第30話 ヤクソク


 二日ぶりに学校に来た。でも教室に入る勇気は今日は無い。学校に行く日が減れば減るほど、行きにくくなる。こうして不登校になっていくのだろうなと他人ごとのように思った。不安がないわけではない。学校を辞めるつもりはないが、今は毎日学校で響と顔を合わせる勇気も忍耐も無かった。

 私はわざと授業中の時間を狙って学校に来ていた。皆と登校時間が被ることを避けた。できるだけ皆と顔を合わせたくは無いし、皆に哀れみの表情で話しかけられるのにはもううんざりしていた。「橘さん最近どうしたの?」「なんかあったの? 話聞くよ?」と。

 みんな本当に心配そうな顔をする。きっとその言葉に嘘はないのだろうと思う。皆純粋な優しさから、私にそう言う。でも私の心には響くことはなかった。言葉の内容は関係ない。誰に言われるかが問題だ。

 そう思っても尚、今日学校に来たのは谷先生に呼び出されたからだ。だから私は学校に足を踏み入れると直接保健室に向かう。保健室に行くには職員室の前を通り抜けねばならないのがネックだったが、幸い私に話しかけてくる先生はいなかった。保健室のドアを開ける。

「お邪魔しまーす」

「おー。きたかー。社長出勤だなぁー」

 谷先生はパソコンに向かっていて、私の方を向くことなくそう言った。

「ちょっと待ってねー。終わらせちゃうから」

 何かプリントでも作っているのだろうか。対して興味も無かったので、私は特に気にすることなく鞄を下ろして、椅子に腰掛ける。

 谷先生は何やらブツブツと、「あーん、なんでこうなるのー?」「あれ? 戻らなくなっちゃった」などと呟きながらパソコンと格闘している。どうやらパソコンは苦手分野らしい。ちょっと待ってと言われたものの、5分待ってもまだパソコンに向かっている。私は暇なので、特に具合も悪くないのに体温を測ったり、血圧を測ったりして時間を潰した。血圧計が私の腕を締め付けて少し痛い。上は118、下は75だった。普通すぎて面白みもない。

「はぁー終わった」

谷先生はパソコンをバタンと閉じると、私の方を見た。

「どう?」

谷先生は私が学校に来なくなった理由を知っている。その「どう?」には沢山の意味が含まれている。

「どうもこうもありません。最悪の気分です」

「あははーそうだよね」

「それで、どうして今日は私を呼んだんですか?」

「え、暇かなーって思って」

この先生は時々どうも先生らしくない様に思う。

「えぇ…」

「学校来られる元気が残ってて良かった」

「…私帰っても良いですか?」

「ダメダメー。私も暇なの。相手して?」

 語尾にハートが見えた気がした。

分かっている。谷先生は私のことをとても心配している。今日私も呼んだのも私があまり学校に来ないので、これ以上来づらくならないように定期的に来させようとしているのだと思う。

「先生、気持ちはありがたいです。でも、私、今日は教室行く気はありませんから」

「そんなこと一言も言ってないじゃん。私の相手をさせるために呼んだのだよ。ははは」

 この人は…本当に優しい人だ。クラスメイトの言葉は私の心をより冷たくさせるのに、谷先生の言葉は私の心を少しだけ暖かくさせた。何故だろう。大人だから? そういう仕事だから? どれも違う気がする。私は大人しく、谷先生の向かいの席に移動した。

