2章1節 意地と意気地
職員室は校舎のどことも違う香りがするし、どこを向いても大人しかいないから緊張する。担任の
生徒指導に熱心な先生だと思ったけど、放課後に一人で呼び出されて不安にならないわけない。
転校生だって今朝に来たばかりだ。絶対忙しいはずなのに、私はいったい何やらかしたんだろう。
「お待たせ。長い間立たせちゃって悪いね、
「大丈夫です」
「転校生の件で報告しろってあっちこっちうるさくてさ。生徒待たせてるからって切り上げてきたんだけど」
怒ってるんだか世間話をしたいんだか。何を伝えたいのかよくわからないのが田辺先生だ。
適当に相槌をしながら呼びだされた理由を考えているけれど、やっぱり心当たりは浮かばない。
プリント。成績。素行。進路。どれを取っても大丈夫だと思うのでドンと構えようと決めた。
「そうそう。
「て、転校生のことですね。可愛い子だと思います」
あらそう。とだけ一言返されて田辺先生はうんうんと頷いた。
呼び出しの本題が八城という転校生なのはわかった。だからって、どう。と言われても会って一日でコメントなんかできるわけないじゃないか。
「一日だとそんなもんだよね。自己紹介の時でも言ってたけどさ、八城は色々と手助けが必要なのよ。本当なら別のクラスにする予定だったんだけど、久留巳が最近頑張ってるじゃない。任せてみようかなって話になってね」
そんな話聞いてないんですけど。なんてことは、口が裂けても言えなかった。
喜佐美くんが恵宝高校に来るまでどれだけ頑張ったのか。ただそこにいるというだけで、どれだけ気をつけなくちゃいけないことが多いんだろう。
転校生は喜佐美くんと並々ならぬ間柄を感じさせる相手だ。とはいえ、保健委員の役割を果たすことに迷いはない。
「うん。言ってくれると思ってたよ。隣の応接室にいるから、ちょっと話してきて」
だからって、いきなり会って話して仲良くなれなんて対応は投げやり過ぎないか。
職員室の奥にある扉、私はずっと校長室の入り口だと思っていたけれど。そこが応接室の入り口だった。
よく目にする応接室の入り口は廊下から入る方だったから、職員室からも入れるだなんて思っていなかった。
職員室から中に入って、最初に目につくのは校庭が一望できる程に大きい窓だ。放課後のみんながいきいきとしている姿をお客さんに見てもらおうという目的なら、大成功だと思う。
壁沿いには何かしらのトロフィーや賞状が飾ってある。陳列されている中に一海さんの名前が刻まれているものも複数見つけた。
賞状がけっこう大きかったり。トロフィーが一番前に飾ってあったり。喜佐美くんや朝野先輩の言う通りすごい人だったんだ。
病室にこっそりプリンを持ち込んで喜佐美くんと食べようとした面白い人だとは、実際に会うまで思わなかっただろう。
「やっぱり。
「お、おね」
「万洋とは同じ病院ですから。私も可愛がってるんです」
唐突に喋りかけられたのと、話の内容で動転してしまった。
なんのために応接室に来たのかを思い出して、辺りを見回すと。ソファに身を沈めている転校生がそこにいた。
授業中は後ろの席にいて死角になっている。それ以外の時間も菓子に群がる蟻のように男子が迫っていたからだ。
こうして目のまえにいると、転校生であることを抜きにしても男子が夢中になるのはよくわかる。
小柄で華奢な体格に端正な顔立ち。色白な肌から滲む儚げな雰囲気。
触れただけで崩れそうだけど、誰かが支えてあげなくちゃいけない女の子。男子は絶対にこの子を放っておけないだろう。
「教室で会ったことはあるけど改めて。
「八城桃華です。学生生活は初めてなので色々と迷惑をおかけしますが、どうかよろしくお願いします」
「こちらこそ。保健委員だし、遠慮なくなんでも言ってください」
