2章4節 現れたものと隠されたもの
放課後の教室は、立ち寄ろうと思わなければ中々近づかないものだと気づく。
部活があるなら部室に行くし、遊びたいなら公園に行くだろう。自習がしたいなら自習室でした方がいい。
終礼直後は、みんないつ帰るのだろうと思っていたけれど。下校時間の方が近づいてから入ってみると、中はがらんとしてとても静かだった。
誰も座ってない椅子の列。校庭からの号令が時折聞こえてくる以外、なにも聞こえない静寂。
自習室もペンが紙を擦ったり、プリントをめくったり音がするくらいだけれど。
普段からみんながいる場所だからこそ、静けさがより際立つようだった。
走る場所をいつもと違う場所に変えると、意外に楽しかったのを思い出す。
面倒な課題もここで済ませたら案外と楽に終わるんじゃないか。と、思ったけど。
教室に八城≪やしろ≫がいる。
「お、お疲れさま。奇遇だね」
「なにしに来た」
「課題が終わってないのに気づいたから、戻ってきたんだ」
「そう」
最初の一言は毒気のある言葉だったけれど、次の一言からは興味も失せたようだった。
質問には素直に答える。
八城の逆鱗に触れてしまった応接室でのことから、彼女との付き合い方を必死に模索した結果だ。
色々と怖いから喜佐美≪きさみ≫くんには八城の性格のことを聞けてないけど。この直感が正しかったようだ。ホッとしている。
「八城さんはなんでここにいるの」
「誰もいないときまで気を使ったつもりになられるの。鬱陶しいからタメにして」
「うん」
「私だって。片づけたい課題くらいある」
意外な言葉だった。
八城は、喜佐美くんと違って人にやってもらうことを厭わない。
喜佐美くんといる時を除いて、階の移動にはエレベーターを使う。お世話をしたがっている男子に雑用を押し付けることも茶飯事だ。
その辺の男子に任せれば、課題なんて触れずとも終わるだろうに。
「なにその顔。まさか、らしくないとか思ってんの」
自然と二回頷いてしまった。
山内とか鈴木とか。告ってきた男子を便利に使ってるの知ってるし。
八城もいいように人を使っている自覚はあったらしい。
頷いた直後はものすごく剣呑な表情になっていたけれど。あっという間に天上を見上げてため息をつき始めた。
「やらせてるのは関係ない雑事だけなんだけど。課題をこなせるようになるのは必要なことでしょ。卒業しても、微分一つも解けません。漢文は書き下されても読めません。病弱でバカとか、マジで惨めなんだけど」
「カッコいい」
「お前の程度が低いってだけでしょ。もう邪魔しないで」
本心から言ったことをにべもなく否定される。誰だって少しくらい腹が立つと思うのだ。少しからかってやろう。
「そんなに性格が悪いと。喜佐美くんにドン引きされちゃうぞ」
パキリという音がした。やっぱり、自分の性格が悪いっていう自覚はあるんだ。
自覚しているだけあって、八城の性根はねじ曲がっている。わかっているなら、刺激するべきではなかったのだ。
「お前が万洋を裏でコソコソ付け回してること。本人は前から知ってるし、けっこう気にしてるんだけど。僕はそんな頼りなく見えるかなって」
「え」
八城の告白のショックでプリントを落としてしまった。
どこまで喜佐美くんは私のことを話しているんだろう。っていうか、陰から見守ってるの知ってたんだ。
心底楽しそうな、そして同じくらい意地の悪い笑い声が私に降りかかる。
「万洋と私はね。お前と出会うずっと前から一緒なの。ICUの孤独も。メスが全身に入る恐怖も。どうにもならない身体の無力感も。共有できるのはお互いだけ」
たった一言。十秒にも満たない発言。
喜佐美くんが隠そうとした出来事が、ほんの少しだけ開示された。
怖かったし辛かった。だからって、どう反応すればいいんだろう。
私の迷いを見て、八城の口角がさらに上がる。
憐れんだり、可哀そうだと思われることを嫌う八城がなぜ病院でのことを話すのか。思いつくべきだった。
今この場で。私の心を貫く舌剣が引き抜かれている。
