第22話 コドモ


 放課後私は写真部の部室の前に立っていた。授業が終わってすぐここに来たのでまだ山中君を含め、写真部の部員は一人もまだ来ていないようだ。部室棟なのでテニス部の仲間に出くわすこともあるだろうと思う。けれど、そんなことはどうでも良かった。直接中山君のクラスに行っても良かったのだが、他の生徒に変な噂を立てられたら敵わない。女子生徒が男子生徒を呼び出しただけで皆にとってそれは恰好の話題のネタになるだろう。現に響と山中君の噂も木村さんが誰かから聞いたものだ。男子と女子の二人が気まずそうに帰っているだけで噂になる。正直言って鬱陶しくて嫌になる。響の噂だから余計にそう思うのだろう。ただこの噂を聞き流すことは私にはできない。タイミングが良すぎるのだ。火曜日から学校に来なくなった響と前日一緒に帰っていたという山中君。二人の仲が親密というわけでもないことは分かっている。もしそうなら響は私に言わないはずが無い。ただ、二人の間の何らかのやりとりに響が学校に来なくなった原因があると考えて間違いないだろう。その理由を聞き出さなければ…

「あ、橘。どしたの?」

顔を上げると声の主は山中君だった。橘と呼び捨てにされた。響以外に。それは私に驚きを与えた。だが今それはいい。

「山中君ちょっと話があるんだけど…良いよね?」

「え、なに。いきなり。これから部活なんだけど」

「響」

「境が何?」

「月曜から学校来てないんだけど」

「え」

 山中君の顔に驚きと同時に何か別の感情が見えた気がした。私はそれを見逃さなかった。

「何か知ってるよね?」

「いや…うん。多分」

 やはり山中君が関係しているのか…。私は落ち着いた口調になるよう努めていたが、実際心の中は不安でいっぱいだった。




 山中君が場所を変えようと言ったので、私たちは部室棟を出て、校舎の屋上の出口前の踊り場に居た。屋上の扉には鍵が掛かっていて出られない。ここなら誰かと出くわすこともないだろう。

「境、月曜からずっと来てないの?」

「うん。連絡も火曜の朝以降取れない」

「はぁ…まじか」

「何したの? 響に」

 自分でも思ってもみないほど、私は問い詰めるように強い口調でそう言った。

「なんもしてないよ! いや、でも俺のせいか…。余計なこと言ったから…」

「だから、何を言ったの!」

 踊り場に私の声が響き渡った。下の階にも聞こえただろう。だがそんなことを気にする余裕を私は今持っていなかった。

「橘と…」

 私? 何故私の名前がここで出るのだろう。

「付き合ってるんでしょって…言った」

「え…?」

 私と響は付き合っていない。でもそれを言われて響が学校に来なくなる理由が分からない。分からないが胸がざわつき始める。

「で、境は違うって言ってたんだけど、一部の男子の間で噂になってるって…言ったら」

…嫌だ。聞きたくない。

「具合悪そうになって…。ごめん! 俺が余計なこと言ったせいで!」

 山中君のせい? 違う。

「みんな面白がってるだけだから気にしないようにって言ったんだけど…」

 私のせいじゃないか。

「噂してた奴らにも誤解だって言っておいたよ。ほっときゃ収まるとは思うんだけど…。本当ごめんね」

 私と付き合っているという噂が流れて響は学校に来なくなった…? それが差す意味は? 分からないはずが無い。

「橘?」

「…分かった。山中君ありがと。もう行って」

「え…」

「もう分かったから行っていいよ」

「…ほんとごめんね」

 山中君は私の顔を何度も確認しながら階段を降りていった。山中君の足音が聞こえなくなるのを私は待った。そしてその時が来ると私はその場にへたり込んだ。涙は出なかった。

 響は、嫌だったんだ。私と噂になることが。学校に来られなくなるくらい。それはショックとか辛いとか、そういう表現を超えるものだった。もはや自分が何を感じているのかすら私には分からなかった。放心状態とはこのことなのだろう。

