3章4節 白亜の壁の中
喜佐美くんが向かった先は、前に私が一度訪れたことがある病院だった。同じ病院から来たという八城もそこに入院しているのは当たり前のことで。改札を出るまで私は彼に何も言えなかったし、彼も祈るようにスマホの画面を眺めるばかりだった。
白い病棟が囲むように並ぶ中心に、ひたすら高くそびえる棟がある。彼のお見舞いに来た時にはそこを訪れていて、今もそこが目的地なんだろう。
大きなエントランスが見えるガラスの自動ドア。正面玄関ともいえる入り口を横目に、喜佐美くんはまったく別の方向へ歩みを進める。
「そこからじゃないと、あとは関係者しか入れないんじゃ」
「大丈夫。僕だって産まれてからずっとここのお世話になってるんだから」
焦っているのか。恐れているのか。うっすらと汗をにじませながら喜佐美くんは歩き続ける。角を曲がって入り口も見えなくなった辺りで、目のまえに人影が一つ現れた。
大人びた格好をしているけれど、彼は私の同級生だ。一度会ったことがある相手だ間違いない。
「鑑くん」
無言で少し頭を下げた鑑くんは、小声で喜佐美くんに何かを告げたあとカードを見られないように渡してきた。
「ありがとう」
少しだけ柔らかくなった声色を残して、またどこかへ喜佐美くんは歩いていく。もちろん、私も追いかけて行こうとしたのだろうけれど。
「ごめんなさい。今すぐ用意できる関係者用のカードは一枚しかないので」
鑑くんが私を遮るように喜佐美くんとの間に割って入る。すぐには呑み込めなくてもみ合いになりかけたけれど。
「落ち着いて。私だって、ついていけるならそうしたい。でも、万洋の時間の邪魔をしたくはない」
焦っていた私へ鑑くんは冷静に話しかけてくれた。けれど、言葉や表情の端々から隠しきれていない悔しさが滲んでいるので私もいったん落ち着くことができた。
馴染んでいる場所ですからと正面玄関へと案内してくれる鑑くんに促されるまま。中にある喫茶店で、私たちは一息つくことにした。
「万洋からも、直に連絡が来るとおもいますよ」
座りやすい適度な硬さのクッションのある椅子。暖かいと感じるけれど、暑すぎない程度の快適な室温。大きなガラスの壁から覗く庭の景色は、初夏の訪れを告げる瑞々しい緑色に溢れていた。
もしも何事もなく今日という日が始まっていたのなら、きっと楽しい時間を過ごせたはずだと思うのに。
鑑くんもぼんやりと外の景色を眺めていて、何かを考えているようだった。気づいてみれば、けっこう気まずいのだけれど。喜佐美くんがどこにいるかわからないし、チーズケーキとコーヒーのセットもまだまだ残っている。
「こんな時にいうのもなんですが。万洋のクラスメイトに会えたことは、とても嬉しいです」
「え」
「唐突な話題でごめんなさい。万洋みたいには上手く会話できればよかったのですが」
「い。いやいや。ちょっと驚いただけっていうか。ちょっと上の空過ぎたってだけで」
友だちの友だちって。見ず知らずの誰かよりよっぽど話すのは緊張するものだと思った。せっかく同じ友人がいるんだから、喜佐美くんのことを話せばいいと思ったけれど。なにについて話せばいいのだろう。
勉強のこととか。学校での生活とか。なにが好きで、苦手なことはどうだとか。話題はいっぱいあるけれど。
喜佐美くんが向かった先は、前に私が一度訪れたことがある病院だった。同じ病院から来たという八城もそこに入院しているのは当たり前のことで。改札を出るまで私は彼に何も言えなかったし、彼も祈るようにスマホの画面を眺めるばかりだった。
白い病棟が囲むように並ぶ中心に、ひたすら高くそびえる棟がある。彼のお見舞いに来た時にはそこを訪れていて、今もそこが目的地なんだろう。
大きなエントランスが見えるガラスの自動ドア。正面玄関になっている入り口を横目に、喜佐美くんはまったく別の方向へ歩みを進める。
「そこからじゃないと、あとは関係者しか入れないんじゃ」
「大丈夫。僕だって産まれてからずっとここのお世話になってるからね」
焦っているのか。恐れているのか。うっすらと汗をにじませながら喜佐美くんは歩き続ける。角を曲がって入り口も見えなくなった辺りで、目のまえに人影が一つ現れた。
大人びた格好をしているけれど、彼は私の同級生だ。一度会ったことがある相手だ間違いない。
「鑑くん」
私に向かって無言で少し頭を下げたあと。鑑くんが小声で何かを告げて、喜佐美くんへカードを渡すのが見えた。
「ありがとう」
少しだけ柔らかくなった声色を残して、またどこかへ喜佐美くんは歩いていく。もちろん、私も追いかけて行こうとしたのだろうけれど。
「ごめんなさい。今すぐ用意できる関係者用のカードは一枚しかないので」