「私は万洋の苦しみを共有できる唯一無二。お前はどうして自分のことが話されないと思ったの。ねえ聞かせなさいよ」
わかっているつもりだった。
喜佐美くんと同じ病院から来ているということは、身体のことで苦しんできたはずで。どうやっても私にわからない病苦の辛さを知っていた。
その点で。喜佐美くんと私の距離は、八城と大きく差がついている。
「ついでに聞いてあげるけど。お前、万洋のこと好きだよね。発情した目で見てるのが心底気持ち悪い。私と万洋の関係に勘づいてるくせに。なんでそうなるのかな。本当に理解できないんだけど。学校中にはびこっている同類を代表して答えなさいよ」
バレている。現状で一番危険な恋敵に。喜佐美くんを好きなことが思いっきりバレている。
天地が踊り狂っている。頭を抱えて蹲りたい。歯を食いしばってないと叫び出しそうだ。
本当は逃げ出したいけれど、八城にこの気持ちを知られているからこそ伝えたい言葉があった。
「ごめん。嘘ついて」
「は。謝るならつべこべ言わずにさっさと万洋から離れ」
「違う。応接室のこと。喜佐美くんが好きだってバレたくないから嘘ついたんだ。それで気分悪くしたでしょ。ごめんなさい」
まっすぐと目を見て。最後までしっかり伝えてから頭を下げた。
八城からの返答はない。物を投げつけてくるとまではいかないけれど、なにか反撃があると思ったのに。
顔を上げると、八城の纏う雰囲気が少しだけ和らいでいるような気がする。
それだけでは、私の腹は収まらなかった。
「でも。学校にいる時の喜佐美くんのこと、八城は知らないよね」
言葉で人をなじっておいて、同じことを自分がされないと思うのは見通しが甘い。
八城には気持ち悪いと言われたけれど。裏を返せば学校内で一番喜佐美くんの近くにいるのが私だ。
学校に来てやっと何週間という八城とは、年季が違うのだ。
「朝野≪あさの≫とかいう上級生のことでしょ。お前は不安だろうけど、私は全然心配してないから」
「喜佐美くんのお姉さんの秘蔵っ子だったってこと。知らないでしょ」
「知ってるわそのくらい」
知識自慢というか。度胸試しというか。いつの間にか、喜佐美くんに関することの暴露合戦という空気が出来上がってしまっている。
売り言葉に買い言葉で。一人で仕事をしているだろう朝野先輩を観にいくことになった。
視聴覚室に繋がる渡り廊下は人目につかない。生徒会室は窓越しに中が見えるけど、中からこっちは見えづらい。
朝野先輩のそばで頑張る喜佐美くんの様子がよくわかる。格好の見守りスポットだ。
だと思っていたけれど。
「見えないんだけど」
「珍しくカーテンがかかってる。おかしいな。先輩がいる時はカーテン開いてるのに」
「なんでそんなこと知ってんの。率直に気持ち悪いんだけど」
「いやいやいやいや。保健委員の仕事で、さっき生徒会室にお伺いしたってだけで」
「あっそ」
嘘はついてない。嘘はついてないけど。次の方法を八城に伝えようか迷った。
まぁいいか。共犯が増えるし。
「マジで最悪。本当に最悪。頭に蛆が湧いてるんじゃないの」
「静かに。バレた時の言い訳考えてないんだから」
こっそりドアを開けて隙間から覗く。実に古典的な方法だ。
喜佐美くんは下校してるはずだから、万が一朝野先輩に見つかっても大丈夫。なはず。
だったのに。
なぜか喜佐美くんが生徒会室にいる。
カーテンで人目から遮られた、明るい光に包まれている空間。
喜佐美くんはなぜか朝野先輩がいつも使っている椅子に座っていて。
朝野先輩は喜佐美くんの前に跪いて、祈るように手を合わせている。
喜佐美くんは朝野先輩の手に自分の手を重ね合わせて。優しい声で同じ言葉を繰り返している。
まるで恋人に睦言を捧げているような光景だけれど。
「夕はできます。絶対やれます。ずっとそばにいますから。夕はできます。絶対やれます。ずっとそばにいますから。夕はできます。絶対やれます。ずっとそばにいますから――」
延々と続く狂気的な文言が全てを異様な光景に変えていた。
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