三葉先生と猫たちの数あそび

第2話 数をかぞえて

「いいお天気ですね」

「そうですね」

　会話終了。

　昼休みの生徒指導室に、長机をはさんで、教え子とふたりきり。不安しかありません。

　いえ、くじけてはダメです。もう一度チャレンジしないと。

「六月（むつき）くん、お勉強、とても頑張っていますね」

「学生ですからね」

「それでその……」

「日野（ひの）先生」

　どもるわたしを黙らせるのに、向かいでパイプ椅子に座った六月くんは、ふり向くことさえしません。

　そっぽを向いたまま、青空の下のグラウンドを、窓ガラス越しにながめているだけ。

「日野先生は、おれの交友関係を気にして、ここへ呼び出した。そうですよね」

「……はい」

「問題ありません。必要ないので」

　……取りつく島もございません。

「じゃあ、おれはこれで」

「ま、待って六月くんっ！」

　ガタリと引かれるイスの音がゲームオーバーの音のように思えて、もう夢中でした。

「やめたほうがいいと思います。こういうの」

　鈍くさいわたしでも、わかります。

　六月くんは、わたしにふれてほしくないんだって。

　それでもブレザーの袖をつかんで離さないのは、わたしの、なけなしの意地なんです。

「わたし、こう見えて図太いんです。なのでっ、サンドバッグには適役かと！」

「……先生」

「あっ、こ、言葉のアヤですけど！」

　本当に殴られたら、ひとたまりもないですし……聞き手なら得意って意味で！

「なにか溜め込んでいることがあるなら、吐き出してほしいです」

『六月零（れい）が、動物虐待犯ではないか』という噂──

（決めつけてるわけじゃないよ！　クラスメイトがそんなふうに言われてるのって、なんか、イヤじゃん……）

　須藤（すどう）くんはそう心配してくれていました。

　えらそうな口を聞ける人間ではないですが、知ってほしいんです。

　六月くんが思うより、世界は息苦しくないってことを。

「ですから……！」

「もういいです」

「……っ」

　わかってはいたけれど……やっぱり、生徒に拒否されるのは堪えますね。

　そうやって、落胆したときのことです。

「おれ、わかってました。アナタはきっと、手を差し伸べてくれるって」

　……あ、れ。

　六月くんはいつ、わたしをふり返ったのでしょう。

「ふぅちゃん、ふぅちゃん」

　薄明るい部屋に、突如として輝きを放った太陽のような笑みも……

　とろっとろのハチミツにまみれたように、甘い声で呼ばれる『誰か』の名前も……

　わたしには、意味がとんとわかりません。

　なのに六月くんは、左右で色のちがう瞳にわたしをとらえて、離さないのです。

「アナタは、ふぅちゃん。おれがダイスキな二葉（ふたば）ちゃん」

「――っ！？」

　フ　タ　バ

　心臓が脈打ちます。

　得体の知れない焦りが背すじをこみ上げ、思わず後ろへ一歩。

「ちが……わたしは、三葉（みつば）……」

「ちがわないよ。世界が忘れても、おれが覚えてる。三葉先生、アナタはふぅちゃん、二葉ちゃんです」

　一歩踏み込まれ、慌てて後ろへ二歩、三歩。

「待って、むつ……！」

「それはちがう」

「きゃっ！」

　四歩目で、もつれる足。

　大きくのけ反った一瞬のうちに、鬼ごっこは決着しました。

「はなして、ください……」

「やだ。今度は、おれがアナタを抱きしめるの」

「わたしは、あなたを抱きしめたことなんて、ない……」

「ウソ」

「ウソじゃない！　教師と教え子なのよ！　わたしは、あなたのふぅちゃんじゃないわ！」

　豹変した六月くん。

　宛先ちがいの重い愛情。

　勢いに任せて、大事な大事な教え子を、わたしは突き飛ばしてしまいました。

「拒否……ふぅちゃんが、おれを……？」

　しまった、と悔いるころには、なにもかもが手遅れで。

「……っふふ。はは……あはははははっ！　可笑（おか）しい、奇怪（おか）しい、オカシイ！　凍っちゃうくらいに、愉（たの）しいよ！」

　夜色の前髪を掻き上げて、笑って、嗤（わら）いつくして。

　六月くんのあまりの豹変ぶりに、絶句するしかありません。

「ホント、タノシイ……ねぇ、『三葉先生』も、愉しみましょ？　おれといっしょにあそびましょ？」

　ゆらり――……

　無邪気な笑みの背でちらつく影。

　ドッドッと、心臓が異常なスピードで血液を全身に送り出しています。

「怖がらないで。とっても簡単な数あそびだから。七海（ななみ）って、覚えてるよね？」

　えぇ。覚えています。

　ちょうど今朝方でしたか。『そんな人はいない』と、教え子たちに笑い飛ばされた記憶とともに。

「『六月』と『三葉』……『七海』と『二葉』……ふたり合わせたら、なんになるでしょう？」

　数あそび。それは単純な加減乗除。

　六たす三。七たす二。

　ふたつ合わせた解は、どちらも。

「……九……？」

「うん、正解。おれが七海零。正確には、七海零だった、だけど」

「――ッ！？」

「もう、わかるよね？　足りない六月（おれ）の『一』が、どこに在るか」

「う……あぁあッ！」

　頭が痛い。痛い痛い痛い痛い痛い。

「やっ……こないで」

「大丈夫」

「ころさ、ないで……」

「怖かったよね……」

「いやっ、いやぁッ！」

「もう平気」

「あっ……ぅ……」

　わたしはなにに怯えているのか。

　自分で自分がわかりません。

　それなのに、そっと抱きしめられたら、どうでもよくなって。

　あれほど拒否した少年の胸に顔をうずめるなんて、我ながら滑稽です。

　でも、どこかなつかしい香りがしたんです。

　声も、ひとりでに口からこぼれて。

「……レ、イ……」

「ん……」

「ひとりに、しないで……」

「しないよ。おれには、ふぅちゃんだけだもの」

　ぎゅっと抱かれる充足感に、わたしはとうとう、心底安堵してしまったのです。

「起きたら、イイもの見せてあげる。ふぅちゃんを✕✕したアイツの、阿鼻叫喚を……さ」

　教え子の腕に抱かれて、わたしは眠りに落ちます。

　――嗚呼、また堕ちてゆくのね。