2章3節 仄暗い夕映えに

 横になって休むことができるほど大きいソファ。ふかふかのクッション。暖かに日光を取り入れる薄手のカーテン。生徒会員が持ち回りで行う掃除によって保たれる清潔な空間。


 私が座っている椅子も、硬すぎもせず柔らかすぎもせず快適に仕事をさせてくれる。

 

 間違いない。

 

 恵宝けいほう高校の生徒会室はこの学校の中でもっとも過ごしやすい環境だ。

 

 それなのに。私は一人でこの場所にいるのが辛くて堪らない。


 誰かがいるなら生徒会長として振舞えばよかった。喜佐美きさみ先輩の弟がいるなら、彼女の話でもして寂しさを紛らすこともできただろうに。


 誰もいない生徒会室の窓から、下校する生徒たちを覗く。その中に交じる二人組が私の視線を独占する。


 喜佐美きさみ万洋まひろ八城やしろ桃華ももかという転校生のペアだ。


「やっぱり。私じゃ優先順位は下がっちゃうか」


 振り返ってテーブルの上を見る。自習に使う教材の中には、昔使っていたプリントやノートも入っていた。


 万洋君とは志望校が同じなのだ。役に立ちそうなものを、今日渡してあげる予定だったのだけれど。


 今日は来られないという連絡をちゃんと貰っている。


 教材をわざわざ持ってきたのも、会長の棚にしまって彼が来た時にいつでも渡す用意ができるようにするためのものだ。


 特に残念がることもないだろう。


 嫉妬をしているつもりではないけれど。もう一度、窓からあの二人を覗きこんだ。


「アレで付き合ってるつもりがないのは嘘でしょ」


 転校生は万洋君とも縁があるらしい。


 お姉さんである喜佐美先輩からお話は伺っている。万洋君からも直接話を聞いたが、かかりつけの病院が同じの昔馴染みとのことだった。


 果たして本当にそうなのか。


 あの転校生を昔馴染みだと思っているのは、喜佐美姉弟だけではないだろうか。


 二人とは短くない付き合いをしているから私にはわかる。彼女たちは気の置けない間柄での心の壁が無いに等しい。人懐っこすぎる。


 喜佐美先輩も、本人の与り知らぬところで大変なことを起こしていた。万洋君によくついている久留巳さんも、距離感を間違えている節がある。


 あの姉弟と仲良くなる人間は、どう接しているかが内心に直結する傾向がある。


 なので、同伴している転校生の様子を観察してみることにした。


 春の日の蕾のように綻んだ頬。自然に上がった口角に、開いた唇からは白い歯が覗いている。緊張が緩んだ目尻。瞳の中には万洋君しか映ってないだろう。


 あんな表情は誰にでも見せるものじゃないし、見せられない。


 親愛の情よりもっと深くて。友情では決して満たせない感情。


 八城という女の子がどういう感情を万洋君に寄せているのか。口にしなくてもよくわかる。


 私にも同じ感情を抱いている相手がいるのだから。


「喜佐美先輩」


 生徒会長専用席。喜佐美きさみ一海かずみも座っていた座席に身を預ける。


 万洋君と話してわかったことが一つあった。向いてないと思っても、彼女から会長職を引き継いだ理由が。


 私にとって生徒会長の座席は喜佐美先輩の場所だった。彼女だけが使うことを許されていた場所に別人が座っている。何人であろうと見たくはない光景だった。


 万洋君が使っている座席に座って、会長席を眺める。彼が座るようになる前は、私がこの椅子から喜佐美先輩を見つめていたのだ。


 静かになったこの部屋で瞳を閉じれば。ありありとあの頃が蘇ってくる。


「お疲れ様です。喜佐美先輩」


「今日も来てくれたの。熱心な後輩がいて頼もしい」


「先輩には到底及びません」


「私は急に困った生徒が来てもいいよう。自習室代わりに詰めてるだけだから」


 今日も喜佐美先輩は買い替えたばかりの椅子に座って自習をしていた。


 リクライニングやひじ掛けがついている、ちょっと高級な椅子。いつも作業をしている喜佐美会長に私たち生徒会員が譲ってい座席だった。


 目の前でもなければ、隣でもないけれど。会長の座席に座る喜佐美先輩が常に視界の端に入る場所。


 互いが手を延ばしてもぎりぎり届かなそうな場所が、生徒会室にいる私の定位置だった。


「勉強もしなさいって注意したのは私だけど。今から遊んでおかないのも勿体ないなと思う。そうだ、明日の放課後は」


「先輩。受験生じゃないですか」


 大切な人の受験の邪魔をしたくなかっただけではない。二人きりになれるこの空間から離れたくなかった。


 勉強や高校生活の相談に親身になって付き合ってくれる。


 気分が落ち込んでいるときはソファで寝かせてくれる。


