彼女は最後に 【一話完結】

大枝 岳志

彼女は最後に

 北陸に在る小さな港町。雪混じりの大波が寄せ始めて漁が不調に終わったこの日、街の景色は何処もかしこも雪煙で白く濁っていた。荒れ狂う海に、降り続く雪が呑まれながら溶けて行く。


 幼馴染の平太と衣織は高校三年生を目前に、離れ離れになることとなった。単線の小さな駅舎へ向かいながら、震える唇で別れの言葉を交わしている。

  

「衣織、東京行っても元気でな」

「うん。平太も、ぎりぎりまで手伝ってくれてありがとう」

「いや……うん。まぁ……あのさ、東京はさ」

「えっ?」


 平太の言葉は時折強く吹雪く風に掻き消され、衣織の顔の前で雪に呑まれてしまう。


「東京はさっ! 雪、こんなに降らないんだろうな!」

「たぶん、雪が降らないよ!」

「叔母さんの家、おっきいのか?」

「うん」

「そっか。なぁ、本当に行くのかよ?」

「だって、もう私には行くとこないもん。お父さんも、お母さんもしばらく会えないだろうし。それに、この街じゃもう生きていけないでしょ」


 自嘲気味に笑う衣織の姿に、平太は寒さを忘れて歯痒さを感じ始め、奥歯を擦り合わせる。目の前にいるのに、止めることが出来ない。

 誰もお前を責めたりしないよ。

 そんな言葉が浮かんだが、それはあまりにも現実離れしたドラマの台詞のように陳腐に思えてしまう。

 卑下する側、卑下される側。自分は間違いなく、これから卑下する側に回るのだろう。

 何を言おうと、何をしようと、狭い街で指を差されぬように走り回っているだけなのだ。少しでも立ち止まれば、すぐに指が向けられるほど小さな街だ。


「俺、後悔してねぇからさ。もう全部忘れて生きて行けよ」

「……巻き添えにしちゃったね。もし警察にバレても、平太のことは言わないよ」

「巻き添えじゃねえって。俺だって頭来てたから、衣織の母さんも父さんも、あぁするしかなかったんだろ」

「まだ誰も失踪届とかも出してないみたいだし、あんな人だったから誰も探そうとしないのが幸いかな。バレたら死刑になるよね、きっと」

「……俺は何も言わねぇからな。卒業したら、街出て行くし」

「そうした方がいいよ。やらせといて、なんだけど」


 やらせといて、なんだけど。なんの感情も含ませないよう、意識して飛び出した衣織の声に、平太は瞬発的に口を開いた。しかし、怒りの言葉も、労うような言葉も、何も出なかった。

 吹雪く雪に目を強く閉じると、その時の光景が頭を過ぎる。風呂場で延々と水を流す音や、嗅いだことのなかった人の中身の匂い。さまざまな色。まるで知らなかった部位。ゴリゴリ、と鳴る大きな音に神経を尖らせながら、汗を流して引いた鋸。

 重圧から目を背き、無関心の皮を被った二人は、無言のまま夜を過ごしていた。

 街の朝は早く、港を出る汽笛が止むのを祈るようにして待ち侘びた。

 空が暗闇から群青に変わり、罪の意識や過去が全て灰燼となった後、事実は煙のように忽然と消えて行った。


 雪景色の向こうから、列車が唸り声を上げながらホームに入ろうとしている。まるで電車が首を絞められているみたいな音だ、と平太はぼんやりと連想する。

 ホーム近くに並んだボロ家のトタンがバタバタと音を立て続けていて、言葉少ない二人の会話の邪魔をしている。


「電車、来たな」

「うん」

「平太」

「なに?」


 声を掛けておきながら、衣織は俯いたまま何も言わない。息を切らした電車がホームに辿り着いた。この電車に乗って、衣織は今から生まれ育った街を離れようとしている。彼女は二度と戻らないと決めていた。いや、それは彼女が決めることではない。戻って来ることを赦されないのだ。この街の誰もが、彼女を赦そうとはしないのだ。

 皆が知らないだけで、それを決定付ける事実もあった。

 しかし、それは平太と衣織の記憶の中にだけ存在する事実でもあった。

 陽が高くなり、雪が街から消える頃になれば、きっと勘付く者も出るだろう。そうなれば、平太は自分がいとも簡単に掌を返し、卑下する側になることを薄々感じていた。まるで生ゴミでも見るような目になって一番傍に居て欲しい彼女を反芻し、心にもない罵詈雑言で彼女の影を穢すのだろう。  

 すべてを知らないフリをし続ける。しかし、無関心の皮を被っていれば今度は自分が指をさされてしまう。


 衣織は顔を上げると電車の停まるホームを一度振り返り、平太を真っ直ぐに見据える。寒さで震えながらも、力強い眼差しで平太を見つめている。


「平太」

「……」

「あの時、言わなかったけど」

「なんだよ」


 電車の発車ベルが鳴り始める。次の電車は二時間も後になる。二時間もの間、衣織が時間を潰せる場所など、もうこの街には残されていなかった。

 これ以上街を歩けば好奇の目を向けられるだろう。もしそうなれば、平太も同罪になる。その想いが、ほんの束の間平太の瞳を濁らせた。

 衣織は平太を見つめながら何か言い掛けると、開いた口をすぐに閉じてしまった。

 動き出すと同時に、衣織は駆け足のような早さでこう告げた。


「さようなら」


 小さな改札の向こうへ、衣織は小走りで駆けて行く。

 この街を離れるにしては随分と少ない荷物が、背中に回って揺れている。

 すぐに電車の扉が閉じて、無愛想な発車ベルの音がブツッと切れる。

 

 電車は雪煙を上げながら吹雪の向こうへと消えて行き、車両に灯っていた赤いランプだけが悪魔のように遠くでぼんやりと浮かんでいた。

 それが見切れないうちに平太は振り返り、ゆっくりとした足取りで駅を出る。

 二度と会えないだろう衣織のことを忘れようと努め始めるが、思えば思うほど、姿や匂い、言葉や景色が色濃く浮かび上がる。

 あの日の晩の青も、赤も、黒も、同時に蘇る。

 雪の中で頭を振り、忘れろと呟き続ける。

 肌色から流れ続ける赤が水に溶け出す映像が合間に差し込み、平太はさらに頭を振る。

 

「俺は街の人間だ」


 そう呟き、自分を奮い立たせる。

 

 強く吹雪く白の向こうに、平太の背中が消えて行く。

 積雪の上に出来たばかりの足跡はすぐに新しい雪で埋もれてしまい、二人で並んで作った足跡も既に埋もれて消えている。 

 繰り返し繰り返し呟く十七歳の声が、雪に消えて行く。

 その日、街の感傷を洗い流すように海は鳴き続け、すべてを掻き消すように雪は降り続けた。

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