第34話 かくにん



次の日の朝、目を覚ました瞬間恐怖が全身を覆う。夢?! 昨日のことも夢じゃないか?! 私は急いで枕元に置いてある携帯電話を確認する。携帯電話を持つその手は小刻みに震えた。画面には響からのメッセージが表示された。「おやすみ遥。また明日ね」響からきた一番新しいメッセージはそれだった。日付は…昨日の夜のものだった。私は安堵で胸を撫で下ろす。吐く息とともに重い疲労感を感じる。きっと暫くはこんな朝が続くかも知れない。だが、何度確認しても夢じゃないのは確かだ。

響が、境響が私のものになった。それだけじゃない。私は響のものになった。この幸福感、満足感は、筆舌に尽くし難い。これが多幸感というものなのだろうか。とにかく、私は今まで味わった事のない幸せを感じていた。そして、これから二人に待っている更なる幸せを思うと、自然と顔が綻んでしまう。また、二人一緒にいられる。前と同じ様に…いや違う。前よりももっと近い距離でだ。私は昨日響と何度もしたキスを思い出す。そして自分の唇に触れてみた。またキスしたい。また響に触れたい。また何度も…。もっと…。

私は早朝から何を考えているのだろう…。私はハッとして頭を振って考えを振り払った。そしてその時初めて自分が酷い頭痛を持っていることに気が付く。昨日泣きすぎたせいだろうか。響と別れたあと、家で事後報告を愛にしている間も涙が止まらなかった。愛も「良かった!」と何度も言って泣いていた。愛は隣の布団で気持ちよさそうに寝ているが…

上半身を上げようとするも、体が重く、節々が痛い。これは、単純に風邪かも知れない。外で何時間も待っていたんだ。風邪をひいてもおかしくない。それ自体に後悔はないが、学校には行きたい。いや、響に会いたいんだ。夢じゃないと分かってはいるが、本人にもう一度確認したくてたまらない。休むわけにはいかない。私はだるい身体をなんとか起こした。






「どうしたの?」

 昨日と同じ、いつもの場所に現れた響は、一目見ただけで私の異変を察知した。それはとても嬉しいことだったが、私の答えにどう反応するか分かっていたので素直に喜べなかった。

「ちょっと、具合が…」

「遥…だめ。帰るよ。送ってく」

やっぱりそうなるか…

「嫌、響といたい」

「だめ。なんか辛そうだもん。また頭痛いんでしょ?」

「まぁ、少し」

「少しとか、絶対嘘じゃん。はい。帰りますよ」

「えーー」

 響は私の手を取ると私の家へ向かい歩き出す。私の家に寄って行けば絶対に遅刻してしまうだろう。

「一人で帰るからいいよ。響遅刻しちゃうよ?」

「このまま一人で帰せるわけないでしょ?」

 響がこう言うことも分かって私はわざと言った。響の優しさに甘えたくて仕方がない。弱っているからだろうか、響が私のことを好きだと分かったからだろうか。どちらにせよ帰るのなら響と一緒に帰りたい。元から一人で帰るつもりは毛頭なかった。今まで散々待ってきたんだ。これぐらいのわがままは許して欲しい。私は響に手を引っ張られながら歩く。

