第3話 恋慕という狂気

 なんだか、まぶしい……


「う……ん……」


 ただよってきた塩素臭に、身体をはね起こします。


「ここはっ、プールっ……」


 そう、体育館横のプール。

 見慣れた風景なのに、やけに胸がざわめくのは、なぜでしょうか?


「ミーツバっち!」


「ひゃっ! す、須藤すどうくん!?」


「あははっ、ビビりすぎー! こんなとこでどうしたの?」


 ひょっこり現れたのは、人懐っこい栗毛の教え子です。

 プールサイドに座り込むわたしの姿は、それはそれは不思議に思えたことでしょう。

 視線を泳がせ、フェンスの向こうに、茜に濡れた校舎を見いだします。


「あ……校内の戸締まり中に、貧血で……」


 我ながら、バカげた言い訳だと思いました。

 とはいえ、歩み寄ってくる須藤くんは屈託のない笑顔で、特に疑問を感じた様子はありません。


「教頭のヤツ、相変わらず人遣い荒いなぁ。ミツバっちもさ、イヤならイヤってハッキリ言いなよ?」


「……ありがとう。須藤くんは、どうしてここに? あ、部活の用事ですか? 水泳部でしたよね」


「そーそー! 来週から屋外プール使うらしくて。ちょっくら落ちてカラダで水温確認してこいっつー、顧問の無茶ぶり食らった」


「風邪を引きますよ!?」


「ってのは冗談で、忘れもん取りにきただけでーす」


「〜~~っ! 須藤くん!」


「あっはは! ミツバっち真に受けすぎ〜」


「当たり前ですよ! 須藤くんのこと、信じてましたから!」


 ムキになって、大人げないですよね。

 ですが須藤くんの反応は、予想外のものでした。


「ミツバっちが、俺を……」


「須藤くん?」


「あーっ! そのっ、なんていうか! ミツバ先生に信頼されてて……うれしい……です」


「急にかしこまって、変な子ですね」


「子供扱いしないでってば!」


「はい。頼りにしていますね、須藤くん」


「もぉ、すぐまたそーゆーこと言う〜!」


 ガクリとうなだれた須藤くんは、耳まで真っ赤。

 いつもからかわれる側のわたしですから、面白がりすぎたかもしれませんね。 反省です。


「そういえば須藤くん、忘れもののほうは大丈夫なんですか?」


 いまは六月ろくがつ。水泳部でも屋外プールで本格的な練習が始まる前だと思います。

 ですので、忘れものなら部室のほうかな、と考えるのが普通なのですが。


「あー……忘れものっていうの、半分合ってて、半分ちがうかな」


 指でほほをポリポリと掻く須藤くんは、ばつが悪そう。

 彼らしくない、煮え切らない返答です。


「……なにか、困ったことでも?」


「んー、そうだなぁ。ミツバっちには教えてあげよっかな。よしっ、来て!」


「えぇっ、あの!」


 ふいに腕を引かれては、足をもつれさせてでも、立ち上がるしかありません。


「ミツバっちに、アイツと会わせたげる」


「どちらさまでしょう……?」


「にゃんこ! 部活終わりに見かけたから、いままでじゃれてたんだ~」


「まぁ、猫ちゃんと」


 無邪気に手を引かれるように案内された倉庫で、誰が予想したことでしょう。


「ひ……ッ!?」


 ──凄惨な光景を、目の当たりにすると。


 視界があかいのは、夕暮れのせいではありません。

 鮮烈な血だまりの中で、おなかを裂かれた黒猫が、ぐったりと横たわっているせいなのです。


(最近、先生たちが注意喚起してる動物虐待犯――)


 ……いやな予感が、脳裏をよぎりました。

 生々しい血の海が、あまりに新しすぎます。


「す、須藤くん! 犯人がまだ近くにいるかも。ここは危ないわ。早くお家に帰りなさい!」


「ミツバっち……」


「なんて酷い……先生方に、連絡を」


「だぁめ」


 黒猫へ駆け寄ったわたしの肩に、トン、と置かれる手があります。


「ほかのヤツらに言っちゃダメじゃん。俺たちだけの、ヒミツなのに」


 背後から、耳朶じだにささやきかける影。

 思考が止まり、カクンとひざから力が抜けます。

 血だまりが跳ねて、へたり込んだ手のひらに、生温かい感覚。

 錆びた鉄くさい液体の正体は、見なくてもわかります。


「血に濡れても、ミツバっちは綺麗だなぁ……」


 恍惚こうこつとしたささやきの、主も。


「ど、して……あなた、が」


「怖がらないでよ。言ったでしょ? じゃれてただけだって」


 少年は、あっけらかんと言ってのけました。

 ……まるで、外国語でも聴いているかのようです。


「須藤くん……六月むつきくんが疑われているのが、イヤだって……」


「気の毒だなぁとは思ってたよ。濡れ衣着せられてさぁ」


「……ウソよ。ウソだと言って」


「これが俺だよ。ミツバっちは特別だから、教えてあげるの。俺のこと、もっと知ってほしいなぁ……」


「知りたくありませんッ!」


 夢中でした。

 気づいたときには、ふり払った須藤くんを、にらみつけていたのです。


「あなたがしているのは、暴力にとどまらない。犯罪よ!」


「……誰のせいだと思ってんの」


「え……」


「トボけんなよ。昼休み、六月と楽しそうにしてたじゃん。付き合ってんの?」


「冗談はやめて! 教師と生徒なんですよ!?」


 思わず叫んで、ハッとしました。反論点がちがうことに。


(わたしは六月くんと、どこにいた……?)


 生徒指導室です。

 わたしがそれを、六月くん以外に伝えることはありません。そぶりも見せません。

 彼の、名誉のために。


「ちがうんだ? 抱き合ってたじゃん。見てらんなかったから、最後まで知らないけど……あのまま、抱かれたんじゃないの?」


「そんなことっ……!」


「そっか、あるわけないか。三葉みつばは、俺のだから」


「きゃあっ!?」


 ぐいっと強引に引かれた腕。

 口早に言い放った須藤くんは、プールへと、わたしを放り出したのです。

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