第19話 けんめい
目が覚める。どれくらい経ったのだろう。気付かないうちに寝ていた。ベッドの周りはカーテンで閉め切られているので時間もわからない。頭痛は…完全には治っていないが、良くはなっていた。私は起き上がって、ベッドから降り、靴を履く。立ち上がると、また頭が痛くなった。やはり治りかけのようだ。カーテンを開ける。
「お。起きたか。どう? 調子は」
谷先生は仕事をしていたのだろうか、パソコンから手を離すと、私の方を向く。
「少しは良くなりました。けど、まだ頭は痛いです」
「ありゃ、片頭痛よほど酷いんだね。もう少し寝てたら?」
「寝過ぎてもそれはそれで頭痛くなるので」
「そか。じゃあ、もう少しゆっくりしていきな。コーヒーは…よくないか。水がいい?」
「はい。ありがとうございます」
私は、円卓の周りにある椅子の一つに腰を下ろした。谷先生がコップに水を汲んで渡してくれた。
「ありがとうございます」
保健室の世話になるのは初めてだった。いつもは頭が痛くなるとすぐに薬を飲んで、痛みが治るのをただひたすら待つだけだった。まず保健室に行こうという発想が浮かばなかった。それに、響と仲良くなってからは、なんとなく谷先生の世話になりたくないという気持ちも少しだけあった。響と谷先生の関係を疑っているわけではない。谷先生は態度こそぶっきらぼうなところがあるが、とても優しい。響が懐くのも頷けると思う。だからこそだ。私まで絆されてなるものか! という子どもじみた意地を張っていた。だが、今日はそうも言っていられなかった。あのまま頭痛が続いていたら、教室で嘔吐していたかも知れない。それを避けられたのは本当に良かった。響には後でまた改めてお礼を言っておこう。
「境さ」
谷先生はそう一言呟いた。
「あんな顔するんだね。すごい心配してた。初めて見たよ」
「響は優しいです」
「そうだね。橘さんだったからかな」
「いえ、きっとみんなにもそうだと思います。みんな知らないだけで」
「ははは、あの子不器用だからね。自分では気がついてないみたいだけど」
「ふふふ、そうですね」
私はやはり弱っているのだろうか。前に谷先生と話した時のような嫉妬心が出てくることはなかった。むしろ響の話をできる人がいるのがちょっとだけ嬉しかった。
「あの子、橘さんと友達になりたくて、どうしたらいいんだろうって、すごい悩んでたんだよ。あはは、言っちゃった。内緒ね」
「そうなんですか?」
「そう。だから、この前、橘さんが境に会いに来た時嬉しかったよ。仲良しになれたんだなって」
「そうだったんですか…」
そんな谷先生の気持ちも知らずに、私は半ば喧嘩を仕掛けていたなんて…やはり私はまだまだ子どもだ。反省する。谷先生はとても穏やかな微笑みで響のことを喋る。まるで母親みたいだ。そう思った。
「あの子とこれからも仲良くしてやってね。どうせあの感じじゃ友達多くはないんだろうし」
前に来た時思った通り、谷先生は響を贔屓しているのだろう。でもそれは変な意味じゃない。純粋に響が心配なのだ。
「ふふふ、はい。わかりました。でも………私、響が好きです」
私は考えることなく口にしていた。
「だから、どうなるかわからない…です。いい意味でも、悪い意味でも」
「そっか…」
谷先生に驚いた様子はなかった。きっと気付いていたのだろう。
「橘さん」
「はい」
「私は先生って立場だから、否定することも手助けしてあげることも出来ない。出来ることと言えば、話を聞いてあげるぐらいなもん。不甲斐ないけど」
「はい。分かってます」
「だから、これは谷翔子という一人の人間からの言葉だと思って聞いてね」
「なんです?」
谷先生は手を伸ばすと、机の上に置いてあった私の手を力強く握った。
「頑張ってね…!」
私をまっすぐ見つめる谷先生の目は微かに潤んでいた。
「…はい!」
チャイムが鳴り、4限目の授業が終わり昼休憩になると、私はすぐに保健室へと走った。私は授業中またネガティブな思考を駆使して遥の身に何か異変が起きているのではないかと勘繰る。もっと症状が悪化していたらどうしよう! だとしたら家に返すべきか? それとも病院? どちらにしろ私はついて行く! そう心に決めて、保健室のドアを勢いよく開けると、遥は谷さんと談笑していた。
「あ、きたきた」
「こらー、そんな思いっきりドア開けたら壊れるだろー」
「遥! 起きてて大丈夫なの?!」
私は遥のそばに駆け寄る。
「うん。薬が効いてきたみたい」
「病院は?!」
「病院? そこまでじゃないよー」
「じゃあ帰る?! 私送るよ!」
「午後からは授業出るよ?」
「はっはっは。過保護だなー境は。親みたい。あはは」
何だかすごく温度差がある。でも遥は見た限り元気そうだ。
「そっか、良かった…」
「ふふふ、ありがとね」
遥の微笑みを見て私はやっとホッとした。
「響―お願いがあるんだけどー」
「何?! なんでも言って!」
「私のカバンからお弁当取ってきてくれない?」
遥は手を合わせて首を傾げる。
「あ…うん。分かった」
「はっはっは」
橘遥と境、二人は楽しそうに喋りながら、お弁当を食べている。私はそれを見ているだけで幸せな気持ちになった。こうして保健室を溜まり場にされるのは困るのだが、今日はそれもよしとしてやろう。橘遥は境のことをやはり好いていたか。境の方はどうなのだろう。その気もなくはないような気もするが、境が仮に橘遥を好いていても、それを認めるのには時間がかかるだろうと私は思っていた。境と二人で過ごした時間は他の生徒たちより圧倒的に長い。だから、私はそう感じる。友達を作るのですら、あの様子だったんだ。並大抵の覚悟では難しいだろう。
教員という立場からしか二人のことを見てやれない。だから、橘遥への言葉は私の精一杯だった。こんなにもどかしいなんて…。二人と同じ立場なら、二人がくっつくように後押ししてあげたい。同性だからなんだってんだ。家族を愛する様に、人を愛する気持ちに壁なんて本当はあっちゃいけない。そんなものはクソだ! あーだこーだいうやつなんてクソ野郎だ! 自分の本当の気持ちを大事にしてほしい。そう二人に言ってあげたい。言ってあげられない自分に腹が立つ。でも、私は教員だ。それに大人でもある。大人の何気ない一言で子どもたちの人生は大きく変わることもある。橘遥への言葉も本当は言うべきではなかった。だが、私は子どもたちの想いを無碍に出来ない。子どもの言うことだから? 大人になったら忘れる? そうは思わない。彼らは彼らなりに彼らの世界で懸命に生きている。懸命に考えている。懸命に誰かを想っている。本当はそこに大人も子どもも無い。
橘遥の境への想いも、もしかしたら一過性のものかも知れない。でも、そうじゃ無いかも知れないではないか。彼女は一生、境響という人間を愛し続ける可能性だってある。
ここまで考えて、やはり私には二人を見守ることしかできないと悟る。仮に今、二人が結ばれたとしても、最終的に、癒えない傷を負う可能性も確かにあるからだ。私には、いや、誰にもその責任を背負うことなんて出来やしない。
「…頼りない先生でごめんね」
私は談笑する二人に聞こえないように小声でそう呟いた。
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