第15話 けんせい
谷さんを叩いていて、保健室のドアが開く音に気が付かなかったのだろうか。遥はいつも通りニコニコと私を見ている…。別に見られてまずい事など何もないのだけれど…谷さんと言えど先生をバシバシ叩いているのはまずい事ではない…? とにかく私は何故か遥の「仲良いんですね」という言葉に慌て、谷さんから素早く一歩離れた。
「あ、橘さんじゃん。珍しっ」
「遥! どうしたの?! 部活は?!」
本当にどうしたのだろう。昼休みはテニス部の仲間と昼食を取るのが半強制のはず。遥がここに来るとは想像もしていなかった。
「早く食べて抜け出して来た」
「なんで?!」
「響いつも保健室でお昼食べてるって言うから、淋しいかなって思って。でも心配なかったね」
何故だろう。遥からの視線が痛い気がする。気のせいだろうか…。
いや、というかどこから聞いていた?! 見られてまずいことは何もないけれど、聞かれたらまずいことは沢山喋っている。まずいまずいまずい…もし途中からでも聞かれていたら?! 私にまともな友達なんて遥しかいない。すぐ自分のことを話していると気が付いただろう。話した内容も…「声がエロかった」なんて聞かれていたら…。やばい! どうしよう! 心の中で慌てふためく私を尻目に、谷さんは、
「ま、座んなさいな。コーヒー入れてあげるー」
くそ! お気楽なものだ! 大体私にはコーヒー出したことなんてないのに…!
「わーい」
遥はドアを閉めると、立っている私の隣に座った。谷さんは立ち上がって保健室の奥に置いてある電気ポットへと向かう。
あ、これ、よく考えたらやばい。谷さん知らないんだった。私は谷さんに相談している、私を好きかもしれないその友達が「橘遥」だと言っていない! 相手が遥だとバレるかも!!
私はもうパニックだった。一人オロオロとしていた。
「どうしたの? 響。座りなよ」
「え?! いや、私はいいやー。というか遥、外行こ外」
「外? なんで?」
そうだ、一旦ここから遥を連れて逃げよう。話はその後だ。ここにいては問題が山積みだ。
「天気いいしさ」
「曇ってない?」
「ここなんか寒くない?」
「いや寒くないし、外の方が寒いでしょ。谷先生コーヒー淹れてくれてるし」
「じゃぁ教室戻ろ! 授業始まっちゃう!」
「響」
「何!?」
「座って」
「…うん」
遥の言葉に圧を感じる。逃げ出すのは無理らしい。遥の圧から推測しても、やはり何か聞かれたのだろうか…。もう頭がぐちゃぐちゃだ。なるようになれ。私は諦めて席についた。
「はーい。どうぞー。熱いから気をつけてねー」
谷さんがコーヒーを淹れたマグカップを二つ持って戻ってきた。マグカップを遥に渡す。谷さんは椅子に戻ると、コーヒーを啜った。
「やったー。ありがとうございます」
あれ? 私の分は?
遥はフーフーと息で冷ましてから、慎重にコーヒーを口に運んだ。一口飲んで、机にマグカップを置く。
「で、なに話してたんですか?」
来た。これは単なる質問だろうか。それとも牽制だろうか。
「別に、何にも?」
「響には聞いてないよ?」
「え」
なんか、怖い。顔は笑っているのに、怖い。
谷さんも笑って返す。
「ほんと、なんでもないよー。いつものくだらない話」
くだらない話とはなんだ。でも、谷さん。ありがとう。流石に生徒の相談事をペラペラ喋るような真似はしないだろうとは思っていたが…。「恋の相談」とかくらいだったら言うんじゃないか…などとは考えていなかった。断じて。
「あんな戯れてて楽しそうだったのにー。聞かせてくださいよー」
「ひみつー」
「えー。なんでですか?」
「まぁ、守秘義務って事にしておこうかなー」
「先生ずるいですよー教えてくださいよー」
どうやら、遥は本当に何を話していたのか知らないらしい。よかった…。聞かれていなくて。本当によかった。私はとりあえず一安心した。でもなぜ私から聞こうとはしないのだろうか? 私も何を喋っていたか言うつもりはもちろん無いが、何か谷さんから聞く事にムキになっている様にさえ見える。
「まぁ…いっか」
遥は小声で呟いて、またマグカップを両手で取り、コーヒーを一口飲む。一息着いてから、
「先生、響と仲いいんですね」
まただ。また私には聞かない。今の遥は何かがおかしい。さっき、私に会いに来たと言っていたのに、私と会話する気は全くないみたいだ。
「いや、普通」
普通なのか…ちょっとショックを受ける。
「あんな戯れてて楽しそうだったのに?」
戯れててってまた言った。
「そうだよ。親御さん達からお預かりしてる大事な生徒の一人だからねー」
「それだけですか?」
「そうだよ。他に何があるの?」
「いえ…別に」
なんなんだこれ…。二人とも笑顔で会話しているのだけれど、冷や汗が止まらない。
「まぁ、多少贔屓しちゃう子達いるけどね。先生も人間だからねーあははー」
「その一人が響ですか?」
「そうとは言ってないよ。しかし橘さんこだわるねー」
「そんな事ないです。普通です」
遥の顔から笑顔が消えていく。明らかに苛ついている様子だ。もうここに居たくない。頭が痛くなってきた。保健室にいて具合が悪くなってくるとは…。
その時、予鈴が鳴った。普段は聴きたくもない雑音が、今の私には救済の鐘の音に聴こえた。
「あっ!! 予鈴だ! 遥行こう!」
私は素早くお弁当を片付けると、鞄に詰める。
「じゃあね谷さん!」
私は谷さんに一瞥もくれず、遥が立ち上がるのすらも待たず、保健室から飛び出した。
私は酷く苛ついてた。何を話していたのかは、少し気にはなるが実際はどうでもいい。自分でもこんなにムキになるとは思わなかったが…。この人がどういう人なのか知りたかっただけだ。ただ、この谷先生という人はどこか掴み所がない。押しても手応えがなく、かといってこちらが引くと寄ってくる。そんな印象を持った。でも原因はそれじゃない。これは単純に嫉妬だ。分かっている。響が私以外の前であんなに楽しそうに見えたのは初めてだった。
私には確かめる必要があった。この人が危険じゃないか。響にとってじゃない。私にとってだ。相手が先生だからといって私は油断するつもりは無い。向こうも言っていた通り相手は人間だ。可能性はゼロじゃない。
急いで出て行った響を見送ってから、私は持っていたマグカップを置いた。
「ご馳走さまでした」
私は立ち上がる。
「また来てねー」
谷先生は笑顔で手を振って私を見送った。
警戒する人間がまた増えてしまった。私の道は前途多難になりそうだ。
「ふぃー疲れたー」
谷は、橘遥の姿を保健室のドアの前で見送ったあと、ドサリと椅子に座り込む。
「いやぁ、ちょっと意地悪だったかな? でもまさか橘遥だとは」
コーヒーを啜る。
「しっかし、あの子、もはや隠す気ゼロだったな」
谷はキャスター付きの椅子を左右に揺らして天井を見上げる。
「まぁ励めよ若人〜」
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