第33話 かんぺき
「遥…待たせてごめん。許して」
そう言うのが精一杯だった。息を切らして走ってきた遥は必死に私を探して叫んでいた。愛ちゃんからの電話で、遥が数時間家に帰っていないことは聞いていた。ずっと私を待ち続けていたのだろう。この寒空の下、何時間も私を。返事すらしなかった私を。健気と言うより、もはや痛々しい。その痛々しい遥の様子は私の胸を愛おしさと罪悪感で締め付けた。掛ける言葉が思い付かず、下手な冗談を言って失敗した。私は自分の間違いを正さなくてはいけない。この状況で「許して」なんて虫が良すぎるかも知れない。ずるいかも知れない。でもこれが精一杯だった。私は自分の行いを棚に上げて、遥を失いたくないと言っている。どの口がそれを言う。自分でも思う。だが、これは今の私の本当の気持ちだ。嘘を吐き続けていた自分の本当の想いなんだ。
遥は私の登場に酷く驚いているようだった。目を見開き、茫然としている。私は遥の頬を撫でた。街灯に照らされている遥の瞼は泣き過ぎたのだろう、真っ赤になって腫れていた。頬は涙で濡れて冷たい。私は丁寧に何度も頬を撫でた。遥の返事を待ったが、いつまで経っても遥は言葉を発しなかった。いつしか自分の目から溢れ出ていた涙も止まっていた。
「遥?」
「…」
遥は何も言わなかった。やはり、許してもらうなんてことは出来ないのだろうか。私は内心不安で押し潰されそうだった。なんとか遥の言葉を引き出したい。
「遥、私…」
「…なんで」
遥の弱々しい声が微かに聞こえた。
「…なんで。なんで来ちゃったの…。響…」
「なんでって…遥が呼んだから、ずっと待っててくれたんでしょう?」
「だからって…来ちゃ駄目だよ…」
私は遥の言い分がよく分からなかった。
「私…響と友達に戻ろうと思って、響と話し合いたくて、呼んだの…」
私は愕然とした。よくよく思い返すと、私は今日ここにくるかどうかは悩んだが、遥が何故私を呼び出したのかについては深く考えていなかった。考えないように逃げていたのかも知れない。ただ、遥の言葉は予想外で私を焦らせた。
「え! そんな…!」
遥が私の言葉を遮る。
「そう。そんなこと出来っこなかった。響の顔見たら、だめだ。私。好きなんだもん」
遥はそう言うと優しく微笑んだが、遥の頬に当てていた私の手は更に濡れていく。遥はその私の手に自分の手を重ねると目を瞑った。暫くすると名残惜しそうに私の手を頬から剥がす。
「だから、もうおしまいにする」
遥は立ち上がった。
「…もうこれでほんとのお別れ」
遥は今度こそいつもの美しい笑顔を見せた。そして、私に背を向けて歩き出した。後ろ姿、肩が震えているのが暗くてもよく分かった。
私は茫然としてそれを見ていた。ここで本当に終わったら悲劇的で綺麗なエンディングになるかも知れない。だが、このまま遥を帰すわけにはいかない。絶対に。
「ちょっと待って!!」
私は立ち上がって走る、そして遥の前に立ちはだかった。
「勝手に決めないで!」
「…勝手じゃないよ。もうこうするしかないんだよ…それがお互いのため」
「そんなことない! じゃあ聞くけど、なんで私が来たと思うの?」
「…分からないよ」
「分からないなら勝手に決めないでよ!」
「勝手勝手って…私を避けたのは響でしょ?」
「それは! そうだけど…」
「私のこと避けてたくせに離れようとすると引き止めるの? そんなの、そっちこそ勝手だよ」
「違う! いや、違わないかも知れない…。私、ここに『勝手』をしに来たの」
「どういうこと?」
「自分勝手をしに来た。もっと自分勝手にした方がいいって、山中にも言われた」
「…山中君の話なんて聞きたくない…やめて」
「いや、違うの。山中とはもう別れて…」
「別れた!? なんで?!」
「いや、それはまた後で説明するよ。だから私が言いたいのは」
「山中君と別れたから私と友達に戻りたいってこと? そんなのって…ないよ…」
「いや、そうじゃなくて!」
