3章5節 終に臨む

出発前に少し休むつもりで目を瞑っただけなのに、いつの間にか寝ていたらしい。椅子に座っていたはずなのになぜベッドで横になっているのだろう。


 起き抜けのモヤがいつまでも晴れない。低血糖が酷いようだ。起きたらなんでもいいからカロリーを摂取しておかないと。そうだった。この後、万洋とのデートがあるんだった。


 今はとりあえず起きないと。服にシワがついているかもしれないし。口紅とかも崩れてしまったかもしれない。遅れるにしても、メールを送っておかなくちゃ。


 動き出そうとしたけれど、身体に力が入らない。いったん間を置いてまた試みたけれど、身体の力は抜けたままだった。


 起き上がれない時があるのは珍しいことではない。普通だったら痛みなり悪寒なりが来るのだけれど。全身を包むモヤの様な感覚に覆われて激しく感じることがない。


 これはマズい。経験上、明らかにヤバいことになっている。一刻も早く、ナースコールを押さなくては。


「が不安定です。穿刺しようにも、もう安定している血管が」


「おちつけ。バイタルサインがあてにならんのはいつもど」


 耳鳴りでとぎれとぎれだけれど、自分の周りで誰かがしゃべっている声が聞こえる。話しているのは保井と、私を担当している看護師のもので。ダメだ、耳鳴りが鬱陶しくて全部聞き分けられない。


 なんでもいいから意識があることを伝えなくてはいけないのだけれど。腹に力が入らなくて声が出せない。喉も締まらず呻くことも難しい。


 これほどまでに私は衰弱していたのか。驚いている場合じゃない。このくらいのこと、何度だってあったろうが。


 意識がはっきりしてくれば、身体が動かないだけでできることは少なからずある。肝腎なことは、気合いで立ち上がることだ。


 立ち上がるための気合いで身体を満たす方法は知っている。これまで何度も、そうやって生きてきた。


 いつまでも身体を治療できない無能どもへ怒ること。健康だという理由だけでのうのうといい空気を吸っている凡俗を憎むこと。死に近づく娘を見るのが怖くて金を出すしかできない父親。アレに甲斐性さえあれば、お母さまは死ななかったし私も歩いて起き上がることくらいはできていた。


 許せない。度し難い。風に当たった程度の苦痛しか知らないくせに、可哀そうだとなんで見下す。私はお前たちができないことをやっているんだ。いいや、私や万洋のようでなければ死んでいるのになんでお前たちは憐れんでくる。


 他者への呪詛を吐き出し続ければ意識が消失することはない。心を荒ませれば、心臓は元の脈動を取り戻して動けるようになる。


 憎め憎め憎め憎め。


 ぼんやりと明暗のようなものがわかるようになってきた。音が反響して聞き取ることは難しいけれど、耳鳴りは止んだ。身体の全身がひきつって痛む。痛むということはそれだけ意識がはっきりしたということだ。


 まだ私は生きている。なのにどうしてこんなもどかしい思いをしなければならないのだ。ありえないだろう。おかしいに違いない。どうしようもなく狂っている。


「抹消静脈からの投薬がダメなら中心静脈から入れればいい。埋め込んだポートもまだ使える。焦るな」


 足音や何かの計器の音がますます激しくなっている。聞こえる範囲からわかることは、あれは警告音の類で。呼吸や脈拍を数値にしたバイタルサインに差し迫った異常が起きている音だ。


 ただの不整脈や心拍不正ならここまで物騒な反応はしない。そして保井なら、迷わず手術する選択を選ぶだろう。術後の衰弱した身体で、外に出られるようになるまではいったいいつまでかかるのだろう。


 嫌だ。嫌だ嫌だ。絶対に嫌だ。ここまでやっと来られたのに。これからなのに。今からやり直しだなんて。


 怒髪天に突かんばかりの怒りに包まれた瞬間、一気に身体が重くなった。平衡感覚もおかしくなったのか、上下左右がドロドロに解けて天地がわからない。


 いよいよおかしくなったのかと思ったけれど、どうやら違う。モヤがかかっているけれどはっきりしてくる視界。耳の裏側で炸裂するような耳鳴り。驚くような周りの反応や、立ち眩みに似たような感覚。


 まだよくわからないが、上半身だけでも起き上がることができたらしい。うっすらとだが匂いもわかるようになってきた。手術室や廊下の香りではないから、まだ病室から動いていないはず。なら今すぐ。


「今は休むときだ。万洋には、俺の方から連絡しておいてやる」


 そんなこと。という言葉が、いまにも掠れそうな吐息になって喉から漏れる。もはや電話をしても伝えられないのか。


 それができなければ。


 一瞬浮かびかけた言葉を無意識に呑み込もうとしたことに気づく。


 なにを恐れている。痛みや苦しみが何だ。それを感じているのだから生きているのだろうが。いま行かなくては万洋とのデートに間に合わない。


 でないと。万洋を久留巳に取られてしまう。


 気づいてしまった。病院の中でなら、私は万洋の最大の理解者だ。院長だろうが、降って湧いた義理の息子だろうが譲れはしない。


 だけど、病院の外なら。病気であることが自分の全てではないと万洋は言った。なら、病の苦しみしか理解できなかった私なんかを選んでくれるのだろう。

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