「ねぇ響」

「何?」

「キスして」

 響は立ち止まると、辺りを確認し出す。通勤通学時間だ。学生にスーツ姿の人達、犬の散歩やジョギングする人。とにかく人は沢山いた。

「いや、無理でしょ。流石に」

「えー」

「いや、誰に見られてるかわかんないし」

「知らない人だけだったらいいの?」

「だめだ。この子調子悪くて変なテンションになってる」

 確かにそうかも知れない。こんなに人がいるところでキスなんて、いや、響がしてくれるなら私は構わない。

「確認はしたくせに」

「…いいから行くよ」

「えー」

 少し照れた様子の響の横顔を眺めながら、私は満足な気持ちになって歩いた。





家の前に着くと、外門を響が開けてくれる。私も最初こそ響をからかっていたが、歩いているうちに具合はひどくなり、頭痛も重くなっていた。

「…ありがと」

私は鍵を開け、玄関に入る。

「ほんと大丈夫?」

「うん…大丈夫」

 私の代わりに響が持っていた鞄を玄関に置いてくれる。

「ありがとね。響」

「ううん。お大事にね」

 響は本当に心配そうな顔で私を見つめる。そして急に私を抱きしめた。続けて私にキスしようとするので私はそれを手で遮る。

「だめ。風邪移っちゃうかも」

「さっきはしてって言ったのに?」

「冗談だよ」

「いいから、ほら」

 響はそう言うと私の口に強く唇を押し付けた。幸福感と快感が身体を一瞬で駆け巡る。頭の痛みが快楽で上書きされる。だがそれも一瞬だった。

「誰か帰ったのー?」

 母の大声に私達二人は飛び退く。素早く距離を取って身だしなみを整える。

「おかあさーん。 頭痛いから帰ってきたー。響が送ってくれたー」

「お邪魔してまーす!」

 少しの間を置いて母がやって来る。

「あぁ、響ちゃんごめんね。手間の掛かる子で。遅刻になっちゃったでしょ。もういいから学校行って?」

「はい。わかりました。遥、お大事にね」

「うん。また明日ね」

「よく休んでね。それじゃ、お邪魔しましたー」

 響はそう言うと玄関を後にした。それを見送って、また頭が痛み出した。私は手で頭を抑える。

「響ちゃんほんと優しくていい子だね。いい友達持ったね遥」

 母が言う。

「…うん」

 今、母に余計なことを言う必要は無いだろう。いつかきっとその時がくるだろう。でも今じゃない。今はただ、響と一緒に居られればいい。







 昼休み。私は一人、第二校舎と体育館の間の中庭、そこにある噴水を囲う煉瓦造りの縁に腰掛けてお弁当を食べていた。ついこの間までだったら、山中が隣にいたことだろう。山中と付き合っているときはその日の気分で学校内の色々なところで昼食を取っていた。ここでも何度か食べた気がする。この噴水には学校を創立するとき校長が200万円で購入したという眉唾な噂がある。真偽は不明だ。そんな200万円(?)の噴水も今は水を噴射するどころか水も張られてはいない。挙句苔むしている。買った校長もさぞかし無念だろう。でもそのおかげで人はわざわざこんなところに寄りつかないので助かった。孤独を感じるからじゃない。むしろその逆だ。

 友達はいる。いや、今はわからない。少なくとも一緒に昼食を取れる友人は今はもういない。遥と仲良くなってからは保健室に、山中と付き合い出してから山中と二人で昼食を取った。自分でしたことなので後悔はなかった。それに今はとても気分がいい。今日はたまたま遥が休みなだけだし、仮にまた同じことが起きても私は動じないはずだ。今は一人だが、もう孤独ではない。遥を思い出す。胸が暖かくなる。そんな幸せを噛み締める時間を他の誰かに邪魔されたくないとすら思っている。そう思っていた矢先、

「おーい! 境―!」

いきなりこれだ。一体誰だ。中庭の通路の先、内玄関の扉の前に山中が立っていた。私は山中を見て無意識に立ち上がる。山中は邪魔なんかじゃない。数少ない例外のうちの一人だ。それに昨日の今日だ。山中が私に喋りかけて来るとは想像もしていなかった。

山中は私の方に走ってくる。私の前で止まると、開口一番、

「フラれたの?」

「え、なんで?」

 私は唖然とした。

「いや、こんなところで一人でいるから」

「…ううん。うまく…いった」

「そっか…よかったな」

 山中は笑って言うが、昨日の震える肩を思い出して、私は何も言えなかった。

「…気にすんなって。元から振られてたようなもんなんだから」

「…でも、ごめん。山中。でも、本当にありがとう。私、なんて言ったらいいか。とにかく、山中のおかげ。本当に感謝してる。ほんとほんとにありがとう」

「あはは。分かった分かった。もういいから」

 山中はそう言うと、縁に腰掛ける。私もそれに倣った。

「橘は?」

「なんか具合悪いらしくて、帰らせた」

「そっか」

「山中は? 何してたの?」

「俺? 俺はなんとなくフラフラしてたら、境がいたから」

「そっか」

 中庭に風が流れる。2月上旬、日中でも日陰で風が吹けばやはり寒い。昨日の遥はどんなに寒い思いをしたことだろう。そりゃ風邪もひく。何時間も待たせた自分が憎くなる。

「遥、ずっと、待ってた。私のこと」

「…そっか」

「何時間も外で、だから風邪ひいちゃったんだ」

「…そっか」

「私、本当に馬鹿だった。山中が言ってた通りだった。昨日遥のところ行かなかったら私一生後悔してた」

「…そうか」

「山中のおかげ」

「ははは、分かったって。よかったよ。ほんとに。俺も思うよ。あのまま付き合い続けるなんてきっと無理だったしな」

「…ごめん。でも、そうかも」

「うん」

 山中は何度も何度も深く頷いていた。

「それで、なんて言って告白したの?」

 山中のこの問いには驚いた。自分の傷に塩を塗るつもりなのだろうか? でも、そんなこと私の口からは言えないし、答える義務があるようにも思えた。

「え! …いや、普通に、好きですって」

「そうか。つまらんな」

「つまるつまらないの話なの??」

「あはは。嘘嘘。それで?」

「それでって?」

「付き合いましょうってなったんじゃないの?」

「え」

「え?」

 私は愕然とした。お互いに好きだと確認はした。何度も唇を重ねた。けれど、私と遥は付き合おうとは一言も言っていなかった。



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