第33話 過去を捕らわれる『君』へ

「くそったれ! 遅かったかっ!」


 部屋の中央の床にエースノエルの書にあった【鬼血屍回生】の〈陣〉が刻まれている。


 中心には幾つもの蝋燭が並べられた供物台の前に、ヴェンツェルが静かに佇んでいた。


『やあ、皆さんこれはお揃いでどうされましタ?』


 ゆっくりと振り向いたヴェンツェルの目は、白目だったところが赤く染まり、正気を失っているのは明らか。


 声も濁って聞こえる。


 肌の色こそ元々は白く無機質だったけど、そこに生気はなく、最早その姿は屍だった。


「ヴェンツェルっ!! 貴方は何故こんなことをっ!?」


『見てくレ給え。コレが【継約聖書】の外典、【バーホットの書】に綴らレた。大地の落とし子、鮮血の王族の力ダヨっ!!』


「あぶねぇっ! 避けろっ!」


 ヴェンツェルが右手を振り払う寸前、咄嗟に僕は左に飛んだ。直ぐ脇を衝撃波が掠める。


 圧縮された空気が壁に激突し巨大な蜘蛛の巣状の亀裂が走る。


『ドウダイ? 素晴らしいダろ? ここまで3年の月日をようシた。これで《アノ御方》へ私のチカラを示すことがでキる! まだお役に立てるト!! 今はとてもいい気分だヨ』


 あの御方? いい気分だって? 要は自分の承認欲求を満たすために大勢の人間の命を奪ったのか――っ!!


 怒りのあまりヴェンツェルへ向かおうとしたところ、ハウアさんが止めてくる。


「ちょい待て、ミナト」


「はぁっ!? どうして止めるんですかハウアさんっ!!」


「少しコイツに話がある」


 なんなんだ一体。徐にヴェンツェルの下へ歩いていくハウアさんを、唇を噛締めじっと見つめる。


 ふとアルナがいないことに気付いた。え、いったいどこへ?


「キサマ、あの御方っていうのは誰のことだ?」


『フフッ……君に応える義理はナイヨ』


「そうかよ。じゃあ《マティアス=ミイヴロード》っという奴に心当たりはねぇか?」


 マティアス? 誰だ? というかこの状況で聴くようなことなの? それよりもどこ行ったんだアルナは?


『貴様っ!! ドコデその名ヲっ!!』


「うるせぇな。いいから答えろよ」


 ハウアさんがマティアスとかいう人の名前を口にした途端。ヴェンツェルが突然震え出した。


『クソォッ!! クソォッ!! マティアスっ!! マティアスだトッ!! ソノ名を聞くだけで腸が煮えくりかえルっ!! 私を無能と罵リッ!! 組織から追放したアノ男っ!! コノ恨みハラさでオクべきかぁっ!!』


 突如怒り狂いだしたヴェンツェル。


 子供の駄々のような地団駄を踏む度に、大気を揺らす地響きで、床や壁に亀裂が走っていく。


「……ああぁそういうことかよ。つまりハズレっつぅことか、あ~あ……ったく、クソ野郎がっ!! とんだ無駄な時間をとらせやがってっ!!」


 ヴェンツェルを前にしてハウアさんは涼しい――否、うんざりした顔を取り戻していた。


 一体何がなんだか分からない。だだ今ヴェンツェルから殺意を向けられていることだけは理解できた。


『何だトっ!! 丁度イイっ!! マティアスを屠る手始めに、貴様らを始末してヤルっ!! この絶対的な力デナっ!! ワタシはこの力で《アノ御方》に有能性を示すノダっ!!』


