きなさい》
《もう、ディア姉さん。アンに無理強いするのはおやめよ》
次女のネリがため息をつきながら言った。
《ただでさえディア姉さんの話は長いんだから》
《だって、ネリ――》
ディアが不服そうにつぶやくが、ネリはかぶせるように言う。
《それに、どう考えたって王子と従者は付き合ってなんかいないでしょう》
ネリは輝くような笑みを浮かべながら言った。
《王子は絶対、彼の馬と付き合ってるんだもの!》
《いやそれはわからんわ》
《あんたやっぱ絶対おかしいって》
ネリも殿方同士の恋愛が大好きだった――そう言うと二人は口々に疑問を叫ぶが、ネリがそう宣言する以上、事実はそうとしか言いようがない。
《ディア姉さん、アン、何言っているのさ。王子と一番時を過ごしてきたのは馬でしょ。王子を一番献身的に支えてきたのも馬。彼らの絆は絶対に引き裂けないんだ》
ネリが夢見る目つきをして持論を展開する。
アン、ネリ、ディアの三姉妹は、そんなかんじだった。
まだ言葉もおぼつかぬ頃から三人で殿方同士のラブの話題で盛り上がり、それを初めて見た若い母親は卒倒した。
そんな伯爵家の姉妹たちを、人々は奇異の目で見た。口さがない人々から「脳みそ腐った馬鹿令嬢」と嘲笑されることもあった。
すると三姉妹は「我ら腐りし令嬢、すなわち腐女子なり。腐敗の伝染の速きこと、ミカンのごとし」と笑い叫び、片っ端から殿方同士の恋愛の妄想を吹き込んで回った。
激怒した母親にお尻をひどくひっぱたかれたのも、今となってはいい思い出である。
《でもちょっとネリ、声が大きすぎるんじゃない。お母様が可哀そうよ》
《大丈夫。ディア姉さんも、分かっているでしょ。みんな理解しっこないよ》
心配げに辺りを見回すディアを、ネリが笑い飛ばす。
人前で殿方同士の恋愛の妄想の話をしていると、母親は素晴らしい速さで止めにかかった。
だから三姉妹は裏をかくことにした。古代魔術語で会話することにしたのである。
古代魔術語は難解で、分かる人は非常に少ない。三姉妹は勝ったと思った。
しかし、魔術語は魔術語だ。つまりその言葉での発言は、魔法の詠唱と同じなのである。
……発動してしまった。
ある言葉は幻覚として。ある言葉は偽物の記憶として。ある言葉は人を操る効果まで。
三姉妹と母親が住む別邸は、恐怖の館と化した。
残念ながら、三人娘は有頂天、つまり馬鹿だった。喜びのおもむくままに下町に繰り出して、数々の魔法を発動して回った。
幼い小娘が三人、心の中は王様だった。
――町は阿鼻叫喚だった。
各地で数々の混乱が起こり、三姉妹は母親に前よりも強くお尻をひっぱたかれた。三人の犯行は母親によってもみ消された。姉妹は子供だったので、母がどんなずるい方法を使ったのか知らない。
それから三人は、古代魔術語が発動しないように、更に複雑に暗号化して話すようになった。
《お母様、怒ってたわねぇ……》
《「ぶちまけるべきでないところで、ぶちまけてはいけませんわ」ね。あの言葉、トラウマの域まで身に染みたわ……》
若き清き、哀れな母親。
三人は母親に苦労を掛けたことを猛省している。
だが、父親に迷惑をかけたことは微塵も後悔していない。
《……ところで、アン》
ディアが頬に手を当てて、ぼそりと言った。
《その興奮具合だと、また描いたわね?》
ぎくりと肩を震わせるアンに、ネリが椅子を蹴飛ばして立ち上がる。
じり、とアンが退くと、じり、とネリが近づく。無言の攻防戦の末、アンは壁際に追い込まれた。
《分かっているでしょう。これは王子様と騎士様の絵です。お姉さまたちとは解釈違いです》
アンは顔を背けながら、苦し紛れに呟く。
――アンは絵を描くタイプの馬鹿であった。
《知っているよ、分かるよ、じゃあ見せなさい》
《じゃあ、じゃないの。恥ずかしい思いをするのは私なんです》
詰め寄るネリに対するアンの語調は強いものの、本心からの拒絶は見られない。……なんだかんだ実は見てほしいのだ。
《そこの右ポケットと見た》
《ひどいです、ディアお姉さま!》
興味無さそうに窓の外を眺めていたディアが、素早い動きでアンのポケットから紙片を抜き取る。
ネリが注意を引き、ディアが隙をつく。
抜群のコンビネーションだ。
ディアは「ほーっほっほ」と高笑いをしながら紙片を開き、ネリが嬉しそうに横から覗き込む。
二人とも黙った。アンは両手に顔をうずめる。
……最初に口を開いたのは、ディアだった。
《わたくし、アメルン家長女として、幼い頃から数々の夜会に出たの。宮廷にも何度も行った。当然、当代一の美術品を大量に見た。令嬢の中でも、目は肥えているつもりよ。その視点から言うわ》
ディアは目を閉じて、空を仰いだ。
《最高》
《ディアお姉さま……!》
《間違いなく国一番》
ネリが鼻血を止めながら言った。
《いや、セクシーだわ……》
《ネリお姉さま……!》
《きみ、万が一この家を追い出されても、春画描きとして生きていけたね》
《ええ、そんな、そんなこと、うぅ、うへへ……》
アンは顔を真っ赤にしながらにやにやと笑う。
《あ、でもそういうディア姉さんも、どうせ何か書いたんでしょう》
《えっ》
ネリの言葉にディアが飛び上がる。攻防戦は続く。
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