第20話 ヴィヴィの父

 モラトリアムの階層上部を覆っていた大気を抜け出すと、そこには真っ白な、上も下も判別できないような空間が無限に広がっていた。



「な、なんだこれは⁉ 階層の外って、こうなっていたのか⁉」


 シズクは興奮のあまり、内側から舐めるような勢いで疑似ボックスの壁に張り付いた。


「そうよ。ニューラーでこの景色を見られたのは、シズクが初めてだと思うわ」


「…………」



 シズクは唖然とした。

 その真っ白な空間でも、向こうに見える階層のおかげで、多少の遠近感は掴めたのだった。



「この空間を知る人達は、皆ここを『空白』だと呼んでいるの。空に白と書いて空白。まさにここの事って感じね」


「空白か……ん? ヴィヴィ、あれは?」


「え?」



 シズクは、空白と呼ばれるその空間の中で、ふわふわと漂っている水の塊のような物を指差した。ぐにゃんぐにゃんと動き、揺れ、安定していないように見える。



「あれは人工空水ね」


「人工空水?」


「私も、空白学の学者じゃないから詳細はわからないけど、どうも役所の公的な移動装置で使われた水が、使用時に弾けて分離したものみたい」


「へぇー……。そうなのか」



 空白学……。また何か気になる単語を耳にした気がした。


 私もよくわかってないのよねぇ~、と、口に軽く手を当てながら話すヴィヴィ。

 そんなヴィヴィの顔を見ながら、シズクは、それまで疑問に思っていた事を訊いてみる事にした。



「そういえばヴィヴィって、なんでワーストに行ったりしたんだ? それも飼ってる猫を連れて。別に猫を連れていく事が、業務に関係していたわけじゃないんだろ?」


 シズクのその質問に、ヴィヴィはしばらく沈黙していた。

 何かを考えていたのか、答える事に躊躇していたのかはわからない。



 なかなかヴィヴィが話し始めないので、シズクは腰を下ろして、疑似ボックス化したボルボの中で少し姿勢を崩すことにした。


 シズクが座った事に気付いたヴィヴィもまた、シズクと同じように腰を下ろし、ゆっくりと座る。

 そんな二人の間に流れだした沈黙は、ヴィヴィの言葉によって破られた。




「私のお父さん」




「ヴィヴィのお父さん?」


「そう。私のお父さんね、とても厳しい人なの」


 ヴィヴィは悩ましげな表情で、自分の身の上話を続けた。


「ちょっと前のある出来事をきっかけに、私にすごく厳しくなってしまって」


「厳しいっていうと……?」


「私がそれまで築いてきた交友関係とかそういうのを、全部拒絶というか、遮断するように言ってきたの」


「遮断だって⁉」


 シズクは驚いた勢いで、ヴィヴィのほうに一段と身を乗り出す。


「う、うん。それでね、私は一人ぼっちになっちゃったの。周囲の誰とも関われない。連絡も制限されたし、話すことも許されない。だから、とても孤独で、虚しくて。それでもシナプサーの業務はちゃんとしないといけなくて……。もうそれが本当に嫌で……。耐えられなかったから、せめて私の話し相手になってくれる存在がほしかったの。そんな時に、ちょうどあの子が私の前に現れた」



 ナーという印象的な鳴き声の黒猫。

 ヴィヴィが説明しなくても、シズクの脳裏に猫の姿が思い浮かぶ。



「だから、個人の移動の時も、ずっと一緒に連れて歩くようにしていたの。私とナー、二人で、というか一人と一匹? 一人と一匹でワーストに行ったのが、確か一週間くらい前だったと思う。たぶんそこではぐれちゃったのよね、やっぱり」



「モラトリアムに帰ってきてからも、ずっと気掛かりだったんだな」


「そういう事……。私、周囲との制限もそうだけど、お父さんの意向で、モラトリアム以外の階層に移住したり出来ないのよね……。政府の人にそういう話をつけてきたって、一方的に、私の気持ちなんて聞かずに決められちゃって」



「なんだよそれ……。すっっっごく自分勝手な父親だな」



 シズクはだんだんと憤ってきた。ヴィヴィの父親の、そのあまりに身勝手な振る舞い。自分の娘の自由を奪って、まるで支配するようなやり方。考え。それらに腹が立って仕方なかった。



「シズク……」



「そんな父親の言うことなんて、気にしない方がいいと思う。少なくともヴィヴィ、お前がお前の意見を父親に伝える事は、何もおかしくなんかない。親子だろ? だったらちゃんと腹割って話せる関係であるべきだと思うし、なんでお前の意見は、尊重も考慮もされないんだよ!」



「…………」



 ヴィヴィは、自分の事を話すのが辛い様子だった。


 しかし、彼女は決してこの辛さを初めて感じたわけではない。実はもっとずっと前から感じていたのだ。父親に制限されたあの日から、今に至るまで、じわじわとその感情は積もっていたのである。



 誰にも吐き出せずにいた。誰とも共有できずにいた。弱い自分の姿を晒す事のできるような、そんな相手すら周りにはもう居なかった。


 シズクに自分の事をつらつらと話していくと、独りで抱え込んでは振り払ってきたかつての感情達が、大きな津波のようになって現在の自分へ押し寄せてきたのだった。



「おい、ヴィヴィ……」


「…………!」



 ヴィヴィは涙を流していた。


 涙が頬を伝うと、ヴィヴィはそこで初めて自分が泣いているのだという事に気が付いたようだった。


 慌てて涙を拭う。



 本当は、こんな内容までシズクに話すつもりは無かったのかもしれない。

 しかし、彼女はなぜか話してしまった。



 シズクが、思いのほか話しやすい男の子だったから?

 久しぶりの誰かとのおしゃべりで気持ちが高揚していたから?


 父親のストレスが溜まっていたから?

 ナーの行方の手掛かりが僅かにでも手に入り、ほっとしたから?


 理由は色々ありそうだが、どれもピタっとハマりそうでハマらなさそうだった。



「シズク、優しいのね」


「…………まあ、こういう時くらいな」


「そう……」



 ヴィヴィは、ずずっ、と鼻を啜って、ボルボの進行方向に顔を向けた。



「あ、そういえばごめんなさい。言い忘れてたんだけど、シズクみたいに、ニューラーが個人の移動をしたケースって、たぶん今までに一度も無いと思うの」



「え? そうなのか?」


「ええ。だから、もしこの移動が世間で明るみになったら、シズクの処遇はどうなるかわからないから……そこはよろしく」


「ええ⁉ いきなり何なんだ? よろしくってなんだよ⁉ いやそういうのはもっと最初に言ってくれよ⁉」


「ふふふっ。あっはっは! あっはっはっは!」



 このタイミングになって、俺がとんでもなく不安になる事言って、それで笑ってやがる。ひどいなおい⁉


 シズクはそう思い、笑うヴィヴィを一度軽く怒ろうとした。

 しかし、ヴィヴィの楽しそうな顔を見ていると、そんな怒る事なんて不思議とどうでもよくなってくるのだった。


 笑うヴィヴィの顔は、一段とスッキリとしていた。シズクに悩みを打ち明けて、胸のつかえが少しは取れたのかもしれない。



「シズク」


「うん?」


「ありがとう」



 ヴィヴィはそう言って、少しだけはにかんだ。

 ヴィヴィのボルトボードユニットが、二人を乗せて、しっかりと空白の中を泳ぎ進んでいく。


 いつの間にか、ワーストの階層はもうすぐそこまで迫ってきていた。

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