第10話 イリス・3

「これなんですけど」


 そう言って、片手に持っていた『階層移住証明書』を差し出す。

 受付をしていたのはシズクより何歳か上の、まだ若い女性だったが、それでも毅然とした態度でシズクに対応した。



「かしこまりました。どなたかに、移住の報告通知をなさいますか?」


「はい」


「では、こちらに記入を……」



 受付の女性から差し出された書類に、両親の名前と住所を記入する。

 名前を書いている途中で、これまで両親と一緒に過ごしてきた暖かい日々が脳裏にちらつきそうになったが、あまりこうした感傷に浸るのは良くないな。



 シズクは無意識的にそう思い、両親の事を深く考えないようにした。

 どちらかというと、果物を盗み食いしにきた野猿やイリスを家族総出で撃退してたとか、イリスが初めてスカート履いたらコウモリが忍び込んできてヤバかったとか、ボロくなった床を踏み抜いたせいで元々あった床下収納庫使わなくなったとか、少しでも笑えそうな話を思い出すことにした。



「こちらで受理致しました。そちらの証明書カードはそのままお持ちください。移住されてから、やはり必要だったと感じた物につきましては、改めて移住先の最寄りの役所の方へ申請してください。数日でお届け致します。それでは、そちらの廊下をお進みください」


「はい。ありがとうございます……」


 受付の人は、そこから続く長い廊下の方を手で示した。


 長い廊下に、規則的な配置でダウンライトの照明が連なってる。

 シズクはそこを歩き、前へ前へと進んでいった。


 しばらく歩いていくと、廊下の端に一人の男が立っていた。

 黒いスーツに身を包んだ、短髪で清潔感のある細身の中年男性だ。



「シズク・シグマ様。ご用件は伺っております。さぁ、どうぞこちらへ」


「ど、どうも」



 シズクが近くへやってくると、スマートに挨拶と案内を行なう。

 受付の人もだけど、ずいぶんと丁寧な対応なんだな、とシズクは少々関心していた。



 その男に案内されてやってきたのは、一般的な個室トイレよりもやや広めかなぐらいの部屋だった。一辺が二メートル四方の箱の中。高さだけは二メートルよりやや長いだろうと思われた。



 明り取りの窓も換気扇も無く、あるのは入ってきた時の扉と照明だけ。

 扉を閉めて内側からこうして見ると、全てが白で統一された、不気味なほど人工的な空間だった。


 そんな閉塞感マックスの空間に、シズクは男と二人きりになった。



「シズク様は、今回、初めての移住ですよね?」


「……ええ。そうですが」


「なるほど。ワーストからですと、少々刺激が強いかもしれませんね」


「え? ……何の刺激ですか?」



 男は、ズボンのポケットから何かの端末を出すと、五秒ほどそれを操作し、またそのポケットに端末をしまった。



「……全てにおいて、です」


「全て……。あの……」


「なんでしょうか?」


「階層の移動って、これ、どうやって行われるんですか?」


「それは機密事項ですので、お話できません」


「……そうですか」


「それよりも、移住先はモラトリアムですから、もっと興味深い事に触れられるかと思いますよ」



 男がそう言うと、それまで閉まっていた目の前の扉が開いた。



「到着しましたよ。部屋を出てください」


「え?」



 シズクは、何の冗談かと思った。

 一度、四畳半かその程度の部屋に入れられたかと思えば、もう到着しただって?

 一体どんな悪ふざけ……? なんか、どっきり的なアレか?



 部屋を出たところで、先ほどと変わり映えのしない廊下が続いているじゃないか。

 そう思っていた。



 ――――コツン、コツン。



「ん⁉ なんだこれ⁉」



 シズクは足元を見て驚愕した。

 廊下を歩きだした男とシズク。二人の足元から、水紋のような形の光が映し出され、広がっていったからだ。一見普通の廊下のようなのに、歩くとその接地面に反応するかのように、床が光っていく。



「特に気になさらないでください。さぁ、進みましょう」


「は、はい……」



 シズクは言われたところでその驚きを隠せなかったが、今はそのまま受付の方へと向かうしかなかった。


「それではシズク・シグマ様、お持ちの階層移住証明書のカードを、こちらの受付に提出してください」


「え……?」


 シズクは不思議でならなかった。

 先ほど、ワーストの役所では受付の女性が座っていたのに、その受付のカウンターには誰もいなかったのだった。



「あの、これ……誰に提出するんですか?」


「“誰に”という事もありません。カウンターに“乗せる”だけで大丈夫ですよ」


「乗せるだけ……?」

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