 ヴェンツェルは今にも襲い掛からんばかりに身構え、その刹那。


「貴方の御託はたくさん――もう死んでください」


 聞き覚えのある冷たい声。


 祭壇の側で高笑いをしていたヴェンツェルの胸から、手がどす黒い血と一緒に噴き出す。


 いつの間にかヴェンツェルの背後に立っていたアルナが、ヴェンツェルの心臓を穿いていた。


 大量の血と一緒に胸骨らしき欠片が石畳へと落ちていく。


 漆黒に染まった手には、紅い光の筋が走る黒い心臓が握られ、今もなお鼓動を打っている。


 そしてアルナの手に段々力が込められ――。


「駄目だっ!! アルナぁっ!!」


 彼女は口では誰も殺したくないって言っていたけど、僕はなんとなくこうなる予感がしていたんだ。


 捕まえて法の裁きを受けさせるのが本当の狙い。


 それが出来ないのなら責めて自分で決着を付けるつもりだった。


 だけどそんな些細な願いは、地面や壁へ飛び散る臓物の破片と共に儚く消える。


 ズュルリ――と耳障りな音を立て、アルナの左手が引き抜かれる。


 ヴェンツェルの身体は糸が切れたように膝から崩れ落ちた。


 払った指先から飛び散った黒血が地面を塗り上げる。


「アルナ……どうして……」


「ごめんね。ミナト……これが私なんだ」


 悲しげに、儚げに、悲痛にアルナは微笑んだ。どうして……なんで……。


 今まで散々手こずらせ、訳の分からないことを延々と口走っていたヴェンツェル。


 それが散々苦しめた《黒蠍獅》よりもあっさりと倒された。


 それよりも僕は彼女が未だ掟に縛られていたことに胸が締め付けられる。


「嬢ちゃんっ!! 目を凝らしてよく見ろ! まだそいつは終わっちゃいねぇっ!!」


 ハウアさんの吠えるような声と同時、ヴェンツェルの体が弾んだ。


 床を染めていた黒血が、針のように尖りアルナを襲う。


 咄嗟のことなのに、アルナは軽い身のこなしで、追尾してくる血の棘を踊るように躱す。


 あれは【血】の造形象術。こいつも使えるんだ。


 吸血種特有の象術。全方位、無軌道に暴れまわる血から逃れ、隣へと戻ってきたアルナの肩を僕はすぐに掴んだ。


「アルナ! 君は最初からこうするつもりだったのっ!? だって君はもう誰も殺したくないって話していたじゃないか!」


「……ごめんなさい。でも私は――」


 目を合わそうとせず、冷然と付着した血を稲妻で蒸発させる彼女に、苛立ちを覚える。


「ミナトっ! そいつはテメェも一緒だろっ!! つーかいちゃつくのは後だ。今すぐ象気を練ろ!」


 ハウアさんの言う通り口論している場合じゃない。


 ヴェンツェルは血をまるで蜘蛛の足のように使って身を起こした。射貫かれた胸の傷は既に塞がっている。


『残念だったネ、ワタシの身体には13個の心臓がアル、一個潰されヨウト――』

 言い終わる前にハウアさんが発砲。三連射の速射が血を吹き上げさせる。


『貴様、ワタシの心臓を3つモ……』


「うるせぇよ! 延々と噛ませ犬のような台詞吐きやがって、こっちとらぁ無駄な時間を取らせやがったキサマに頭きてんだ! 地獄に叩き返してやるっ! クソ野郎っ!」


 親指を突き下ろし、ヴェンツェルを睨みつけるハウアさんの顔はまさに鬼気迫る形相。


 完全にキレている。ハウアさんとは何十年の付き合いだけれど、あんなハウアさんを見るのは初めてだ。そして戦い始めて数刻。


 僕はヴェンツェルの懐へ象術の掌底【耀斑フレア】を叩き込み、象気を内部から炸裂させる。


『グフッ――!! 何故ダッ!? 何故再生できナイッ!?』


 ヴェンツェルの声は実に耳障りだ。【天】の象術は秘銀と同様に吸血種の再生を阻害する。


 そのことを奴は知らないみたいだった。だけど教える義理も、意味も無い。


 まして戦いの中、時間も無い。


 追い詰めるのは簡単だった。膂力こそ凄まじい。


 だけどそれだけだ。最初に感じた禍々しい象気はコケ脅しに過ぎず、動きは素人同然。


 少し危ない場面はあったけど、単純で読みやすく、受け流すのも迎撃カウンターするのだって容易い。


 正直先の【黒蠍獅】の方が何倍も強かった。

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