「響、それはいくらなんでも勝手過ぎるよ…。私の気持ちはどうなるの?」
「だから違うって!」
話が全く噛み合わない。遥が現在情緒不安定なのは分かる。が、まるで私の話を聞こうとしない。私は遥の両肩を強く掴んだ。
「遥! ちゃんと聞いて!」
これには遥も少しびっくりしたようで、矢継ぎ早に出てきていた言葉が収まった。
「…私、遥に許してもらいたい。待たせたこと、謝りたい」
「…別にいいよ。私が勝手に何時間も待ってただけだし」
「そうじゃなくて! 今日のことだけじゃなくて!」
「どういうこと?」
「あぁ、もう…」
自分のなんて情けないことか。呆れてしまう。もどかしい。最後の一言を言う勇気がなかった。心臓が爆発しそうなほど早まっていた。遥はキョトンとした顔で私を見つめている。
でも今しかない。もう逃げることは出来ない。いや、逃げたくないんだ。これ以上遥を苦しめたくない。自分に嘘をつきたくない。遥に嘘をつきたくない。目の前の幸せを踏み躙りたくない。この先辛いことがあったとしても、遥と離れること以上の苦しみはないと信じたい。
そして何より、私は遥に好きだと伝えたかった。この胸にある痛みにも似た暖かい何かは、私一人では抱えきれなかった。私はこの暖かさを遥と分かち合いたい。遥も同じように感じていると確かめたくてならなかった。私は深く呼吸して覚悟を決めた。
私は…遥の頬にキスをした。掴んでいた遥の肩が一瞬にして硬直するのが分かった。私の唇も震えていたと思う。多分時間としては数秒だったが、その何倍も長く感じた。私は唇を遥の頬から離す。
「…こういうこと…だから…」
…自分で言って思う。こういうことってなんだ? 果たしてこれで伝わるのだろうか? ほっぺにちゅーなんかで…。そう思った瞬間、顔が一瞬で紅潮するのが自分で分かった。私は俯いて顔を隠した。
「…こういうことってなに?」
遥の声はさっきより幾分低かった。心臓が飛び上がった。怒らせたのだろうか? 無理もない。怒って当然だ。私は同じことをした遥を拒絶した。虫が良すぎる。
…失敗したかも知れない。でも、後悔はなかった
「こういうことってなに?」
遥は再度私に問いかける。声のトーンは未だ低いままだ。怖い。でも、逃げちゃいけない。私は意を決して顔を上げた。そして
「好き…です」
「おかしくない?」
間髪入れずの遥の返答でまた心臓が飛び上がる。もはや痛んできた。なんだか悪いことをして先生やお母さんに叱られている時のことを思い出した。
「はい…おかしいですよね…」
遥の顔を恐る恐る見ると明らかに機嫌が悪そうだった。私はまた俯いて、遥の言葉を待った。
「…なんでほっぺなの?」
「え」
「私は口にしたんだけど」
遥の言葉は、私の予想の遥か外だった。
「…え? そこ?」
「はい。やり直して」
「えぇ…。じゃ、じゃぁ」
私は一体なにを怒られているのだろう?? なんだかよく分からない状況になったが、素直に従うことにする。私は辺りに人がいないことを確認すると、もう一度、遥の両肩を掴む。恐る恐る、遥の唇に自分の唇を近づける。唇の先が遥のと重なる。すると、遥は強く唇を押し付けてきた。少しびっくりするが、その快感に思考が鈍る。遥を感じる。気持ちが良い。暖かくて、柔らかい。前にした時はこんなこと感じる余裕はなかった。
そんなことをぼんやり考えていると、遥が唇を離す。と、素早く私を抱きしめた。私の背中に回した両腕で私の体を絞める。痛いぐらいだった。遥は私の胸に顔を埋める。胸がじんわりと暖かくなっていく。どうやら、また涙が溢れているようだ。嗚咽が微かに聞こえた。私は遥を抱きしめ返した。そして頭を優しく撫でた。遥は背が高くないので撫でやすかった。
「…嘘だよこんなの、あり得ない…あり得ないよ」
遥は私の胸に埋まったまま聞く。声は怯えたように震えていた。
「…本当だよ。本当に遥が好き」
私は遥の耳元で囁いた。
「…嘘じゃない?」
「…嘘じゃないよ」
「…夢じゃない?」
