1章2節 桜花朽ちるとも

 授業中、とても真剣に課題へ取り組んでいる喜佐美きさみくんを見つめる。


 電子ペンでマーカーを引いたり。ダウンロードした資料を比較してメモを取ったり。発言も積極的で私も見習いたいくらいだ。


 喜佐美くんはまだ気づいていないようだけれど。彼は真剣に問題を解いている時に少しだけ唇を尖らせる癖がある。見ていてすごく可愛らしい癖なので、ついつい自分が取り組む問題が疎かになってしまうくらいだ。


 邪魔をしないように敢えて口にしないけれど、授業中の私はそうやって喜佐美くんを見守っている。


 頑張っている喜佐美くんを応援したい。そう思っているのは私だけじゃなかった。ゴールデンウィーク前から気づいている。教室にいる何人かは、自分と同じように今もこうして喜佐美くんを見つめていることも。


 喜佐美くんに付きそえる保健委員としての立場。大義名分がなければ、私だって授業中にこっそり盗み見るだけのクラスメイトの一人だったはずだ。


「いっちに。さん。し」


 もともと陸上部だったのもあって身体を動かすのは嫌いじゃない。もっと言うなら体育の授業は大好きだ。ジャージ姿の喜佐美くんを見られるのがとても喜ばしい。


 もう少し夏が近づいて暑くなれば、上着を脱いで半袖になった喜佐美くんも見られるはず。季節の移り変わりがこんなに待ち遠しいのはいつぶりだろうか。もしかしたら初めてかもしれない。


 喜佐美くんは体育の時間は校庭の端や体育館の舞台の上にいることが多い。ストレッチをしたり、みんなの動きを観察してレポートを出すことに取り組んでいるのだ。


 いつも明るい喜佐美くんもこの時だけは寂し気な表情を隠せていない。少しでも楽しくなるように、私は授業の隙を見て彼に手を振ったり笑いかけたりしていて。彼も同じように笑ったり手を振ったりして返事をくれるのがとても幸せだった。


 けれど、喜佐美くんの振る舞いを見るに、同じことをやっている女子が私の他にもいる。たぶん、私が見つけた数以上に。


 喜佐美くんには私を見ていて欲しい。だから、いつも以上に身体を動かして視線を釘付けにする。


 誰よりも速く、高く、力強く振舞うから。他の女の子は見ないで欲しかった。


「見ろお前ら。オーバーヘッド決まる瞬間をよおおお! 」


 呉内くれうちの叫びが聞こえた数瞬後、グラウンド中に野太い歓声が響き渡った。


 蹴ったボールをゴールに入れたのは凄いと思うけど、オフサイドで無効だぞ呉内。


 体育の授業の次は理科の授業だ。理科の授業の度に長めの教室移動があるのが、この学校に来て数少ない不満点の一つだった。


 恵宝けいほう高校は理科の授業で使う教室と実験の時に使う教室が別々になっている。科目ごとにも教室が分かれているから都合八つの教室があって。珍しいことに理科の授業専用の棟があるのだ。


 体育の着替えと長めの教室移動が重なるのは面倒くさい。けれど、喜佐美くんと二人でいられる時間が長めに取れるのは都合が良かった。


「呉内が最後にやったゴール。本当に凄かったんだよ、久留巳くるみさんにも見て欲しかったなぁ」


「カッコよかったんだね。私も見たかった」


 グラウンドで跳ねた呉内の動きは派手だったし、かなり難しいことをやったのはわかる。でも頭から落ちて鼻の両穴にティッシュ詰めてまでやるほどカッコいいことだったんだろうか。


 喜佐美くんが楽しんでくれるなら別にいいけど。


 渡り廊下を歩いている喜佐美くんの背後に、青々とした葉を茂らせた木が見える。


 今はもう他の木々と見分けがつかないけれど。入学してきた時には、とても綺麗な桜の花が咲いていたのだ。私と喜佐美くんの、互いの縁を感じさせるのに相応しい、美しく幻想的な景色だった。


「あの木のこと、覚えてくれてたんだね」


 喜佐美くんも立ち止まって、桜の木を見つめてくれている。私にとっての特別な場所が、彼にとっても特別な場所だったのが嬉しかった。


「一人で頑張るつもりだったから。頼れる人が見つけられて、本当に嬉しかったんだよ」


 喜佐美くんは、私たちの入学と入れ違いに卒業した生徒会長の弟さんだった。入学式の時も。オリエンテーションの時も。教職員や前の会長のお世話になった先輩方に囲まれて顔もよく見えなかった。


 クラスメイトだとわかった時も。顔と名前が一致しているだけの関係にしかなれないのだろう。そんな風に勝手な予測をしていたのを忘れていない。


「あの時に喜佐美くんの力になること。選んで良かったって思ってる。一緒に過ごせる時間がね、すっごく楽しいんだ」


「ほんとうに」


「うん。誰かの助けになれることはもちろん嬉しいけど。それだけじゃなくて。喜佐美くんと笑い合ったり、たまに悩んだりするのも大切な時間だから」


 舞い落ちる桜の花びら。柔らかい春色に埋もれるように喜佐美くんは蹲っていた。


 一人になれる場所が欲しくて校内を隅々まで探索していたら、偶然見つけてしまって。


 声をかけても返事も出来ないで荒く息を繰り返す姿。制服の上に積もっていく桜の重さに崩れていきそうな気がして怖かったのをよく覚えている。


 自分にできることはなかった。保健室の先生に助けを求めようとして、喜佐美くんに袖を捕まれた。


 落ち着くまで一緒に居てあげて。引き留めた理由も聞いて、私が保健委員になって喜佐美くんを支えることを決めた。


「いつも助けて貰いっぱなしで。お返しなんか出来てないのに」


  喜佐美くんの顔に申し訳なさそうな表情が浮かびそうだったのを、笑顔を送って止めた。


 保健委員として喜佐美くんを支えることは、今までのどんなことより責任が重大だった。けれど、背負った責任以上に喜佐美くんは私に報いてくれている。


「こうしたいっていうの、私にはもうないから。夢を叶えた喜佐美くんを応援したいんだ」


「尊敬している人と同じ高校になんとか通えているだけだよ。そんなに凄い夢かな」


「うん。大好きなお姉さんと同じ高校に行けたし、お姉さんがいた生徒会のお手伝いも立派にやってる。大切な夢を叶える助けになっているんだから、私は自分も喜佐美くんもとっても誇らしいんだ」


 病院から喜佐美くんがここに辿り着くまでの努力を私は知らない。けれど、夢を叶えるための努力がどれだけ辛いかくらいは私も知っている。


中学校では陸上にのめり込んだ。インターハイ出場を目指して、食べるものや寝る時間まで絞って。ひたすら時間や距離への戦いに打ち込んだ。


顧問の先生は、高校でも頑張ればまだまだ上を目指せると応援してくれたけれど。


他の部員より速く走れるけどそれ以上は無理だなと気づいてしまって。陸上のことは忘れることにした。


 自暴自棄になって何もせずに三年を過ごす。良くないとわかっていても、入学式ではそうやって過ごすことしか考えられなかった。


 喜佐美くんが、あの時私の袖を掴んでくれなかったら。彼を助けるという役目がなかったら。今もきっと無為に毎日を過ごしているに違いない。


「久留巳さんは」


 喜佐美くんが聞こうとした何かは、予鈴にかき消されてしまう。


 急がないと本当に遅れるので会話が途切れてしまったけれど、なぜかホッとする自分がいた。

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