第7話 こうして僕は『殺』されかけました

 ほっとしたんだろう。カレンの表情がぱぁっと晴れやかになった。


「グディーラさん、そういう訳なんで、ちょっと行ってきます。カレンのこと頼みます」


「はいはい、こっちは任せていってらっしゃい。雨も降っているし、そのまま帰りなさい」


「ありがとうございます!」


 教授宅まで、大体10ニミッツ……なら行けるか。上着を傘にして駆け出した。


 目的地に近づくにつれ、雨脚は土砂降りになって雷まで鳴り始める。こんな中をずっと走っていたら最悪風邪を引くかも。


「うげっ……かなり激しくなってきた」


 思わず進むことを躊躇しそう。もう帰ったら暖炉を焚いて、今日はすぐに寝てしまおう。体調を崩して寝込んだりしたら、アルナに申し訳ない。


「アルナ、きっと怒るよね……」


 プンスカするアルナ……あれっ? なんかちょっと可愛いかも? ってそんなこと考えていないで急ごうっ!




 教授の家まで半分といったところの路地で、異様な雰囲気を感じ立ち止まる。


「な、なんだ……?」


 まるで全て凍てつかせていくような空気。


 季節は初夏なのに雨からは抗えない冷たさを覚える。それに微かに漂ってくるこの臭気はいったい?


 強いて似ているといえば鉄の香り――いや、違う――これは血だ。


 幼少の頃から動物と戯れていた所為もあって、常人よりもちょっと鼻が利く。


 匂いは路地裏へと続いているみたい。無視して帰ればいいものを、なんだか胸騒ぎがして、気付けば路地裏へ足を踏み入れていた。


 心臓が痛い。怯えているのに何かに取り憑かれたかのように歩みが止まらない。多分見るなと言われると返って見たくなるという、あの心理に近いと思う。


 奥に辿り着き、建物の影から恐る恐る覗く。すると男性が一人、血を流して倒れていた。


 まさかヘンリー教授っ――!?


 と声が出そうになるのを必死に抑え、犯人の顔へと視線を滑らせる。傍らでヘンリー教授をじっと見下ろす人物の姿に、頭が真っ白になった。


 どういうことだよ。なんで、彼女が通り魔だったなんてっ!!


 立っていたのは青い髪に純白の角と尾を生やした……僕の友達。


 なんでアルナが……そんなっ!?


 いや、見間違いかもしれない。半ば気が動転したまま、路地裏へと足を踏み入れる。再び見るがやはりアルナだった。


「ア……ルナ?」


 力なく口から零れ落ちた言葉に、アルナの肩が跳ね上がり――振り返った。


「……ミナト……なんで」


 蒼い瞳が見開かれる。


 一体何が起こっているんだ……どうしてアルナが教授を……?


 教授の血と雨が一緒に足元へ流れる石畳を、暗い影が霞めたアルナがゆっくりと歩いてくる。何故か反射的に後ろへ下がる自分の身体。


 どうして後退っているんだよ!? 目の前にいるのはアルナじゃないか!? 何かの間違いかもしれないだろ!?


 怯えるな! くそ! どうして震えが止まらないんだよ!!


 だってアルナじゃないか! 笑顔が素敵な! いつも元気で! なのにどうしてこんなにも怖いんだ!! お願いだ。怖がるな! じゃないと僕はっ!


「何でっ!? 今日は早く帰ってって言ったのにっ!!」


 濡れた前髪で目元が隠れ、見えない彼女の顔に、背筋が凍り付く。


 心臓を鷲掴みされた様な恐怖に、もう訳が分からない! ただ一つはっきりしているのは、アルナが殺意を向けている……ということだけ。


 アルナの手がゆっくりと振りかざされ、骨が軋み、血管が浮き出て、爪が鋭く尖る。


 ……やめてくれ。それじゃあ、まるで、本当に悪魔みたいじゃないか!


 雷光と共に振り下ろされ、目の前が真っ白に――。



 

 ……生きている?



