幕間 資料室の一角にて

「……、~~……。――……」

 マリッツが一時的に世話になっている研究室の室長のレフ・コーズが、若干血の気が引いた顔で言うべき言葉を探している。

 頭の痛い案件から解放されて、ようやく顔色が戻ってきたところだと、レフの門下に聞いていたので、また以前と同じような顔色をさてしまったなあ、と相対するマリッツは他人事のように内心で呟いた。そして、その原因となってしまった自身の顔色も似たようなものになっているのだろうと予想した。

 というのも、魔術理論の基礎項目に関する部分と他分野の一部の公開資料の範囲が辛うじて重なっているだけで、ダフネとレフの研究室の公開資料と分野が違っていたのだった。

 魔術には別の属性に反発するものもあれば、構築式を別系統の魔術に組み込めば弱体化するものもある。予期しない事故を防ぐため、門下を別の研究室で学ばせる場合は事前に室長などから指定された分野や範囲のみに限定される。特に指示がない場合は、元の研究室の範囲までとなる。

「……すまない。こちらで事前に確認しておくべき事だった」

「いやでも、それを言うならこっちも確認してませんでしたし! 重なっている分野が全く無いよりは良かったですよ!」

 レフの絞り出すような声にマリッツは慌ててそんな事を言った。

「そもそも、こちらの事情でレフさんの研究室にお邪魔することになったんです。責任はウチの室長の方にあるんじゃないでしょうか」

 マリッツの言葉にレフは一瞬目を剥くが、それからわずかに口元を緩ませた。

「気を遣わせてしまってすまない。こちらも預かると引き受けた以上、責任が無いわけではないよ」

 レフはやんわりとマリッツに告げた。その言葉は否定せず、マリッツは「そうですか」と首肯した。それから、以前のことをふと思い返した。

「……そういえば、研究室に門下が必要なことも知らなかったし、これも知らなかったのかな」

 ぽつりと呟かれたマリッツの言葉に、レフは表情を歪める。それを視界の隅に捉えたマリッツは不穏なものを感じた。

 レフは即座に表情を改めてから口を開く。

「使い魔を飛ばそう。緊急の用件なら連絡をしても構わないと言われているんだ。今回の件は急いで伝えた方が良いだろう」

 そう告げたレフの口調は穏やかなものだったが、マリッツの抱えた不安を拭い去るものではなかった。

「――だけど、すまない。うまく飛ばせないかもしれない」

 レフの無力感を含んだ声が、ずしりとのし掛かってくるような気がした。


 それから数日、マリッツは学園を出た者でも触れられる資料室に足を運んでいた。

 学園で課される呪いは生涯解けないものとはいえ、たった一度きり、その後に全ての魔術を使用出来ないことも理解しながら、復讐など、人を傷付けることに利用しようとする者が学びに来る可能性も皆無ではない。そのため、学園や他の魔術組織に属していない者に魔術理論の詳細を記された資料を触れさせることはない。

 なので、マリッツが現在、利用出来る資料は、いくらかの分野もあるとはいえ、ほんの上澄みをすくって、そこから更に蒸発させた残り滓ほどのものだ。

 資料室の全ての蔵書に目を通せたわけではないが、ダフネの資料棚から比べればかなり見劣りするものだった。レフとダフネの重なっていた資料は魔術基礎が主とするものだったので、マリッツはすでに何度も目を通していた。

 たった数度ほどでは見落としもあるだろうが、新たな視点を見つけることに躍起になっている自覚もあり、間を置かずに何度も読み直せば、情報を歪めて構築する可能性がある。それを避けるために他の分野に目を向けて、思考を平均化したいという思いがあった。

 マリッツは資料のいくつかを広げ、目を通していく。一節の構築式すらなく、本質からはほど遠いような茫洋とした記述。それらから新しい視点を見いだすというのは、砂粒を一つ一つ拾い上げて、巨大な城を造るようにも思えた。

