第32話 まって



山中の肩に顔を埋めて、どれくらい泣いていたのだろう。泣きすぎて頭が痛いし、ボーッとする。私の嗚咽がおさまるのを待ってくれていたのだろうか、山中が優しく言う。

「…大丈夫か?」

「…うん」

 私は山中の肩から顔を離すと、素早く手で顔を覆った。

「どした?」

「顔…ぐちゃぐちゃ」

「あはは。まぁそうだろうな」

 私は自分の鞄からハンカチを取り出して、顔に当てる。

「…山中、ありがとう」

 まだ声が震えていた。

「いいよ」

 山中が私の頭をポンと叩く。

「まぁ、ライバルが橘じゃ勝ち目ねーもんなぁ」

「そんなこと…。山中、凄い良い奴だよ」

「振られちゃったけどな」

「…ごめん」

「あはは。ごめんごめん。冗談だよ。ありがと」

 山中は微笑む。

「でも、さっきのは冗談じゃない」

「さっき?」

「もし変なこと言う奴がいたら俺に言え」

「山中…」

「頼りないだろうけど、俺は境の味方でいたい。振られても、俺は境を大事だと思ってる」

「山中…やっぱり優し過ぎるよ」

「優しさじゃないよ。俺がそうしたいだけ。仮に境が俺を嫌いになっても、俺はそう思うと思う。境がどう思うかなんて実際関係ない。勝手なんだ俺は。だから境ももっと自分勝手でいいよ」

「私、勝手だよ。山中のこと利用して、結局振って、最低だよ…」

「いいんだよ。それで。月並みだけどさ、もっと自分のことを考えろよ。誰がどう思うかじゃなくて、自分がどうしたいかの方が大事だよ。そうしないと、きっと後悔する。後悔しても誰のせいにも出来ない。自分を責めることしか出来ないんだよ。そんなの、辛すぎるだろ?」

「…そうかも知れない。でも、怖い。山中が味方でいてくれるのは嬉しい。頼もしいし。一人でも分かってくれる人がいるって分かって、安心できた。でも、怖い。それはなかなか消えないの。踏み込んだその先が辛いことだらけだったら? 踏み込まない事よりも辛かったら?」

山中は黙り込んでしまった。

分かっている。こんな質問に意味はない。誰にも先のことなんて分かりはしないのだから。

山中は突然立ち上がる。そしてベンチに座る私の前に立ちはだかった。そしてそっと手を差し出した。

「何?」

「いいから」

 よく分からないが、差し出された手を取る。山中の手は私の手より少しだけ冷たかった。

「どう?」

「どうって、何が?」

「何か感じた?」

「ちょっと冷たい」

「いや、そうじゃなくて…。嬉しいとか悲しいとか」

「…別に…何も」

「はぁ〜…お前本当きっついな…」

 山中はがっくりと項垂れる。

「え! ごめん!」

「いや、いい。それで」

 そして山中は優しい笑顔を私に向ける。

「…俺は嬉しいよ」

「え…」

「好きな人と初めて手を繋いだから」

「あ…」

何も言えなかった。かける言葉が見つからない。山中は握っていた私の手を離す。

「…橘と手を繋いでた時は、どうだった?」

 私は目を見開いた。相変わらず言葉が出てこない。

「見えない不幸より、目の前の幸せに目を向けるんだよ」

 私は呆然とする。咄嗟に出てきた言葉は、

「…山中って本当に同い年? 精神年齢高くない?」

「お前ここまできいてその感想はなくないか?」

 二人、黙って見つめ合った。そして笑みが溢れてくる。

「…あはは。ごめん。確かに。私空気読めてないわ」

「お前なぁ…。ったく」

 山中はそう言うと、頭を掻いて呆れたように笑った。私も小さく笑った。少しの間笑い合ってから、山中はまたベンチに腰掛ける。

「境」

「何?」

「行きな」

「…山中」

「もう充分だろ」

「…山中。ありがとう。本当に」

 私は山中の横顔を見つめて誠心誠意そう言った。山中は私の顔を見ることなく言う。

「柄にもなく、ちょっとカッコつけ過ぎかもな…」

「…山中、かっこいいよ。私が出会った男の中で一番」

「あははは。ありがと。光栄ですよ」

 私は立ち上がる。

「行ってくる」

「おう」

「それじゃぁ…」

「うん。じゃ…」

 山中は相変わらず遠くを見つめて私を見ることなく微笑んで相槌を打つ。私は恐らく腫れているであろう瞼を誰かに気が付かれやしないか少し気にしながら歩き出す。暫く歩いて最後にもう一度山中に手を振ろうと振り返る。

