第4話 解をあげよう

 ざぶん。


 水無月の夕暮れ。

 真空の流動世界は、かたちのない冷たい手足で、わたしを絡めとろうとするようでした。


「……ぷ、はぁっ! けほっ、けほっ……」


「いきなりごめんね! 消毒したくって」


「あっ……」


 浮上したそばからプールサイドに引き上げられ、まぶしい笑みとご対面。


(どうして……わたしなの?)


 美人でも、頭がいいわけでもなく。

 こんなにドジで、小心者で、冴えないわたしのなにが、この子を突き動かしていると言うのですか?


「やばいね三葉みつば……ブラウスが透けて……えっろいわ」


 せき込むわたしをさすっていた手が、ツ……と背骨の溝をなぞります。


「やだっ、さわらないでッ!」


「暴れんなよ。痛くされたくないだろ?」


 ……カチリ、カチリ。


 体温が、急降下しました。

 血に濡れたカッターを見せつけられては、当然でしょう。


「そう、大人しくしてて。大丈夫、気持ちいいことしかしないから……ね?」


 馬乗りになり、片手でひとまとめにしたわたしの手首を、硬いプールサイドへ縫いつける教え子。

 肌に貼りつくブラウスを、わざわざカッターで裂いてゆく彼は、とても賢いです。

 心臓へ刃を突きつけたに、等しいのですから。


 抵抗できないわたしを嬲るように、須藤すどうくんは刃を走らせます。

 役割を果たさないシャツを取りのぞかれて、上はとうとう、下着だけとなってしまいました。


「……綺麗だ」


 舐めるように見つめられては、顔を背けずにはいられません。


六月むつきになにもされてないみたいだね? よかった……」


「……ひぁ!」


 鎖骨から胸元に手を這わせ、須藤くんは愉悦を浮かべます。

 逃げようなんて気は、もう、失せました。


「あの黒猫みたいに……わたしも、ころしますか」


「バカ言うなよ。俺は薄汚いオスどもから、三葉を守りたいだけ。好きだよ……俺の、三葉先生」


「……わかり、ました」


 胸元を這う右手が、動きを止めます。


「わたしのことは……好きにして、かまいません。だからお願い……もう、誰もころさないで。罪を重ねないで……」


 呆けた須藤くんが、次の瞬間、見違えるように瞳を輝かせます。


「うんっ! 三葉のこと、大事にするっ!」


 ほほにすり寄る無邪気な子が、狂気に駆られ、手を血に染めているだなんて、誰が信じましょう。


(これで、いい……ひとまずは)


 道を誤ってしまったけれど、この子はまだ若い。まだ……手遅れにはならないはず。

 たとえ時間がかかっても、わたしが彼を導かなければ。

 そう決意した瞬間でした。


 ちりん――……


 澄んだ鈴の音がどこからか響き、美しい黒猫が、わたしのそばにするりと降り立ったのです。


「なんだおまえ。もしかして、アイツの仲間……」


 苛立たしげに血だまりをふり返った須藤くんでしたが、すぐにあぜんとします。

 その原因は、おなかを裂かれて絶命した黒猫が、忽然と姿を消していたから。


「ウソだろ……でも、あのオッドアイは……っ!」


「キミが切り刻んだ黒猫と、同じだった?」


 それからの須藤くんは、雷に打たれたようでした。

 いるはずのない人が、倉庫の壁にもたれていたためです。

 黒髪に、左右でちがう蒼と金の瞳……間違いありません、六月くんです。


「解をあげようか。『キミは黒猫を殺しそこねた』、それだけのことだよ。わかったら、いますぐふぅちゃんから退いてくれる」


「えらそうにっ……!」


「退けと言っている」


 ガッと、鈍い音が聞こえました。

 六月くんのしなやかな右足が、須藤くんの横っ面を蹴り上げた音です。


「か、はッ……!?」


 状況を理解するヒマも与えられず、須藤くんは、プールサイドに叩きつけられてしまいます。

 うめく須藤くんには目もくれず、颯爽ときびすを返す六月くん。


(助けてくれ、た……?)


 ホッとしたのもつかの間です。


「おれの服着てて」


 ブレザーを羽織らせてくれたその手が、わたしの両頬に添えられ、むにゅ。


「ふぅちゃんのばか。おれがいるのに、ほかのコにかまっちゃダメ。おしおき」


「ご、ごめんなひゃい」


「うん、いいよ」


 あっさりと許してくれた六月くんは、ふにゃあ、と頬をゆるめます。

 つい、ほだされそうになるけれど……頭を左右に振って、どうにか一線を保とうと試みます。


「……まだ、思い出さないね」


 六月くんの寂しげなつぶやきの意味を、問い返そうとして、


「三葉から離れろよぉっ! 六月ィッ!」


 憎悪に歪んだ叫びに、ヒュッと息をのみましま。


「ど、どうしてですか? あなたは人気者だから、わたしといなくても、きっと楽しいはずなのに」


「三葉がいい、三葉じゃなきゃイヤだ……嫌だ嫌だ嫌だッ!」


「須藤く……!」


「なにを言ってもムダ。こっちきて、ふぅちゃん」


 落ち着きはらった六月くんは、わたしを引き寄せるだけにとどまりません。


二葉ふたばは、おれのだ。そこでみじめにながめてなよ」


 なんということでしょう。

 言うが早いか、わたしのあごをすくい上げ、唇を押しつけてくるではありませんか。


「んっ……ゃ!」


「っはは……だーめ」


 逃げようと身をよじるほど、腕に閉じ込められるばかり。


「んぅっ……!」


 深まるキスに、頭が沸騰してしまいます。


「六月てめー……ブッ殺すッ!」


 ぼやける視界で、わたしはなすすべもなく、憎悪に狂う須藤くんを目の当たりにしたのでした。

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