 それから更にいくつかの資料に目を通し、気に掛かったものを書き留めていく。

 いくらかの紙片を埋めてから、マリッツは固まった肩を回す。

 ぼんやりとした頭の中に、全ての魔術は同じ処からはじまり、同じ処へ還っていくような、そんな印象が浮かぶ。

 根を詰め過ぎたのだと、マリッツは軽く頭を振る。そこに声を掛ける人物が居た。

「こんな所で何をしてるんだ……」

 困惑気味に声を掛けてきたのは、つい先日、誤解からマリッツを攻撃しかけた別の研究室に所属する同期だった。

「……まさか、俺が騒ぎを起こしたことが原因か?」

「いやいや、全然関係はない……のかな?」

 マリッツが自信なさそうに言ったため、同期から「詳しく話せ」と詰め寄られることになるのだった。


 マリッツは同期のイヴェンへと、レフの研究室に一時的に所属することになった事情を説明する。共同研究という表向きの理由を挙げて、ダフネとレトの二人で事故の件を調べていること、その際にお互いの資料分野の確認が出来てなかったために、一般開放の資料室を利用していること。さすがにレトが流した噂が釣り目的だったことは伏せた。

「…………」

 話を聞いたイヴェンは渋い表情を作る。

「いや、あの……、たぶん、この状況ってウチの方の事情だし、そんなに気に……」

 マリッツは尻すぼみに言葉を途切れさせた。事情を説明すればするほど、イヴェンの眉が釣り上がっていったため、マリッツは「気にしなくても良いよ」と最後まで言い切ることが出来なかった。

 盛大な溜息を吐いてイヴェンが口を開く。

「一度、こっちの研究室に来い。迷惑を掛けた分の借りを返す」

 マリッツは促されるままに、イヴェンの後をついて行くことになった。


 そのまま連れられてマリッツはイヴェンの所属する研究室へ足を踏み入れる。

 部屋はダフネの研究室よりもやや広く、少々雑然としたところもあるが、未整理で本棚に投げ込まれたような資料もなく、比較的にきちんと整理されている印象だ。というよりも、ダフネの研究室が雑然とし過ぎている気がした。

 マリッツはここでも、ダフネに対する不安を思い出し、少しばかり陰鬱な気分を抱えた。

 他の門下は外へと出払っているのか、研究室には一人の老人以外、姿はない。二人を興味深そうに見ていたその老人は、おもむろに口を開いた。

「君が人を連れてくるとは珍しいねぇ」

「……そうでしたか? 先生」

「なんにせよ。変わることも、変わらないことと同様に大切だ」

 ほんのわずかに当惑したイヴェンに、室長はにこにことした笑顔を向けてそう言った。

 それから室長はマリッツに視線を向ける。

「それで君は?」

「俺……じゃなくて、私はマリッツと言います」

「ああ、『彩光』の初めての門下! 君はどうやって、あのやる気の無いの人間の心を射止めたんだい?」

 わくわくと目一杯の好奇心をたたえながら、室長が訊く。

「えっ? えっと、それは研究室を持つ条件に門下が必要という話だったので……」

「……なるほど。そういえば、ずいぶんと昔に規則が変わっていたね」

 マリッツの言葉にほんの少しだけ肩を落とす。

 こほん、と咳払いをして気を取り直すと改めて言った。

「それでここの研究室を訪れたのはどんな用件なんだい?」

「それは……――」

 その問いにはイヴェンが答える。

 マリッツがイヴェンに話した内容を分かり易くまとめて室長に説明する。そこに加えて、伝えそびれていたレフの言葉も伝える。

「はぁん、なるほどねぇ」

 話を聞き終えた室長はそう言って顎をなでた。

「私ら魔術師はそれぞれに至りたい境地がある。対立した時には運が悪かった方は押し退けられることもあるなぁ。……でも、この学園で故意に足を引っ張るような真似は良くないよね」

