第21話 『それ』

「もう行ったか?」


「ちょ、ちょっと待って‼ 動かないでシズク! あっ……ちょっと……ダメッ……そこ、触っちゃだめって……あっ」


 暗闇の中、シズクとヴィヴィはそこにいた。


「ん? なんだ!? 何がどうなってんだ……?」


 ふにゅふにゅん。


「あ、ちょっと……」


 ぽよよん。ぽよん。


『それ』には、柔らかな感触と暖かい人肌の温もりとが同居していた。偶然にも、シズクの手には思いっきり『それ』が掴まれていた。



「ん? なんだ、この手の感触……この柔らかさって、ひょっとして⁉」


 無論、『それ』とは、ヴィヴィの特盛おっぱいのことであった。


「もうだめえぇ‼」



 バチィィィン――――。



 思い切りはたきつける音が周囲に鳴り響いた。華麗なる平手打ちの音である。

 シズクの頬に、綺麗な紅葉マークが描かれた。ヴィヴィの目一杯振りぬいた右手によって。



 一体どうしてこうなったのか。

 事の発端は、およそ二時間ほど前に遡る。


 ヴィヴィのナノポーターのおかげで、階層間の移動が無事にできた二人は、ワーストのとある街角にいた。


 着いてすぐ、適当な飲食店で夕食を済ませると、もう日はすっかり暮れて夜が始まっていた。


 二人が居たのは、南ミスト通り。シズクの両親や幼馴染のイリスが住んでいた地域から、少しだけ離れた通りである。



 南ミスト通りは、デザインゲインのあった東ミスト通りほどではないが、多少寂れた様子の住宅街である。



 おそらくひと昔前は、新築が立ち並んでいたのだろう。

 行事ごとに盛り上がりを見せ、栄えていたであろう事は、今現在の景色からも想像できなくはない。それが、今では廃屋同然の家々が軒を連ねている。時の流れには何者も逆らえないらしい。


 そこに人は住んでいるのか? と、問われれば、疑問しか残らない。

 事実、夜になっても、この辺りでは二割といかない軒数の灯りしか見られないようだった。



「さすがワーストね」


「へー……。あの、一応これでも、俺のふるさとなんですけど」


「あ! 衛生管理ロボット! ……じゃなくてただのゴミ箱だったわ」


「はぁ……この町にロボットが居たら、皆大騒ぎするだろうな」


「文明の差って残酷なのね。いい勉強になるじゃない」


「残酷なのわかってて言うかな~⁉ おっかしいな~⁉」


「ふふっ」


 夜の暗闇に覆われた廃れかけの街を、二人はだらだらと歩いていた。

 勿論、到着する前に、ワーストでのボルボ使用も検討していた。

 ただ、ボルボは、ポピュラーやモラトリアムの階層を離れると、自動で充電式に切り替わる乗り物らしい。



 ヴィヴィによれば、あの階層全体を超微弱な電波が覆っており、そこから半永久的に自動充電されるため、普段は電気残量を気にする事はないという。その話を、シズクは聞かされたのだった。



 ただ、こうして階層の外へ出てしまうと話は変わってくる。

 充電が切れれば、それは当然、モラトリアムへの帰る術を失うことにもなる。

 そうした最悪の事態を防ぐため、ここでは乗らない事にしようという結論に至っていた。


「ヴィヴィ……」


「何?」


「飼い猫探しは夜が明けてから?」


「ええ。もうこんなに日が暮れてしまうとね……」


「お前は今日、どこで寝泊まりする予定なんだ?」


「え? そんなの……」


 そうである。

 そもそも全身黒い猫となれば、夜に探す事は無理難題。その難易度は跳ね上がるだろう。

 となれば捜索は明日になる。残る問題は、ヴィヴィの宿泊先だけなのだ。



「シズクの家、今夜お邪魔しても大丈夫?」


「えっ……」


「何?」


「何って……お前……」


「何か問題あるの? あ、宿泊代? それなら後日に……」


「そうじゃなくて」


「……迷惑?」


「いや、そういうわけじゃなくて!」


「……?」


「…………」



 問題があると言えばあるような、無いと言えば無いような。

 シズクの頭の中で、そんな台詞が右往左往している。



「うち親いるけど……」


「私は別に気にしない」


「そんなに綺麗な家じゃないけど」


「別にいいわよ」


「うち農家」


「いいって」


「猿とか出るし」


「いいって」


「たまにイノシシも」


「いい」


「……」



 全然折れねぇじゃん‼

 なんでこんな折れないんですかこの人⁉ シナプサーってこうなの⁉ 違うよな⁉ 大丈夫? 本当に大丈夫か⁉


 と思いながら、シズクは妙な汗をかいていた。


「まあ無理なら野宿にするから別に……」


「それはさすがにまずいよ? この階層、場所によってはほんと普通に野犬とか出るからな……」

 そんな事を言っていた、まさにその時だった。



 ――――ワンッ、ワオォンッ、ワンワンッ!



 二人とそれほど遠くない距離から、犬の鳴き声が響いてきたのだった。


「え⁉」


「噂してたらほんとに野犬⁉」

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