第2話 ならば描くしかありませぬッ!
何を隠そうこのわたくし、今までどんな状況でも漫画を描いてきました。
試験の前日だろうが、台風の夜だろうが、インフルエンザで40℃の熱を出そうが、お構いなしに描いてきました。――だが断る。さすがにこんな異世界の戦場で、人間とモンスターが命を奪い合うこの状況で、漫画なんぞ描けるわけなかろうッ!?
そのとき、頭上にぬっと影が落ちました。
振り返れば、ゆうに3メートルはあろうかというモンスターがわたくしの顔を覗き込んでいました。盛り上がった分厚い筋肉と、それを包むコンクリートのような灰色の皮膚。頭部の半分以上を占める不気味な単眼が、ぎょろりとこちらを凝視しています。
その姿形は、我が家の本棚に並ぶ『古今東西モンスター図鑑』に載っているものと酷似しておりました。
「びやぁあああァッッッ! さ、サイクロプスッ!?」
たまらず悲鳴が口から飛び出します。
しかし、サイクロプスはわたくしの悲鳴に動じる様子もなく、木の幹のように太い腕を振り上げます。
こっ、このままでは殴り殺されてミンチになってしまうッ!
逃げたいのに足腰はまったく言うことを聞いてくれません。それどころか全身から力が抜け、わたくしはその場に座り込んでしまいました。
――あ。死ぬ。きっとここで死ぬんだ。逃げられない――。
そう思った瞬間。
一人の男がわたくしの前へ飛び出し、剣を閃かせました。
肉が斬られ骨が砕かれる音が鮮明に響き、サイクロプスの指が宙を舞ってぼとり、ぼとりと目の前に落ちてきます。
その断面からはどす黒い血のようなものが流れ出て、大地をゆっくり濡らしてゆきます。わたくしはただ茫然とその様子を眺めておりました。
ギャアアアアアアァア!!!!!
耳をふさぎたくなるような叫び声があたりに響き、瞬時に意識が戦場へと引き元されました。サイクロプスは標的を男に変え、唸り声とともに襲い掛かります。
しかし彼は素早く体の向きを変え、あざやかにその攻撃をかわしました。
振り上げられた腕が空回り、サイクロプスの体勢が大きく崩れます。その機を逃さず、他の剣士たちが駆けつけて灰色の巨体を取り囲みました。
サイクロプスの指を斬り飛ばした男はそれと入れ違いに下がり、こちらを振り返ります。
一瞬の静寂。彼は叫ぶように何かを告げました。
「―――――――――――――――――――――!」
この戦場のさなか、不思議なほどよく通る声。
言葉の意味はわかりませんが、なんだか「描け!」と言われているような気がしました。
彼の声に勇気づけられ、わたくしはいくらか心を落ち着かせることができました。
この場で自分にできることは、漫画を描くことだけ。
ならば描くしかありませぬッ!
しかし、ここにはパソコンもタブレットもありません。
紙もペンも鉛筆もないし、足場は踏み荒らされ、地面に線を一本引くことさえままならず。これではいくらわたくしでも描けませんぞ。せめてスマホでもあれば……。
「あッ、スマホ!?」
祈るような気持ちでパーカーのポケットを探ると、硬くひんやりした感触がありました。
すぐさま取り出し、もどかしい気持ちでペイント系アプリを起動させます。
震える指先で「新規作成」を選び、ファイルを作成。
見慣れた白い画面が表示されると、いくらか平静を取り戻しました。
しかし、何を描けばいいのでしょう?
こうしているあいだにも戦いは続いています。
時よ止まれ。止まってください、お願いしまぁぁぁすっ!!
「……時を、止める?」
ふと、わたくしの目がサイクロプスの姿をとらえました。
素描は得意です。一瞬で形を正確にとらえ、いざ線を引き始めればものの15秒足らずで画面の中にサイクロプスが現われました。
さらに、対象物が止まったような効果と「ピタッ」という文字を描き入れます。
しかし、敵が止まる気配はありませんでした。
どっ、どうして!? そうだ、スキルといえば呪文ッ!
「え、ええーっと、荒ぶる邪悪なサイクロプスよ、〆切後の絵描きのごとく沈黙せよ!」
サイクロプスは沈黙しませんでした。
違った! は、は、恥ずか
だがしかし、恥ずか死んでる場合ではありませぬッ!
「漫画といえばコマ!?」
慌てて枠線を引き足しますが、これも効果なし。
たしかに枠線のないコマだってあるもんなぁあ~~!!
「サイン!? サインですかなッ!?」
わたくしは
画面から指を離した瞬間、荒れ狂っていたサイクロプスがぴたりと静止!
「やったッ!」
一瞬、戦場が水を打ったように静まります。
人間もモンスターも、その場にいた全員が異変を感じ取った様子でした。剣士たちは好機とばかりにサイクロプスを攻撃しますが、いかんせん皮膚が硬く致命傷を負わせることができない様子。
モンスターたちは戸惑い、じりじりと後退を始めました。
でも気は抜けません。張りつめた膠着状態の中、どうかこのまま撤退してほしいと祈っていたそのときでした。
グァアアアアォオオオオ!!!!
空を切り裂く怒号。
見れば、静止していたはずのサイクロプスが動いています。
「な、なんでッ!?」
スマホに目をやると、描いたはずの絵が消えていました。
最初に動いたのは、サイクロプスの指を斬り落としたあの男でした。彼は瞬時に敵の内へ飛び込み、斬撃を与えます。
わたくしもぼんやりしてはいられません。サイクロプスの形ならすでに把握していますぞッ!
先ほどより素早く指を走らせ、異形の姿を素描。
そこに少し小さい輪郭を描き足し、さらに小さい輪郭を足し、さらに小さい輪郭を。
そうしていくつもの輪郭を重ね、効果線も描き入れます。
描き込みが多いため少々時間がかかりますが、これが今のわたくしに考えられる最善の方法です。
よしっ、今度こそッ!
全身全霊を込めてサインを入れた瞬間。
灰色の巨体がぐんっと一気に収縮しました。
スマホの画面にはサイクロプスの体が縮んでゆく様子が描き上がっており、今まさに目の前でその通りのことが起きているのでした。
見上げるほどだった巨体は人間と変わらない大きさになり、縮んだ体にはすぐさま数本の剣が突き立てられました。針山のような姿になったサイクロプスの口から、おぞましい断末魔が響き渡ります。
空が割れてしまうのではないかと思うほどの激しい咆哮。
何かしなくてはと思うのに恐怖に身がすくむばかりで、スマホを握りしめる手は思うように動きません。
そのとき、周囲で様子をうかがっていたモンスターの数匹が唸り声を発しました。彼らの声は波紋のように戦場全体へと広がってゆきます。まるで連携を取り合うように、あるいは伝達をするかのように。
サイクロプスより小さいとはいえ、もし魔物の群れが一斉に襲ってきたら――。
祈るような気持ちで身構えてていると、一匹のモンスターがどこかへ走り去ってゆく姿が見えました。それをきっかけに敵は総崩れとなり、我先にと逃げ出してゆきます。
戦場には砂埃がもうもうと舞い、モンスターたちの叫声であふれ返りました。
サイクロプスは倒れたまま動く様子がありません。絶命したまま、その巨大な目だけがじっとわたくしを凝視していました。
ようやく困難が去ったのだと理解した途端、わたくしの意識はぶつりと途切れました。
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