 どれくらいそうしていたのだろう。床の冷たさが足に浸透して身体に伝わり、身震いした時、私は我に返った。

「…風邪ひいちゃう」

 そう言ったが、それもどうでも良かった。私はスクと立ち上がり、階段を降りた。






「お、橘さん。どしたん。具合悪いの?」

 私は何故か保健室のドアを開けていた。谷先生はまたいつものマグカップでコーヒーを飲んでいた。

「先生」

「何」

「響が私と付き合ってるって噂が流れたのが嫌みたいで学校来なくなった」

「え」

「響が私と付き合ってるって男子の間で噂になったのが嫌で学校来なくなった」

「え、境学校来てないの?」

「はい」

「二人付き合ったの?」

「いえ」

「マジかい…」

「マジです」

 谷先生はマグカップを置くと、ドアの前に突っ立ったままの私を手招きした。

「座んなさい」

「はい」

 私はドアを閉めてから、椅子に座る。

「コーヒー飲む?」

「いえ」

「そう…。顔面蒼白だけど…大丈夫?」

「大丈夫です」

「いや、明らかに大丈夫じゃなさそうなんだけど…。なんか淡々としてるし」

「そうですかね?」

「辛くなかったらここに来ないでしょう」

 そうなのだろうか。自分でもここに来た理由はよく分からなかった。誰かに話を聞いて欲しかったのかも知れない。でも、私は今、何も感じなくなっていた。何を考えたらいいのかも分からなかった。

「で、これからどうするの?」

「これから…」

 これから、私はどうするのだろう。響とどう接せば良いのだろうか。きっと響はそれを悩んでいるのだと思う。私との接し方。今まで通りでいてはきっと噂も長引く。

「先生…私、分かりません。響が私と噂になるのが嫌なら、一緒にいられない」

「は?」

「なんです? だってそうじゃないですか。私と一緒にいたら噂されるんですよ? 響だって嫌がるでしょう?」

「何言ってんのあんた」

 谷先生は訝しげな表情を作ってそう言った。私には谷先生が何を怒っているのか分からなかった。

「くだらなっ! 噂なんてどうでも良いじゃん!」

「私は気にしません。でも、響は」

「境がなんだってんだよ!」

「え」

「そんなもの関係ないんだよ!」

 大いに関係あると思うのだが…

「好きなんでしょう?! そんな簡単に諦めるんだったら最初から相談なんてするな! こっちだって暇じゃないんだよ!」

「なっ」

 これが大人の言うことか? 私は少しムッとした。

「先生言ってたじゃないですか! 私は話を聞いてあげるぐらいしかできないって。それなのにそんなこと言うんですか?」

「聞いて欲しかったら意味のある話をしなさいよ! あんたがそんな馬鹿だと思わなかった」

「なっ! はぁ!?」

 なんなんだこの人は! こっちは傷心で来ているというのに、言うに事欠いて馬鹿だと!

「あーくだらな。心の中で応援してた私も馬鹿だった。やっぱあんたもただのクソガキだね」

「っ!」

 言葉が出なかった。こんな失礼な事を言われたのは生まれて初めてだった。

「そんな言い方…そっちこそ子どもじゃないですか!」

 私は相手が先生だということも忘れて言い返していた。

「そうですよー子どもですよー」

 本当に…! なんだこの人は! 大人の言うことじゃない。

「じゃああんたは? 大人なの?」

「わたしは…!」

 正直、自分が大人だという自信はない。働いてもいない学生の身分だ。でも、

「今の先生よりは大人です!」

「…そう」

 あれ。なんだろう。何か言い返してくると思ったのだが、肩透かしをくらった。谷先生はテーブルに身を乗り出して、私に顔を近づける。

「あんたはね。もっと子どもでいなさい」

「え?」

「クソガキじゃなくて子どもだよ。クソガキは嫌いだから」

 さっきまでの喧嘩腰はどこへ。谷先生は私の目を真っ直ぐに見つめた。

「大人になったらね。嫌でも大人やんなきゃいけなくなるの。大人ぶるのをやめなさい。くだらないのそんなのは。時間が勿体無いの」

 谷先生の表情は真剣だった。真剣に私に子どもでいろと言っていた。

「人間は感情で動かなきゃいけない時があるの。大人ぶってるとその感情を見逃すことがあるんだよ。理性が必ずしも正しいとは限らないってこと」

「…でも、響は、私と噂になるのを嫌がって…」

「だーから、それをやめろって言ってるの。境がどう思ってようが関係ないんだよ。自分が本当にしたいことを自分の胸に聞いてみて、それを優先しな。そうすれば後悔は少なくて済むよ。少しは境を見習え。噂が嫌だから学校来ないなんてほんと子どもだよあの子は」

「…私は、響に学校来て欲しいです…。それで、できればいつも通りになって、それで、両想いになりたいです」

「だったらそうなるよう行動するしかないでしょう。とりあえず境は引っ張って学校連れてきな。早く来ないと保健室出禁にするって言っとけ!」

「ふふふ、はい」

 私はいつの間にか笑っていた。谷先生、ここまでを想定して喧嘩を吹っ掛けたのだろうか。侮れない人だと思った。

「まぁ責任は取れないけどね。あははー」

「ふふ、ほんと大人の言うことじゃないですね」

「もしフラれるようなことがあれば、話は聞くから。いつでも来なさい」

「ふふふ。はい。その時はお願いします」



私は保健室を後にすると、そのまま響の家に向かった。


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