第18話 イタミ


 一人、橘宅から歩いて帰る。風はないが、空気が冷たい。一歩一歩歩くたび、アスファルトの冷たさが、靴を通して足に伝わる。私は地面だけを見つめて歩き続ける。

 この胸に引っかかっているモノはなんだ。それは鋭利で、食い込んで離そうとしない。酷く痛む。ずっと友達でいてほしい。という私の願いに遥は私の欲しい答えをくれた。だが、その答えでも私の胸のこの引っ掛かりを取るには至らなかった。

私は間違いなく、何かを間違えた。

それだけは確信できたのだが、それが何なのか、この痛みの渦中では考えることは難しかった。何を考えても、思い出しても、この引っ掛かりに触れて、私の胸に新たな傷を作る様だった。

私は、響の「好きな人はいない」という言葉に、ショックを受けているらしい。それなのだ。ショックを受けている自分に腹が立って仕方がない。私は曖昧な答えで逃げたくせに! 遥と向き合うと決めていたはずだったのに! 私は、私は遥が好きかもしれないと言うべきだったのか? わからない。愛ちゃんがいたから言えなかった? 違う。きっと遥と二人っきりでも私は逃げていた。それなのに、遥の言葉にショックを受ける権利なんてない。

私は遥からだけじゃなく、自分からも逃げていたのだと今、気が付く。でも、なら私はどうしたら良かったんだ。怖い。どうしたらいいのか分からない。私は怖くて堪らないんだ。遥を好きだと認めてしまえば、全てが変わる。人の見方も、見られ方も。学校生活も、将来も。私は遥に出会うまで、自分は普通の人生を歩むと思っていた。大学に行って、就職して、結婚して、子どもを産み、家庭を持つ。母や遥のお母さんと同じ、たくさんの人と同じ様に。それがどうだ? 遥を好きと認めてしまうということは、その普通を捨てるということになる。女性が好き? 世間じゃどうとか知った事ではない。そんなの…普通じゃない。少なくとも私の中では。今まで普通に生きてきた。それを簡単に変えることなんて、私には出来ない。

そうだ。きっとこれが私の答えなんだ。私は普通でいたい。遥とも友達でいたい。それだけでいいじゃないか。今まで通りだ。遥は好きな人はいないと言っていた。ショックを受ける必要なんて最初から無かったんだ。むしろ喜ぶべきだ。遥は私を好きじゃなかった。それは今まで通りの友達関係が続くということだ。ずっと友達でいてくれると言っていた。もしかしたら親友というものになれるかも知れない。高校を卒業して大学に入っても頻繁に会って、彼氏ができたよ。なんて報告し合ったりして。結婚式でスピーチしたりして。そういう普通がこの先私達を待っているんだ。幸せなことじゃないか。何だ。簡単なことだったんだ。遥への想いもきっと何かの間違いか、一過性のものだ。私が女の子を好きになるなんて有り得ないことだ。

胸に引っ掛かっている何かは…それでも取れなかった。でも私はそれを無視することに決めた。





 次の日、私はいつもの場所で遥を待っていた。決められた集合時間から5分ほど経って、遥はやってきた。

「ごめんごめん! ちょっと寝坊しちゃって!」

「全然いいよ。気にしないで。行こ」

 私はきてくれただけで安心していた。理由はよく分からない。けど、もしかしたら、遥はもう私と登校してくれないのではないか…と考えていた。ずっと友達でいてくれると遥は言ってくれた。でも、私のこの不安や迷いや、遥への感情が、遥に伝わっているのではないかと、要らぬ心配を持っていた。言わなきゃ伝わる筈もないのに。遥はそれを見透かして、失望して、私から離れていってしまうような気がした。

集合時間からたったの5分遅れてきただけなのに、この有様だ。私は自分の考えを振り払う。そしてもう一度確認する。遥が私を好きなんてことはない。私が遥を好きということもない。二人は友達だ。普通の、ただ、仲がいいだけの友達だ。

「響?」

「ん? どうしたの?」

「いや、なんか考え込んでるみたいだったから」

 そう聞いて、私の顔を見た遥の顔を見てドキリとした。少し、瞼が腫れている様な気がした。

「遥…」

「何?」

「ううん。やっぱ何でもない」

「何だよー言いなよー気になるじゃん」

「…最近太った?」

 遥は、眉間にシワを寄せると、軽く私の腕をパンチした。

「ごめんごめん冗談」

「知らない」

「怒った? ほんと冗談だから。あ、ごめん。もしかして図星?」

 またパンチされる。

「あはは、ごめんごめん」

「知りません」

 遥はそう言ってそっぽを向いてしまったが、口元はかすかに微笑んでいた。良かった。いつも通りだ。私はまた安心した。瞼の腫れも、きっと気のせいだ。それか、本当に少し太っただけかも知れない。私は先に行ってしまった遥を追いかけた。






 遥の様子がおかしいと思ったのは、2時限目の授業中だった。遥は成績優秀で、先生からの評判も良い。でも彼女は机に突っ伏していて、授業を聞いている様子が全く無かった。寝ているのだろうか? 朝も寝坊したと言っていた。夜遅くまで何かしていたのだろうか? それとも…

 チャイムが鳴り、授業が終わっても遥は突っ伏したまま起きることはなかった。いつもなら、休み時間は大抵私の席までやってくる。何か身体の調子でも悪いのだろうか。私は心配になって、遥の席に向かった。