鑑くんが私を遮るように喜佐美くんとの間に割って入る。すぐには呑み込めなくてもみ合いになりかけたけれど。
「落ち着いて。私だって、ついていけるならそうしたい。でも、万洋の時間の邪魔をしたくはない」
焦っていた私へも鑑くんは冷静に話しかけてくれる。言葉や表情の端々から隠しきれていない悔しさを感じて、私もいったん落ち着くことができた。
馴染んでいる場所ですからと鑑くんに促されるままに案内された喫茶店で、私たちは一息つくことにした。
「万洋からも、直に連絡が来ると思いますよ」
座りやすい適度な硬さのクッションのある椅子。暖かいと感じるけれど、暑すぎない程度の快適な室温。大きなガラスの壁から覗く庭の景色は、初夏の訪れを告げる瑞々しい緑色に溢れていた。
もしも何事もなく今日という日が始まっていたのなら、きっと楽しい時間を過ごせたはずだと思うのに。
鑑くんもぼんやりと外の景色を眺めていて、何かを考えているようだった。気づいてみれば、けっこう気まずいのだけれど。喜佐美くんがどこにいるかわからないし、チーズケーキとコーヒーのセットもまだまだ残っている。
「こんな時にいうのもなんですが。万洋のクラスメイトに会えたことは、とても嬉しいです」
「え」
「唐突な話題でごめんなさい。万洋みたいには上手く会話できればよかったのですが」
「い。いやいや。ちょっと驚いただけっていうか。ちょっと上の空過ぎたってだけで」
友だちの友だちって。見ず知らずの誰かよりよっぽど話すのは緊張するものだと思った。せっかく同じ友人がいるんだから、喜佐美くんのことを話せばいいと思ったけれど。なにについて話せばいいのだろう。
勉強のこと。学校での生活。なにが好きで、苦手なことはどうだとか。話題はいっぱいあるけれど。
この場でできそうな話題は。
「喜佐美くんと同じで大人っぽいのかと思ってたけど。甘党だったんですね」
鑑くんがホットココアと中にクリームがたくさん詰まったシュークリーム。チーズケーキとブラックを楽しんでいた喜佐美くんとは真逆の印象のあるセレクトだった。
「考えすぎるところがあるからか。機会があるとついつい甘いものばかり食べてしまってますね。お恥ずかしい」
「そんなことないよ。私だって、喜佐美くんの真似で頼んでみただけだし」
「いつかやってみたいと思っていたけれど、なかなか勇気が出なくて」
打ち解けるきっかけができてしまえば、気安い話ができるようになるまではあっという間だった。
一海さんのこと。生徒会でしている活動のこと。喜佐美くんのことについてたくさん喋ったし、話を聞かせてくれた。
「それなりに長く接してきたつもりですけど、高校生活は予想以上に楽しんでくれているようですね」
「まだ数か月なのに、喜佐美くんはとても仲良くしてくれるから。支えてもらっているのは、私の方なんだろうなってよく思います」
話している内に気づいたけれど、私が支えてもらっているのは喜佐美くんだけじゃない。今日のことだって服や細かいことは朝野先輩と考えたものだし。ここまで彼と打ち解けられるようになったのも、目のまえにいる鑑くんに上級救命講習のことを教わったからだ。呉内だってたまに頼りになる時もある。
八城だってそうだ。ぶつかったりもしたし、今日だってお互いに取り引きをしようとしたのがきっかけなわけで。彼女が自分のことをどう思っているかはわからないけれど。誰にも言えなかった私の気持ちを初めて打ち明けられた大事な相手だ。
「鑑くんならもう知ってると思うけど、八城さんは」
「今は祈るしかできません。やりたいことがあっても、今の自分たちでは邪魔になることの方が多いですから。悔しいでしょうけれど」
私よりずっと鑑くんの方が付き合いは長いのだ。それだけ、彼が過ごした辛い時間を共に過ごしているわけで。
「友だちと別れる度に万洋は泣くんだ。なのに」
「だから。彼といる時間は少しでも楽しい時間にしようよ」
「万洋の主治医は院長の
喜佐美くんと八城を担当しているお医者さんが同じ人なのは聞いていたけれど。子供がいて友だちだとは知らなかった。
鑑くんがテキパキと人を助けられたのも、お父さんが凄い医者だからというのもきっとあるだろう。
今日まで喜佐美くんが生きてこられたこと。学校に毎日通えること。そこに至るまでの困難と血のにじむような思いの上に成り立っているのか。私には想像が及ばない部分がたくさんあるけれど、喜佐美くん一人の力じゃないのは私だってわかっている。
八城だって同じはずだ。だから信じている。きっとまた学校で会えるのだ。
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