 お昼ご飯を一緒に食べたり、一緒にいる時間を楽しく過ごさせてくれる。


 高校も馴染めなかった私に、同級生たちのような学生生活を喜佐美先輩が過ごさせてくれた。


「お仕事やお勉強を一緒にする、もちろん楽しいけれど。つきっきりで支えてくれる後輩にできること。もっとあると思うんだけどなぁ」


 喜佐美先輩が誰にでも向ける屈託のない笑顔。


 励まされると感じたり。見惚れたり。ほっとしたり。動かされる感情は十人十色だろう。


 私が刺激される昂りは、誰にも決して知られてはいけないものだった。


「デートとか。いいかもしれませんね」


 喜佐美先輩の花開くような笑みが眩しかった。


 二年も片腕として支えてくれた後輩との仲がより深まったと思って嬉しいのだろう。デートを選んだ言葉運びも、単なる綾と思っているに違いない。


 そばにいるからこそ発揮されてしまう鈍感さ。誰にでも起こる思い違い。


 認識の曖昧さへ甘えている内に、彼女が卒業してしまうその日を迎えてしまった。


「ありがとう、ゆう。あなたのおかげで、充実した高校生活を遅れた」


「先輩」


 結局、喜佐美先輩が卒業するまで言葉遊びで自分を慰めることしかできなかった。


 二人でいるときの先輩は私を下の名前で呼んでくれるまでに親しくなったけれど。彼女にとっての私が、後輩から歳の近い妹のような扱いになっただけだろう。


 身内への距離感がとても近い人だった。それがわかっただけでも、色々と嬉しいことがあったのだけれど。


「今度は大学で会いましょう。と言いたいけれど、大丈夫。本当に連絡しちゃダメなの」


 あんなに頼もしかった喜佐美一海が初めて見せた寂し気な表情。高校を卒業して一人の人間として接したいという望み。


 ずっとそばにいさせてください。と言いたかったけれど。


「私は先輩のように器用ではないので。受験に集中できなくなりますから」


 同じ大学にさえ入れれば、喜佐美先輩は後輩として私をまたそばに置いてくれる。


 望むような関係になれなかったのは仕方ないけれど。私が彼女のもっとも近くにいられる方法はこれが最有力だった。


 別れの時間が刻一刻と近づいている。傾いていく夕陽の中で、私はいまだに告げたがっている本心を抑えるのに必死だった。


 別れ際の最後の最後。彼女が私に託したものが増えた。


「今度の入学式で弟が来るの。夕、空いた時間でいいから時々気にしてあげて」


「わかりました。弟さんのこと、忘れません」


 喜佐美一海は誰よりも愛しい人だ。


 この感情を抱いてしまった前からも、喜佐美一海が私にとって最高の先輩だったことは変わらない。


 一個人としての愛情は届かなくても。いいやだからこそ、恩を返したかった。


 朝野夕にとっての喜佐美一海のように。いずれ来るであろう彼女の弟にとって、私が最高の先輩であろうと決めたのだ。


 考え事をしている間に下校時刻になってしまった。


 身支度を済ませ、戸締りをし、照明と空調を一つずつ落としていく。


「お疲れさまでした」


 誰もいない生徒会室の、空席となった会長席に挨拶をする。


 会長席は喜佐美先輩の席で。こうして一人で退室するときは、直前まで作業している彼女が目に浮かぶようで離れがたい。


 ゆっくりと目を閉じて、もう一度開く。


 椅子はやっぱり空のままだった。


「やっぱり。喜佐美先輩がいないこの部屋は寂しいです」


 握ろうとしたドアノブから手を離して、自らを抑えつけるように抱きしめる。


 太陽が浮かばない極北にいるような切なさは、どれだけ身体を締め付けても収まる気配すら見えてこない。


 喜佐美先輩が卒業してしまった以上、もうこの部屋に彼女が訪れることはない。


 今ここを訪れている喜佐美と言う人間は。同じ苗字をしている、彼女の弟だ。姉弟だからか、似ている部分は多いけれど。


 そこまで考えて閃いたことがある。魔が差したとも言えるけれど、私にとってはどちらでもいいことだ。


 なら、彼にやってもらおう。喜佐美先輩が私にしてくれたことを。


 万洋君は喜佐美一海が溺愛している弟だ。


 私がもっとも求めるものを、万洋君が一番享受している。だから、喜佐美先輩と同じことが彼にもできるはずだ。


「大丈夫」


 一瞬。喜佐美万洋は私の望みに応えてくれるだろうかと考えたけれど。確信といえるほどの直感が疑問を払拭した。


 万洋君は私に高校生だった頃の喜佐美先輩を重ねている。私が望めば、彼は全力で応えてくれるだろう。

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