 言いながら、室長は少しばかり眉をひそめた。

 その声音に言外の圧力を感じて、マリッツは思わず息を飲む。そんな空気を変えるように室長はぱちりと小さく手を叩いた。

「私からも使い魔を出そう。『意図的に邪魔をされなければ』ちゃんと『彩光』の所へ届くよ」

 室長は穏やかな口調で、そして何者かへ釘を刺すようにそう言った。

「そこまでして頂いてありがとうございます」

「何、このまま状況を放置していたら、『彩光』の研究室の所持条件が取り消されるかもしれないからね」

「え」

 思わぬ言葉にマリッツが固まる。

「この学園に籍を置く限り、魔術の学びの過程を意図的に邪魔をする者は、この学園から排除されるんだよ。まあ、人を魔術で傷付けていないならこの敷地から出禁になるだけで済むけどね」

 そこへ更にそう言い足された。

「っ……!!」

 思っていたよりも深刻な状況だったことにマリッツは息を詰める。

「本当に、お世話になります」

「まあ、こっちも迷惑を掛けたことだしねぇ」

 深々と頭を下げるマリッツに、室長はさほど気に止めたようでもなく、軽く手を振った。

 それから、しみじみとマリッツに目を向ける。

「しかしまあ、君は面倒なことになっている連中と縁があるもんだねぇ」

「面倒、ですか?」

「敵視されている……とは言い過ぎか。『彩光』のもレフ君も少々複雑な立場に居るんだよねぇ」

「それ、詳しく聞かせてもらえませんか?」

 そんな言葉がマリッツの口をついて出ていた。

 ダフネの事情を本人ではない人間から聞くことは道義的でないと思いつつも、以前に感じた不安を拭い去りたい気持ちの方が勝ったのだ。

 柔和だった室長の表情に初めて、厳しい色がわずかに混じった。

「残念だがこれ以上を私の独断で伝えるのは、君から何かをもらわなければならなくなる」

「……っ!」

 マリッツは返された言葉に息を詰める。ダフネからも同期の室長からも信頼を得られなかった情けなさと、結局は何も出来ない悔しさで肩を落とす。

「そうですよね。相手に何か返せるようなものがないと訊いてはいけないですね……」

「ううん。まあ、その値段を決めるのは本人だと思うよ」

 室長の取りなす言葉も消沈したマリッツの心には響かず、唇を引き結び沈黙したまま研究室の床を見つめていた。

 じっと物言いたげに刺さるイヴェンの視線に、室長は困ったように頬を掻きながら口を開く。

「期待を持たせた分の詫びをさせてもらえないか。もちろん、『彩光』のが許可をすればの話だけど」


「良かったんですか……?」

 イヴェンの所属する研究室でマリッツは遠慮がちに室長に訊いた。

「ああ! 『彩光』のにも学園にも許可は取れたさ! 解放出来るのは一分野だけだが遠慮なく学ぶといい」

 その後に小声で「『彩光』のにも恩は売れたしねぇ」と、呟かれたのを耳にしたが、あまりにも邪気のない声音に、改めて意味を尋ねるまでは気が引けた。

 マリッツと室長の会話を静観していたイヴェンが、フンと鼻を鳴らして口を開く。

「……君のような軟弱な精神で先生の深淵に飛び込むような難解で複雑な講義についてこれるのか?」

「ええと、頑張ります!」

 発破と捉えたマリッツが意気込むように言うと、イヴェンはばつが悪そうに目逸らした。

「別に、俺に敬語は良い」

「うん、分かった」

 和気藹々としたやり取りを見ていた室長が困ったような表情を作る。

「あのー。イヴェンくん、もしかして私の講義分かりにくいって非難してる?」

 その言葉にイヴェンがかぶりを振る。

「俺もまだまだ若輩の身。先生に追いつくように日々研鑽し過ぎても足りません」

「やっぱりなんだか非難してない?!」

 そうやって、なごやかな空気が流れていく。室長と同期のやり取りを見て微笑ましく思いながら、マリッツは気を取り直す。

 今はほんのわずかでもダフネの力になれるかどうかも分からない。途切れたように思えた機会はどうにかギリギリのところで繋がった。

 その中で、糧となるものを掴み取ろうとマリッツは改めて誓った。救われた心の分を、ほんの少しでも返せればいいと、ただそれだけを願いながら。

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