第9話 イリス・2
「実は『階層移住証明書』っていうの受け取ったんだ。今日」
「そう……」
先ほどの、楽しげな雰囲気とは一転して、一気に二人の間に静かな空気が流れ始めた。
それまで愉快そうだったイリスも、足元のほうに目線が落ちる。
「これを役所に提出して、移住してほしいっていう事らしい」
「そっかー……」
「……」
二人の間に沈黙が流れはじめる。
シズクは、何をどう伝えればいいのかわからなかった。
シズクは、ぼんやりと前に視線を向けた。
自分達がだらだらと歩く先に続く町並みが、その夜の闇に溶け込んでいる。途中途中で、道を示すかのように等間隔の明かりが灯っている。
「俺、この町を初めて離れるんだよな。まだ全然その実感が無いんだ」
誰に言うでもない雰囲気でそう口にした。
「私も、周りの人が移住する事になったの、初めてだよ。なんだか寂しいね……。もう会えなくなっちゃうみたいな……」
ふふっ、と笑ってみせるイリスだった。
イリスの微笑んだ顔が、その時街灯に丁度照らされる。
それはすごく優しい微笑みだったが、同時に、寂しさを裏に隠しているともシズクには感じられた。
シズクは知っていた。イリスは、こうした寂しい時や悲しい時、あるいは滑稽に感じたりした時、不敵に少し微笑んでみせる癖があるのだと。
それは、自分が当事者である事を一度切り離して考え、第三者目線になる事で、本来の気持ちをごまかそうとしているのかもしれない。
そういう種類の癖なのだろうと、シズクは察していた。
「これ、口外しない方がいい事かもしれないけど、イリスには少し伝えておこうと思うんだ」
「え?」
シズクは、それから移住する階層について少しだけイリスに話す事にしたのだった。
自分の移住先が、特殊な階層『モラトリアム』である事。
その階層について、学校では教えてくれなかった事。
そこでもOB計測があり、また戻ってくるかもしれない事。
これらの点だけを伝えた。
「……そうなんだ」
「ああ。だから、もしかしたら、早ければ一か月後にはまた【ワースト】に戻ってくるかもしれないな。それまで、お別れって感じだな! ははは!」
「うん」
考え方によっては明るく振る舞える。そういうつもりでシズクは伝えたが、イリスは依然としてどこか物静かで、寂しさに沈められた返事しかしなかった。
気が付くと、二人はイリスの家に戻ってきていた。
夜も深まり、電気の付いている家の数も減ってきていた。
「明日、役所に行って、そのまま移住するよ。またそのうち会う事もあると思うけど、その時はよろしくな」
「……うん。じゃあね。向こうでも元気でね」
なんだか今生の別れのような空気だった。
そこまで重く受け止める必要あるか? と、シズクは笑いそうになった。ただ、イリスの顔をしっかり見てみると、真剣そのものだった。
なんだよ。今にも泣きだしそうじゃねぇか……。
「ああ、イリスもな! そんな辛気臭くなるなって。じゃあな~」
自宅前で手を振るイリスに、応えるようにして手を振り返し、シズクは夜の町に消えていったのだった。
シズクは、移住に前から興味があった。
いや、シズクというよりも、皆興味があったのだ。
この世界について学校で習った時から、卒業したらいつか自分も移住してみたいと、シズクはそう感じていた。けれど、その機会はずっと今まで訪れなかった。
OB計測なんてものを毎月しているけれど、その度にいつも現状維持で、移住の話など来ない。
十一歳までは、子供として、両親の適正診断結果に従うとされる法律があり、【ワースト】に住んでいた。そして十二歳。そこでも変わらずで、そのまま計測はするも現状維持で、四年の歳月が過ぎてしまった。
移住は、選ばれし者だけが与えられた特権のようなものにすら思えていた。
学校に居た時、とあるクラスメイトのお兄さんが移住する事になった。そのクラスメイトは、自分の兄が選ばれたんだ!って、大きな声で学校中に言いふらして回った。
誇らしい。
素晴らしい。
珍しい。
特別な事だ。
名誉ある事だ。
なんていう風に、周囲からはよくわからない賞賛をされる。
皆、ここの階層が【ワースト】なんていう名前だから、移住=人生の勝ち組、とでも思っているのだろう。
シズクはそう感じていた。
だからこの階層では、階層の移住経験者がある種神格化されているのだ。
「本日は、どのようなご用件でしょうか?」
シズクは、役所の受付を訪ねていた。
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