「…夢じゃないよ」
「…友達としてじゃなくて?」
「…友達としてじゃなくて」
「…いつから?」
「…最初から…だと思う」
「…っ!!」
遥は更に強く私を抱きしめた。遥の泣き声が胸を通して聞こえる。震える遥の肩を慎重に撫でた。そして遥の髪に自分の顔を埋めた。良い香りがする。遥の匂いだ。
「…なんで」
「なにが?」
「…なんで山中君と付き合ったの?」
私は答えあぐねる。
「…告白されたから…だけど。遥への気持ちが間違いだって思いたかった」
「間違い…」
遥の顔が強張る。だが、私は正直に答えることにした。
「ごめん…。私、怖くて。自分が普通じゃ無いって…信じたくなかった。でもそれこそ間違ってた。逃げても逃げても、遥を好きな気持ちが消えることなんてなかった。逃げることなんて出来なかった」
遥が顔を上げ私の顔を見つめる。瞼は泣きすぎたせいで腫れていた。でも、そんな泣き顔でも、瞳はゆらゆらと輝きを湛えていた。それはとても美しかった。
「…遥はさ、怖くないの?」
私は遥の頬をまた撫でる。
「私は…どうでもいい。他の人がどう思うかなんて」
「あはは。強いね遥は」
「響のことが好きなだけ。そんなの他人にだって、自分にだって変えることはできないでしょ?」
「ふふふ。そうだね。自分でも変えられないね。私それが分かってなかったみたい。馬鹿だね」
「そんなことない。多分私の方がおかしいんだよ。私だって少しは悩んだけど、やっぱり、この気持ちは変わらないし、変えたくない」
「…遥」
「響に抱きしめられてこんなに幸せなんだもん。こんなのって、ほんとに、信じられない…」
「あはは。そうだね…」
確かに今間違いなく私は幸せだった。そう自信を持って言えるのは人生で初めてのことかも知れない。好きな人に好きと伝えて、それを受け入れてもらえる。好きな人を抱きしめられる。こんな幸せは他にない。心がギュッと掴まれるようだった。でも痛くない。胸が燃えあがりそうなほど熱くなる。
「…そうだ」
「どうしたの?」
「…山中君とどこまでした?」
「え!!」
私はびっくりして遥の顔をまじまじと見た。遥は…冗談で言っている様子ではなかった。
「なんでそんなこと…普通そういうこと聞く??」
「後から知ってショック受けたくない。怒らないから正直に言って」
そう言われると、やましい事など無いのに答えづらくなる…。遥は私を真っ直ぐに見つめていた。
「えぇ…まぁ、良いけどさ。何にもしてないよ」
「ほんと?」
「本当」
「キスも?」
「してないよ」
「それ以外も?」
「それ以外って…。してないよ…」
「良かった…」
遥は本当に安堵しているようだった。また私の胸に顔を埋める。私は遥がこんなあからさまにこういうことを聞いてくるとは想像してなかった。それほど心配していたのだろうか。確かに嫌だろう。私だって嫌だ。遥が、他の誰かとキスしたり…その先も…やめよう。今の幸せな気持ちに水を差すことを考える必要はない。
遥は私の胸に頬擦りした。
「はぁ…幸せ…。こんなことってあるの? ほんとに夢じゃないよね」
「夢じゃないよ」
「信じられない。こんなこと。こんな幸せなこと、あり得ない」
「ごめんね。もっと早く答えを出せれば良かったんだけど…」
「謝らないで。今こうしていられるなら、もうそれだけでいい」
今度は遥が私の頬を撫でた。私はその手を握る。
「遥…好きだよ」
「私も、大好き。響が大好き」
辺りは暗かったが、人通りが全く無いわけではなかっただろう。でも、私の目には遥しか映らなかった。遥もそうだったと思う。
私たちはずっと見つめ合って、時折キスをした。私は確信した。もう遥以外に何もいらない。最初から悩む必要なんてなかったと悟る。遥さえいれば、誰に嫌われてもいい。何を言われても良い。全て失っても良い。
遥さえいればこの世界は完璧だ。
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