3章6節 病める時も健やかなるときも

 万洋まひろ久留巳くるみを選ぶかもしれない。そんなはずがないだろうが。ありえないんだよ。


 出会ってから半年も経ってないようなやつが。どうやって心を惹かれることをできるようになる。一ヶ月ほどしかいなかったけど楽しかったじゃないか。


 立って歩くしか能のない久留巳みたいなただの高校生に万洋を理解できるはずないだろう。ムカつくことや不便なことが多かったけれど、輝くような毎日を送ったろう。


 万洋にとっての久留巳の存在を否定すればするほど、それだけアイツを認めているようで不安だった。


 今まで感じてきた苦痛や恐怖とはまったく違う怯え。心に一滴だけ落ちた染みは見る間に、身体中へと広がっていく。これまで私を立たせてきた怒りと苦しみ。感情の怒涛がしぼんでいくように収まっていくのが、自分でもわかった。


 世界から音が一瞬消える。耳鳴りすらも聞こえなくなったのか。身体も軽くなっていって、苦痛が消えていく。いいや、消えていっているのではない。感じられなくなっているのだ。


 このまま終わってしまうのか。ただ生きていたかっただけなのに。いいやそれしかできなかったから。万洋の苦しみしか知らないで、彼へ幸せを与えられなかったから。


 万洋。万洋。声にすらならない掠れた吐息で彼の名前を呼ぶ。


 私のたった一人の理解者。痛みと苦しみをわかってくれる人。まっすぐ私を見てくれる、愛しい人の名前を消えそうな身体の全身を振り絞って口に出した。


 傷口を抑えてうずくまる姿。家族に会いたいと涙を流すのはいつものこと。手術が怖いと弱音を吐くこともしょっちゅうだった。


 杖を使ってなんとか歩くので精一杯の病弱な子供。それに加えて、私の前では万洋はよく泣いていた。


 けれど、それだけのことではなかった。


 集中治療室で意識が覚めているときはいつも私を見てくれる。言葉は交わせないし、お互いぼんやりとしていたけれど。それでも一人じゃないとわかって嬉しかった。


 手術後の痛みや薬の副作用の辛さをわかってくれる。保井先生たちも頑張ってるんだけど。と嗜められることも多かったとはいえ。痛むところに手を添えたり、辛いねと言い合える相手がいること。どれほど嬉しいことだったか。


 どんなに苦しくても万洋も一緒に頑張ってくれる。辛さと苦しみをわかってくれる。


 そうだ。万洋のいないこんなところでそのまま終われなんかしない。


「ま。ひ」


 指先から熱とも感覚とも違う何かが抜けていくのを感じる。心臓の感覚と身体の反応がまったく繋がらない。失ってはいけない何かが、刻一刻と闇に呑み込まれていくようだった。


 考えや思いすらも、纏められずに消えていく。もっと憎まなくては。恨みが足りないのだ。もっと。もっともっと。


 身体を抑えつけているらしい誰かがいる。保井とか看護師とは違う弱々しい力。何者か知らないがこのまま振り払って。


桃華ももかちゃん」


 この期に及んで、幻聴まで聞こえてきたのか。万洋の声や温もりを思い浮かべることは幾度もあった。けれど、思ってすらいないのに勝手に聞こえてくるなんて。


 身体が言うことを聞かないのは当たり前のことだ。意にそわないものが聞こえたり見えたりするのも驚くことじゃない。


 でも、万洋の声だけは無意識だろうと聞きたいと思わなければ聞けないはずのもの。


 無意識に聞きたいと願う程なら、起き上がって聞きに行けばいいだろうが。勝手に思い出して聞いたような気になるんじゃない。そんな自分に腹が立つ。この場にいる誰よりも今の自分が許せない。


 身体の内側のどこかが千切れたような音がする。舌から何か不快な甘みのある汁が出ていて、喉の奥からヒュウヒュウと音がした。感じられていない異常はもっとあるに違いない。


 こんなところで。


「僕だ、万洋だよ。桃華ちゃん」


 確かに。万洋の声が聞こえた。脳細胞の発火が引き起こした錯覚ではない。彼の声が鼓膜を振動させて聞こえる物理的な現象としての声だった。


「__ァ」


 掠れきった喉からは潰れてぐしゃぐしゃになった声しか出せなかった。


 どれほどの見苦しい姿を見せてしまったのだろう。屍同然の浅ましい自分を見られたのだと身の毛のよだつ思いがした。


「大丈夫だよちゃんとここにいるから」


 見るなと叫んだつもりだったのだけれど、断末魔のような声では万洋に届くはずがなくて。まったく別の答えが返ってきた。


 いいや、私の本心を見抜いてくれたのだろう。万洋の腕の中に私はいるのだから。


 視界はモヤに包まれてアテにならない。身体の感覚はとっくに抜けていて、動かすことは可能性すら存在しない。きっと泣いている万洋の涙を、拭ってあげることもできないだろう。


 まだ呼吸ができているようだから、匂いくらいは感じられて欲しかったけれど。血と膿をないまぜにしたような匂いしかわからなかった。


 いっそ噛んでみれば血の味くらいわかると思ったのだけれど。これ以上万洋を泣かさなくてもいいだろう。


 だって、万洋は私の誰より近くにいるのだから。距離や、身体と身体が触れているとかいう肉体の話ではない。


 魂というものがあるのなら。それがまさに繋がっているとでもいうべき安らかさ。痛みや苦しみと同じ、いいやもっと確かな感覚として刻み込まれている。


 二人で春風に包まれながら日向ぼっこをした記憶。

 

 人生で一番の喜びが今というこの瞬間に塗り替えられていく。あらゆる痛みも苦しみも感じている幸福の前には些細な出来事に過ぎなかった。

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