「遥? どうしたの? 大丈夫?」

「大丈夫…」

「体調悪いの?」

「うん…」

 遥の声は弱々しいものだった。口数も少ない。私は遥の耳元に口を近づけ、小さな声で聞く。

「…生理?」

「ううん…頭痛くて。薬持ってくるの忘れて…」

 遥は常に頭痛薬を持っていると言っていた。酷い時は頭痛に加え、気分が悪くなり嘔吐してしまうこともあるらしい。遥のとても辛そうな顔を見ると心配で堪らなくなった。

「保健室行こう」

「…ちょっと休めばよくなると思う」

「だめ。行くよ。立てる?」

「…うん」

 よほど辛いのか、遥は素直に従い、ゆっくりと立ち上がる。私は遥の肩をソッと支える。遥はとても苦しそうだった。手で額を抑えている。少し息も荒い。気分も悪そうだ。偏頭痛持ちとは以前から聞いていたが…ここまで辛そうな遥を見るのは初めてだった。

「橘さんどうしたの?!」

 他のクラスメイト数名も異変に気がついたのか声を掛けてくる。こんな時ばかり…そう思ったが、言っても仕方ない。

「具合悪いんだって。私保健室連れてくから、先生に言っておいて」

「分かったー」

 私の言葉を聞いたクラスメイト達は心配そうに遥を見ている。私が言わなきゃ、遥の異変に気づきもしなかったくせに…私は久々に遥と仲良くなる前にクラスメイト達に持っていた苛立ちを思い出す。でも、そんなことより今は遥が心配だ。私は遥を支えながら教室を出る。

「気持ち悪い? トイレ行く?」

「…大丈夫。…響」

「何? どうした? おんぶしよっか?」

 私は遥の肩を摩る。

「…やっぱり響は優しいね」

 遥は弱々しく微笑んだ。それは私の胸を締め付けた。なぜだか少しだけ涙が出そうになった。

「…こんな時にいいから。具合が良くなってから沢山褒めて」

「ふふふ…はーい」

 私が遥のそばにいて良かった。皆、彼女を見ているようで見ていない。そう改めて感じた。








「あ、橘さん、どしたの?」

保健室のドアを開けると、谷先生は机でコーヒーを啜っていた。

「遥、偏頭痛持ちで、凄い頭も痛いし、気持ち悪いみたい。寝かせてあげて。薬ある?」

 響が私の代わりに説明してくれた。正直喋るのすらも辛いので非常に助かった。私が言いたいことを全て言ってくれた。

「ありゃ」

 それだけ言って、谷先生はコーヒーを置くと、棚の扉を開け、薬を探し始めた。

「遥? 大丈夫? ベッドまで歩ける?」

 響は、それはそれは心配そうに私の顔を覗き込んで、優しく聞いてくる。やっぱり響は優しい。そんな響の優しさに私は惹かれたんだな。などとぼんやり考えるが、頭痛の波がまたやってきて、思考を遮る。

「谷さーん。ベッド使うよー」

「あいさー」

 谷先生は水を汲んでいる。

 響は私の肩を抱き、保健室の奥にあるベッドまで私を支えてくれた。カーテンを開けて、ベッドに掛かった布団をめくってくれる。私がベッドに座ると、跪いて、靴を脱がせてくれた。私がベッドに横になると布団を肩まで掛けてくれる。そこまでしなくていいのに。でも言わなかった。響の優しさは私の苦痛を和らげた。

「ありがと。響」

「いいよ。気にしないで。気持ち悪い? 袋とか用意した方がいい?」

響は尚も心配そうに私を見つめる。眉毛が「ハ」の字になっている。モモに似ているとまた思った。

「ふふふ」

「何?」

「モモに似てる」

「またモモ? そればかにしてるの?」

 怒ってはいない。響は困ったように笑った。

「ううん。可愛い」

「何それ」

予鈴が鳴った。でも響は気にすることなくベッドの横に置いてあった椅子に腰掛けた。

「熱はないかな?」

 響は私の額に手を置く。私は目を閉じた。ひんやりしていて気持ちがいい。頭痛も少し和らぐ。

「ほい。頭痛薬。飲んじゃダメなのとかある?」

 谷先生が薬と水を持ってきて、響は手を引っ込める。少し残念に思うが、今は薬が欲しかった。

「大丈夫です。ありがとうございます」

 私は上半身を起こすと、薬をもらい、水で流し込む。そしてまた横になり、目を瞑る。

「しばらく寝れば良くなると思うんで」

「ま、ゆっくりしていきな」

「はい。ありがとうございます」

「よし、それじゃ境は戻りな」

「え。やだ。私、遥みてる」

 私は口元まで被った布団の下で微笑んだ。

「ダメです。それは私の仕事です。重篤患者じゃないんだからさ。さぁ、行った行った」

「え〜」

「いいから授業行きなさい」

 響がいてくれた方が嬉しいが、谷先生のいうことはもっともだった。それに私のせいで響の授業の出席日数が減るのは嫌だ。

「響、ありがとね。もう大丈夫だから」

 私の言葉を聞いて響も観念したのだろうか。

「うん。分かった。お大事にね。あんまり辛かったら帰るんだよ? 私、送ってくから」

 響はそう言い残して保健室を後にした。


「全く。送ってくって…。あんたは保護者かっての」

「ふふふ」

「橘さんも、笑ってないで寝なさい。元気なら教室返すよー」

「はい」

「よし。おやすみー」

谷先生はカーテンを閉めた。

私は再度目を閉じる。響の手の感覚がまだ額に残っている。頭も酷く痛むし、気持ちも悪い。けれど、響に優しく看護されるのは悪くない。具合も悪くなってみるものだ。こんなこと言ったら、谷先生にも、響にも怒られちゃうかな。などと考えてる内に、私はいつの間にやら眠っていた。


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