山中は俯いて目元を手で押さえていた。その肩は小刻みに震えているように見えた。

私は上げかけた手を下ろした。そしてソレを見なかったことにしてまた歩き出した。その光景は胸を刺した。だが山中に何か声をかけることはもう私には出来ない。山中は私が横にいる時は気丈に振る舞っていた。私という『好きな人』の為に。山中は私の為にずっと「カッコつけて」くれていたんだ。ここで私が戻ったら、山中のその優しさも、誠実さも無駄にしてしまうと思った。

山中に恋してしたらきっと幸せだったろうと思う。だが実際はそうはならなかった。

私に山中の幸せを願う資格なんて無いのは分かっている。でも願わずにはいられなかった。

「山中、本当かっこいいよ…」

 また溢れそうになる涙を堪えて呟いた。





電車に乗り込んだ時には時間は15時を過ぎていた。ここから約一時間で最寄り駅に着く。そこから約束の場所に直接向かっても、16時半か17時ぐらいになってしまうだろう。遥に今から向かうとメッセージは送った。でも返事は無かった。流石にもう待ってはいないのだろう。遥の家に行くべきだろうか。それとも連絡を待つべきだろうか。

 さまざまなパターンを考える。でも、最後に出てくる問題を私は未だに解決できていなかった。

遥になんて言う?


 もう一度やり直したい?

 私も本当は好きだった?

 私と付き合ってほしい?


山中の言葉は確かに私の背中を押した。だが、情けないことに私はまだ腰が引けていた。考えるだけで心臓が爆発しそうになる。大体、仮に私が本音を打ち明けたとして遥が受け入れてくれるかどうかは分からない。もし拒絶されたら?


…私は遂に一人になる。


そう思った瞬間、私は自分に激しい怒りを覚えた。自分を引っ叩いて打ちのめしたくなった。私は逃げ続けていた。その一方、遥と山中はどうだ? 私は一体何を見てきた? もう孤独が怖くて逃げるのをやめなくてならない。怖い。でももう駄目だ。

真剣な想いには真剣に応える。それは権利ではなく、義務だ。

遥の告白とキス。山中の震える肩…。そんな二人を見ても尚、逃げるという選択肢を取ったら、私は自分を一生許すことが出来なくなるだろう。きっと…死んだ方がマシだ。

私は遥が好きだ。その想いは真剣だ。だから、私はその自分の想いにも真剣に答えを出さなければならない。

もう遅いかも知れない。孤独になるかも知れない。辛いことが待っているかも知れない。でも、踏み出さなければならない。

私は心の中で恐怖を強く抑え込む。

揺れる電車の中、吐く息は寒くも無いのに震えた。






私は響を待ち続けていた。約束の時間から1時間経った時点で帰ろうかと思った。だが、あと10分待てば…、もう後10分待てば…。と粘っている間に数時間が経ち、辺りは暗くなり始めていた。日中は暖かくなってきてはいるが、暗くなるとやはりかなり寒い。流石にずっと立ちっぱなしは辛いので、近くのベンチに座って待っていた。それに私はこんな時に限って家に携帯電話を忘れてきてしまっていた。家を出て歩いている途中に気が付いたのだが、戻っていては時間に間に合わなかった。だが、仮に持ってきていても意味は無いだろう。私のメッセージに対して響からの返答はなかった。この数日間、着信や通知が来るたび私の心臓は忙しく働いた。全て無駄働きだったが。

「あと10分だけ…」

 もう、来るはずがないんだ。私は自分を諦めさせようと必死に思い込もうとした。でも、出来ない。諦められない。妥協点すら私には高望みだったのだろうか。

谷先生との会話もあって、私の心は決まった。それしか選択肢がなかったとも言えるのだが…。

最良と最悪の間の答え。友達に戻る。その選択は決して楽なものではない。だが響のいない人生だけはもう嫌だった。この数ヶ月間の苦しみが私を間違いなく変えた。変えざるを得なかったと言っていい。響の側にいたい。たとえ恋人じゃなくても。親友じゃなくたっていい。ただ友達として、少しでも彼女の人生に触れていたい。彼女に私という存在を忘れて欲しくない。

だが、そんな私の決意を響は知る由もない。私はやはり響を失うしかないのか。

…答えは明白だった。響は来なかった。これが答えだ。

「…これでおしまい」

 そう呟いて、私の胸は徐々に締め付けられていく。ゆっくりと強く。

 もう決して後戻りは出来ないところには私は立っていたのだと実感した。選択肢なんてなかったんだ。響にキスをしたあの日から。私は間違えていた。取り返すことの出来ないミスだったのだ。

私は遂に重い腰を上げ、歩き出す。涙が徐々に溢れ出す。私は嗚咽を抑えることが出来なかった。声を出して泣いた。私の人生にとって一番大事かも知れなかった人を私は失った、失ったと知ったんだ。誰に聞かれようがもうどうでも良い。俯き、重い足を引き摺るように歩いた。