「響、最近どうですか?」

谷先生は驚いた様子だった。

「わぁお。橘さんから境の名前を出すとは」

「変ですかね? 好きな相手ですし」

「さらにびっくり」

「どうなんです?」

「仲良くやってるみたいだよー。いつも一緒に帰ってるし。最近はここには来ないから細かいことは知らないけど」

 分かっていた答えだ。でも胸を刺す。私に表情の変化を谷先生は敏感に察した様だ。

「はぁ…。そうやって自分が傷つくことをわざと聞くのは感心しないなぁ」

「聞かずにはいられないんです」

「本人に聞いたら? なんて、そんなこと残酷すぎるわな…」

 そう。そんなことをできるほど私の心は強くない。

「先生は…」

「ん?」

「好きな人に、恋人がいたら、どうします?」

「奪う」

 この即答には少しびっくりした。

「できたらだけど、そのために努力する。私はね」

「恋人同士なんですよ?」

「関係ないかな。結婚してたら話は変わるけど、恋人なんてただの他人だもん。なんの拘束力もないでしょう」

「先生の言葉とは思えないんですけど…」

「建前で話して欲しかった?」

「いえ、そうじゃないですけど。意外で」

「だからと言って、橘さんと同じ立場だった時に同じことをするかと問われたら、迷っちゃうけどね」

「そうですよね…。私もどうしたら良いのかわからないんです。進むにも、辞めるにも、勇気が足りないんです」

「どっちでもない答えがあるかもよ?」

「どっちでもない?」

「人間て、最良と最悪ばかりを考えちゃうんだって。でも結果はそのどちらでもないことが多いの」

「私にとってのどちらでもない答えってなんでしょう」

「んー…奪い取るでもなく、諦めるでもなくってなると…」

「それで満足出来るでしょうか?」

「どうだろねー。橘さん意外と欲深いっぽいから」

「あはは。そうです。欲深いです。だからこんなことになってしまったんだと思います」

「別に悪いことじゃないよ。結果はいいものではなかったけどね」

 私は一呼吸置く。そう。結果は散々だった。響を自分のモノにしようとして失敗した。結果友達という立場まで失ってしまった。私は、私の中での妥協点を見つけるべきなのかもしれない。それが私にとってのどちらでもない答え。

 多分それは友達に戻る、という事だろう。今まで通り、お互い1番の友達同士に。山中くんの話も聞くことになるかもしれない。でも響と一緒に居たいなら、それにも耐えなければならない。

 そうなのだ。私の中で響と関係を断つことが一番最悪な結果。それだけはどうしても嫌なんだ。私は今更ながらそれにやっと気が付く。怒りや悲しみ、憎しみもある。でもそのどれもが響への想いの副産物でしかない。私は響と一緒にいたい。それがどんなに苦しくて痛くても。私は響のそばに…。

「先生…。私決めた」

「おお。どうするの?」

「わかんない」

「なんだそれ!」

「どうしたらいいかは分からないけど、どうしたいかは決めた」

「…そっか」

「うん」

「これから境に会いに行くの?」

「いや、帰る」

「なんだよ」

「まだ、心の準備ができてない」

「…まぁそうか。あんまり焦るなよ」

「はい」

 私は立ち上がって、谷先生を見た。そして礼をする。

「谷先生、ありがとうございました」

「…私のことはいいから。ちゃんと学校来てね」

 谷先生は私に優しく微笑む。

「努力します」

 私も精一杯の笑顔で返した。

 私は保健室を後にする。






学校から程近い緑道で写真部の面々は思い思いにカメラのシャッターを切っている。

「今度の日曜日どっか行こうよ」

 山中はカメラのファインダーを覗きながらそう言った。

「なんで?」

「いや、なんでって、一応付き合ってるんだし…」

何故だか山中は少し恥ずかしそうにそう言った。確かに私たちは付き合いだして一ヶ月以上経つのに休日に一緒に出かけたことが一度も無かった。

「映画でもなんでも。行きたいところある?」

「特に」

「つれねぇ〜」

「行きたくない訳じゃなくて、本当にないんだもん」

 私は部から借りているデジタルカメラで、適当に写真を撮りながら言う。私は写真に明るくない。構図とか被写体とか感度とか一眼とかミーラーレスとか、ちんぷんかんぷんだ。だから借り物のデジタルカメラで十分だった。何故写真部に入ったのか自分でも思い出せない。写真にそもそも興味が無かった。それなら、天文学部とか地学部の方がまだ…

「あ、あれがいい」

「お。なになに」

「プラネタリウム」

「おお、いいね。じゃぁそうしよう」

我ながらいい提案だと思った。山中の期待にも応えられるし、単純にプラネタリウムは好きだ。どうせなら本物の満天の星空が見たいが、それは実際難しいし、ちょっとロマンチックが過ぎる。いい塩梅だ。

「時間とか場所は俺が調べとくから。待ち合わせは駅にしよう」

「はいはーい」

 今の時期ならまだオリオン座とか、冬の大三角の解説もあるかも知れないなぁと考える。シリウスを思い出す。そして遥を。私の中でシリウスと遥がすっかり結びついてしまっていた。そんな考えを振り払う。山中と出かけるというのに、遥のことばかり考えていては失礼だ。辞めるんだ。馬鹿なことを考えるのは…。遥のことを考えるのは…。

 携帯電話が鳴る。

手に取り画面を見ると、そこには数ヶ月ぶりに見る、見慣れた名前があった。

「遥…」

「ん? 橘がどうした?」

「ううん! なんでもない。ちょっとトイレ!」

 私は走りだした。

「近くにはないぞー! おーい!」

 私は山中の言葉を無視して、人目に着かない場所を探す。しばらく走って、周りを確認する。一体私は誰を警戒しているのか分からないが、誰にも見られたくないと思った。鼓動が早いのはおそらく走ったからじゃない。

 私はゆっくりと深呼吸してから、遥からのメッセージを確認した。


『今度の日曜日。13時にいつもの待ち合わせ場所で待ってる。』


 それだけ書いてあった。

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