まずは笑顔で言葉が交わせたけれど、その後に続く言葉がない。
部活動の交流試合でやった堅苦しい挨拶を思い出したけど、それよりもっとぎこちなかった。しんどい。
ほぼ初対面の生徒二人を部屋に閉じ込めて上手くいかせようなんて、教師の考えることか。
田辺先生の意図にケチをつけている内に、一つ気づいたことがある。
さっき自分でも言っていたけど、八城さんは学校生活が初めてだ。喜佐美くんと病院で話していたとしても、同学年の女子と話す機会はあまりなかったはずで。
歩み寄るなら、私からじゃないと二人とも距離が埋められない。
「せっかくクラスメイトなんだし。さん付けとか敬語とか抜きで仲良くしてみたいな」
「私、こうやってお話するのも初めてだから。変なこと言っちゃうかもしれないし。まだちょっと照れくさいかも」
八城さん、いいや八城の笑顔が初めて崩れた。
形のいい眉が崩れて、薄い唇が少しだけ尖っている。人形のようだったさっきまでとは違う、また別の可愛らしさを感じた。
私としてもこっちの方が、いきいきしていて親しみやすい。
「大丈夫。八城さんはとっても可愛いから。きっと素のままの方が、みんなも仲良くなるの早いと思う」
「本当に。素のままの私が」
「うん。お互いに慣れないこともいっぱいあると思うけど、喜佐美くんのこともあるし。みんな優しくしてくれる。私だって、最近上級救命講習を受けたから」
「久留巳さん、そこまでしてくれるのはいったい何で」
刺しこむように投げかけられた問いに言葉が詰まる。
教えて欲しいな。という八城の言葉の裏に沈黙を許さないという圧迫感を感じていて、私も答えたかったけれど。
「それは」
喜佐美くんのため。とは言えなかった。
彼のために今日まで頑張ってきたのは本当だ。けれど、今日までの努力を伝えたらクラスに来たばかりの八城をさらに不安にさせてしまうかもしれない。
そんなことはない。あなたのためにも私は一生懸命頑張ってみせる。
ただそれだけのことが、なぜか言えない。
「ほら。みんなが少しだけ頑張って、みんなで過ごせるようにする時代だと思うし。学校もそういう場所でしょ。それに喜佐美くんも八城も少しくらい身体が弱いからって」
嘘だ。嘘だ。出まかせだ。さっきまで言おうとしてたことすらもまったくの出鱈目だ。
喜佐美くんと出会う前から一緒にいる彼女に、私が彼をどう思っているのか知られたくないんだ。
嘘の代償は速く、重大で、取り返しなんてつかないのに。
「お前も。私たちを憐れむのか」
濁りきった声に驚いて顔を上げると、奈落の底から睨みつけるような視線に射抜かれた。
人形のような表情から同級生らしい表情を見せてくれたのに。今の八城は悪鬼のように恐ろしい顔をして私に憎悪をぶつけてくる。
「なんでも言ってくれだと。私の身体も治せない無能が、笑いもできない冗談を言うな」
「ね、ねえ」
「無駄口叩く前に何ができるか言えよ。使ってやるから」
産まれてから経験したことのない悪意の密度。息を詰まらせる程の圧迫感と悪寒に、私は反論も謝罪もできずに立っているしかできなくなった。
言い返すこともできない相手に興味がなくなったらしい。八城は立ち上がって廊下側の出口に向かって歩きだした。
手を伸ばせば触れてしまう程の距離まで八城が近づくと。喉が勝手に締まって小さく悲鳴のようなものさえ漏れてしまった。
八城は怯える私を笑うのでもなく、嘲るでもなく。ただ元の人形のような表情に戻って応接室の扉を潜った。
静かに閉ざされた扉を見て、今の光景は夢だったのじゃないかと思ったけれど。
身体中から噴き出している汗が、今の出来事を現実だと理解させた。
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