 家の前の通りに着く頃には泣き過ぎて頭痛が酷かった。もう何も考えられない。考えたくない。家に帰ったらすぐに寝よう。そのまま目覚めなければ良いのに…。なんて…

「お姉ちゃん!!!」

 愛が玄関の前に立っていた。私を呼ぶと、私のところまで全速力で走ってくる。

「早く!! 戻って!!」

「何言ってるの?」

「響さん!」

「響?」

「携帯勝手に見た! でもずっと鳴ってたから…ごめん。て、そんなことどうでも良いから! 早く! 響さん来てるって!」

「え…」

愛が何を言っているのかよく分からなかった。頭痛で思考がはっきりしない。

「ちょっと待って。響が来てる? なんで?」

「ちょっと! 呼び出したのお姉ちゃんでしょ!! しっかりして!」

「でも響来なかった…」

「おい!!」

 愛が私の頬を両手でガシッと掴む。痛い。

「響さん! 今! 約束の場所に! いるって言ってるの! 早く行け!!」

 愛の目を見る。その目は真剣そのものだった。段々と思考の靄が晴れていく。

 …響が来てる? …響が来てる!

 私は目を見開く。息を呑む。そして、愛の手を振り払って、踵を返して全力で走り出した。

「あ! お姉ちゃん! 携帯!」

 愛の声はちゃんと聞こえていたが、そんなことはもうどうでもいい。急がなくては。急がなくては! 響が待ってる!

 とにかく走った。部活の走り込みでもこんなに真剣に走ったことはないだろう。息が切れようと、とにかく走った。段々と脇腹が痛くなる。肺も痛くなる。でもそんなことは関係ない。 

…響が、私を待ってる!





 約束の場所に着いた時には、まともに呼吸できない程、息が上がっていた。なんとか息を整えると、辺りは静かで風でススキ同士の擦れる音がよく聞こえた。河川敷は真っ暗だ。土手に点々と立つ街灯の灯りでなんとか辺りを見回す。でもどこにも響の姿が見えない。私がずっと座っていたベンチの方にも行く。いない。

「なんで?! どこ!? なんで?」

 ベンチに程近い公衆トイレの中も確認する。照明が無く、暗くてよく分からないが誰もいないようだ。

「なんで? なんでいないの…。なんで? なんで!!」

 またいつもの場所に戻るが、やはりいない。

 私はその場で立ち尽くす。約束の場所なんてここ以外にはないはず。愛が言っていたのはなんだったんだ? 嘘? 幻? 夢? 何かの勘違い?

「なんなの!!!」

 私は思い切り叫んだ。誰もいない河川敷に虚しく響く。

「もうやだ…」

 もはや涙さえ出なかった。もう少しも動く気力がなくなった。

「もう…やだよ…」

 その場でうずくまり、俯く。

 …もしかしたら私がくる前に響は帰ってしまったのかも知れない。響の家に行くべきだろうか? 可能性はあるかも知れない。だが、もう足が動かない。心の奥でその可能性を強く否定する自分がいる。ここに来るということは少なくとも私との対話に応じる姿勢があるということになる。そんなことあるだろうか? 友達だと思っていた人間に告白されて、無理やりキスされて、きっと響は気持ち悪がっている。だから私を拒絶した。そしてこの現状がある。何時間も待った。今更現れるはずがない。愛は私を陥れるようなことはしない。きっと何か勘違いをしたのだろう。そう。勘違いだったんだ…。

「…ふふ」

 何だか可笑しくなってきて笑い声が漏れた。期待した自分が馬鹿らしくて愚かしい。座り込んで俯いたまま、私は笑った。涙が頬を伝う。それでも私は静かに笑った。

 その時突然、ジャリと、地面を踏む音が聞こえた。私は驚いて顔を上げる。

「じゃーん」

 目の前に響が両手を開いた戯けたポーズで立っていた。私は息を呑んだ。呼吸が止まる。

二人、無言のまま見つめうこととなった。

「なんちゃって…って…笑えないよね。あはは…」

 私は声が出せなかった。

「トイレの後ろにいたんだけど、あんなに叫ばれちゃ出辛いわ! なんて…はは…これも笑えないか…」

 尚も私は言葉が出ない。

「ずっと待ってたんだぞ! って、これはもっとダメだ…。遥の方が待ってたよね…ごめん…」

響は私の反応を待っているようだったけれど、私は私の感情の浮き沈みに付いて行けていなかった。何が起こっているのか分からない。突然響が現れ、私に下手な冗談を言う。これこそ夢だろうか?

「はぁ……私は馬鹿か。こんなんじゃない」

 響はそう言うと私の元まで歩み寄って、私と同じようにしゃがみ込んだ。そして涙で濡れた私の頬を撫でた。

「遥…待たせてごめん。許して」

 そう言って首を傾げた響の目には涙が溢れていた。


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