12/19 昔の話【トモとコト】

 『書斎の底が抜けちゃった。』


 昼にコトからメールが来た。上司の目を盗んでこっそり読んだ文面に、俺は思わず「げ」と呻いた。

 部屋の床一面に積まれた本たち。その高さは腰まであって、コトのスリムな体に合わせた細い通路を作っていた。「もう何冊あるか分かんないや」そううそぶかれても納得するほどの量が、木造築三十年のアパート部屋に置かれていたのだ。

 「いつか抜けるぞ」「さすがにまずいとは思ってるけどさー」と話してはいたものの、コトは他に宛もないからと結局本を増やし続けた結果――。

「大丈夫なのか?」

「どうした、小林」

「いや、アハハ何でも。ちょっと……」 

 トイレの個室で返信する。

 『本はどうなった?』

 彼女の一番の懸念事項だろう疑問を投げかけたはいいが、すぐに色々と心配になってきた。

 もし部屋にいるときに底が抜けていたら? 彼女は無事なのか。下の階に人は住んでいたのか。賠償請求とかされるんじゃないか。警察や消防車が来てもおかしくない騒ぎじゃないか? そう悶々として過ごしたが、コトからの返信はなく電話も繋がらない。


 俺は大学を半年留年して卒業して、何とか就職にこぎ着けた。コトの書斎の二つ隣だった部屋は引き払って、職場の近くに住んでいる。そう遠くはないが、わざわざ会いに行く距離だ。

 元々、メールも電話も寄越さないコトに連絡をとるのは俺の方。意外にもコトは「本読んでた」だの「気づかなかった」だのと、スマホを持ってる意味がない質だ。

「営業かけなくていいのって、すごい楽。一日中マナーモード最高!」

 店を辞めてからは「静寂を楽しみたいの」が口癖になって、とにかく本を読んでいるらしい。いや、読み出したら鳴っても気づかないだろ。それに営業相手じゃないからって、俺のも無視すんなよ。

 とは言えずに、俺はいつも送ったメールや着信が返ってくるのを待つ方になっている。


『ダメになった』

 ようやく返信が来たのは夜の八時を回ったとき。もどかしい程に返事が短い。直ぐ電話をかけた。

「もしもし、コト?」

 電話の向こうは騒がしくて、何かの音楽が反響して聞こえた。

「……何?」

「何って、心配して電話したんだろ! 全然メールも返さねぇし。怪我とかないのかよ」

「ない」

「ないって、お前」

 俺はイラッとして立ち止まった。会社からの帰り路だった。

「大家さんももうこれを機会にアパートやめるって。辞め時を探してたって。全然、叱られなかった。下の階の部屋も滅茶滅茶になったけど、むしろ謝られた」

 コトの声は遠くて、後ろのカラオケにかき消されてよく聞こえない。

「は? 何?」

「雨で……本が全部、ダメになっちゃった」

 今度は聞こえた。それによく分かった。

「なぁ今どこ?」

「なんで?」

「教えろよ」

「……店」

「はぁ? 辞めたんじゃねぇの?」

 今来た道を戻る。

「煩いな、トモには関係ないじゃん。あたし、飲んでるから切るね」

「関係ある、切るなよ」

「ない」

「あるだろ。今、そっち行く。迎えに行く」

 駅まで五分、乗り継いで走って二十分。

「な、なんであんたにそんなこと言われなきゃ」

「お前を慰めたいからだよ」

 いいから待ってろ。俺は電話を切った。

 そして走った。肩に掛けた荷物が重くて、一瞬、家に置いてこようかと思った。けど時間がもったいなくて、すぐにコトに会わなきゃいけない気がして、そのまま走った。

 コトの書斎は、コトの居場所でコトだけの世界だった――。それを知ってるのは、きっと俺だけだから。

『ここはあたしの書斎。一冊でも傷つけたら絶対に許さないから』

 あの夜の、まるで泣き出しそうだったコトの声が聞こえた気がして、俺はぐっと唾を飲んだ。息が苦しい、運動不足だ。

 駅のイルミネーションがうざったくて、早くコトに会いたかった。



(了)


 ────────────────────

それで奏太が生まれた。


『ブックツリーと星』

カクヨム

https://kakuyomu.jp/works/1177354055104024504

ノベプラ

https://novelup.plus/story/454931883

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