1章3節 憧れは手放さずに

「起立、礼」


「ありがとうございました」


 今日も無事に終礼を迎えられた。特別な行事も、目を引く出来事もない、気づいたら過ぎているような慌ただしいだけの一日。


 喜佐美きさみくんと過ごす毎日を考えると、そんな一日がとても大切なことのように思える。


「はいはい。そーじだそーじだ。綺麗にしてやるんだからさっさと出てけ」


 モップを持って呉内くれうちが乱暴に動き始めたので、言われた通りさっさと教室を出ることにした。


 乱暴で滅茶苦茶でいつもどこかで適当に騒いでいるお調子者の癖に、男子受けはいいのが不思議でならない。


「またな。喜佐美」


 呉内が汚れのついたままのモップを振り回している。挨拶のつもりだろうが、他の人の邪魔にならないように小さく手を振っている喜佐美くんみたいな気遣いはないのだろうか。


 呉内は喜佐美くんにもよく絡んでくるけど、彼が優しいからあんなのでも付き合ってあげているだけだ。あの金髪頭もいい加減気づけばいいのに。


 教室を出る時に、ごった返す廊下で喜佐美くんを見失ってしまった。


 左右に視線を配って探していると、ジャージを着た同級生たちがすれ違ってくる。ぶつかったら危ないなとは思ったけど、不思議と腹が立たなかった。まだ走っていた頃の目線で彼らを見ているからだろう。自分でも驚いている。


 外へ出ていく彼らを見送って、喜佐美くんを探し始めた。


 もう部活にも入ってないんだから、喜佐美くんと一緒に下校なんかしてみたい。校則的にグレーだけれど、寄り道とかもしてみたい。


 喜佐美くんはけっこう厳しい食事制限があって、買い食いはできないけれど。晴れた日は公園で本を読み合ったりなんかきっと楽しいと思うのだ。


 センシティブな話題なので、病室で喜佐美くんがどうやって過ごしてきたのかは自分から聞かないようにしている。なので恵宝高校に来る前の彼がどう過ごしてきたのかは、彼がたまに聞かせてくれた内容から想像するしかなかった。そんな貴重な情報の中に本の話題があった。


 アンデルセンの「人魚の姫」。ホメロスの「オデュッセイア」。話してくれるのを聞いていると、同じ本でも出版社や版の違いまで楽しんでいるらしい。通の楽しみ方ってすごいと思う。


 教科書の文章しか知らない私だけど、喜佐美くんならきっと面白い本を知っているだろう。教えてもらうことで本の話に花が咲いて、彼ともっと仲良くなれるかもしれない。


 そうか。放課後なんだから図書室に行ってもいいじゃないか。


 是非誘ってみようと思ったけれど、そうもいかない。最近の喜佐美くんは、放課後に行く場所が決まってる。


 だいぶ人が散るようになってやっと、廊下の端で人通りが過ぎ去るのを待っている喜佐美くんを見つけた。彼の向かうところは決まっているけれど、送り届けるまでは私のやっていいことだからついていこう。


「お疲れさま、喜佐美くんはこの後の生徒会で何があるの」


「一番大変な生徒総会が終わったから、しばらくはのんびりできるんだ。本当はお休みなんだけど、朝野先輩が作業をするらしいからお手伝いしようかなって」


 恵宝けいほう高校三年、生徒会会長、朝野あさのゆう。先代の生徒会長で、喜佐美くんのお姉さんである一海かずみさんという生徒から会長職を引き継いだ人だ。


 背が高くて、キリっとした一重や立ち振る舞いが凛としていてカッコいい。朝会や集会は壇上に上がるだけでみんなが静まり、落ち着いた語り口に耳を傾ける。


 典型的な生徒会長。みんなの模範になる生徒。学校の生徒のリーダーだという自覚でみんなを引っ張っていく頼りがいのある人だ。


 呉内ですらいつもの調子でいられない風格は私も見習いたいけれど、一つ困ったことがある。


「本当は姉さんの話をしてる方が多いんだけど。朝野先輩がね」


 喜佐美くんが朝野先輩にとても懐いていることだ。お姉さんと同じ学校に通うのが彼の夢だった。だから、朝野先輩のお手伝いは生徒会長だった頃のお姉さんを支えているようで嬉しいんだろう。理由はわかるし、気持ちもわかる。


 私だって応援したいけれど、どうしても不安なところがあった。


「今週はずっと通いっぱなしだよ。少しお休みした方がいいと思うんだ」


「作業だけじゃなくて、最近は勉強も教えてもらってるから。つい甘えちゃうんだよね」


 なにそれ。初めて聞いたんだけど。


 作業の合間合間に、二人が一海さんの話で盛り上がっているのは知っている。私にはできない話だからちょっと悔しいけれど仕方ないと思っていた。んだけれど。これはちょっと。


「ど、どの教科」


「恥ずかしいけど全部。先輩は志望校が姉さんと同じだからね、過去問も見せて貰ってるんだ」


 喜佐美くんと朝野先輩が思った以上に仲良くなっていて胸騒ぎが抑えられない。とりあえず受験の話にでも話題を逸らそうと思ったけど、そうもいかなかった。


 表情がパッと明るくなった喜佐美くんの視線の先に、朝野先輩がいたからだ。


「こんにちは喜佐美くん。久留巳さんも、お疲れさまです」


 朝野先輩、面と向かって対面すると爽やかな笑顔で話してくれるのがズルい。気持ちよくはいと言わせてしまう魔力がある。というか、私はこの人に既に何回も流されている。


 でも。今日のこの場は大人しく引き下がるわけにはいかないのだ。


「朝野先輩。生徒会の仕事は最近も忙しいんですか」


「同級生や後輩たちのより良い学校生活のため。生徒会はいつも頑張っています。喜佐美くんには私の秘書として、お手伝いをしてもらっています」


「「秘書」」


 喜佐美くんと私の声が重なった。彼は喜んでいるようだけれど。朝野先輩が負担を背負わせているのを知ったのだから、保健委員として注意しなくては。


「生徒会は喜佐美くんの身体の心配とか、ちゃんとしてあげてるんですか」


「もちろん。一海さんからお預かりした大切な弟さんです。喜佐美くんの体調が最優先。言ってくれれ」


「言ってくれればみたいな態度で万が一があったらどうするつもりなんです。だって喜佐美くんは」


「おう喜佐美。生徒会長と保健委員とで両手に花じゃん。羨ましいねえ」


 とても身体が弱いから。とは続けられなかった。呉内が私たちの会話に無理やり割って入ってきたから。


「こんにちは呉内くん。校則に気を配ってくれてとても嬉しいです。背筋がしゃんとしていたらもっと素敵に見えますよ」


「だってさ。これ以上イケメンになっちまうとお前が困るんじゃねえの、久留巳」


「呉内くん、今は私と朝野先輩が話してて」


 なんとか呉内を離そうとしたけれど、二人はあっという間に背中を向けて生徒会室に向かっていた。


 ニヤつきながら小指の先で自分の顎をつつく呉内と私しかいないので、大人しく下校することにした。

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