 多分足を滑らせたんだ。でもなんだか胸が生暖かい。


 襟締ネクタイの切れ端? 水面を泳いで……ポタリと色水が落ちて滲んで――それ、どうしたんだよ、アルナ。その指先の血……。


 嘘だろ……冗談はやめてくれよ。この温かい液体はいったい? ねぇ……誰か教えてくれよ。僕の手のこの赤いものは一体何なんだよ!?


「う、うわぁぁぁぁぁ――っ!!」


 地面を這った! 足が震える! くそ!


 走れ。今は逃げるんだ! 行き先なんて無いっ! 直ぐにこの場から離れるんだぁ!




 何かに躓いて倒れた。どこだここ?


「がっ……はぁ……はぁ……はぁ……」


 一体どれくらい走っていたんだろう?


 散々走った所為か、少し冷静さ取り戻して周囲の状況が見えてくる。


 自分が引っ掛かったのは放置された鶴嘴つるはしで、恐らく場所は工事中の橋。ということは町の外れだ。


「……逃げなきゃ」


 何から? 死の現場? それとも初恋の女の子が通り魔だったという現実? うるさい! 悩むのは後だ!


 周りを見渡すとアルナの姿は無い。どうしてこうなった?


 逃げるにせよ。まずは呼吸を整えるんだ。俯せのままで構わない。ゆっくり息を鼻から吸い口から吐け。


 心臓が大分落ち着いてきた。そうだ傷口! 幸い傷は浅い。転んで致命傷を避けたんだ。


 そんなことよりも今は考えなきゃいけないのは……降りしきる雨の所為で川は増水。ここは倒壊の危険性がある。


 なら一刻も早く離れなきゃ――と思った刹那。



 不意に横から極太の鞭で殴られたような衝撃を受けて、背中を激しく叩きつけられる。


「うっ!」


 肺から空気が抜け、呻き声が洩れた喉を、アルナに間髪入れず掴み上げられ、欄干に押え付けられた。


「がっ……」


 叫ぼうにも頸窩を抑えられまるで声が出ない。何て怪力だ!! これが同い年の少女の力か!? 引き剥がそうと足掻いたけど、歯が立たない。


 再び彼女の左手から骨の軋む音がした。血管が浮き、爪が鋭く尖り、それはまさしく手刀だった。きっと胸骨を穿ち心臓を握り潰すことなんて簡単だろう。


 あぁ……ここまでか、僕の人生も。


 アルナの……初恋の女の子の手で殺される……。


 それも悪くないかも……しれない。


 もう疲れた。全てを諦めて、眼を閉じるんだ……。


 そしてアルナの右腕が振り下ろされた。だけど――一向に激痛はやってこない。


 代わりに降りしきるやや冷たい雨と一緒に、頬へ温かいものが滴り落ちてくる。


 雨音に紛れて微かに嗚咽が聞こえてきて、ゆっくりと瞼を開く。彼女の爪先は胸元の目と鼻の先で止まっていた。


 見上げると、涙一杯に浮かべ、くしゃくしゃにしてアルナは泣いている。


 目撃者である自分を始末するんじゃないのか? 一体どうなっているんだ……?


 アルナは爪を納め、顔を覆う。


「……やだよ……殺したくないよ……初めて出来た友達なのに……どうして殺さなきゃいけないの……? やだ……もう誰も……殺したくない……」


 なんて悲痛な叫びなんだ。アルナのそんな声、今まで一度も……なんで……あれ? なんだか、後ろに傾いて……あれ?


「危ない! ミナトっ!」


 どうして手を差し伸べてくるんだ?


 それもそんなに取り乱して……さっきまで殺そうとしていたのに?


 あれ? 視界がぐるりと――淀んだ空?


 急に水が押し寄せて……。


 そっか、橋が崩れて落ちたんだ。


 駄目だ。


 手足の感覚がない。


 意識も薄れて――。

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