痛みを分かつ君といたい
柏望
1章1節 踊り場の奮闘
改札で古風な感じの小物入れを拾った。前を向くと、カバンが開きっぱなしになっているお婆ちゃんがいたから、追いかけて届けた。それ以外は後悔しかない朝だ。
もう一品おかずが欲しくて作った温泉卵。寝癖を直すついでに時間をかけた前髪のセット。最後まで見てしまった占いの結果。
卵かけご飯じゃダメだったのか。全力疾走しているなら学校に着くころには前髪はボサボサになってしまうじゃないか。自分の星座はわりと最初の方に出ていたのに。
中学の時、陸上部で作った身体がまだ鈍ってなかったのは嬉しいけれど。翻るスカートが邪魔ったい。ローファーで踵が擦れて涙が出そうになる。
けれど立ち止まれない。走る早さを緩めることもしない。学校のどこかで喜佐美くんが私の助けを待っているんだ。
角を曲がれば、自分たちが通っている恵宝高校が見える。校舎が近づけば近づくほどに、不思議と脚が軽くなっていった。
落ちついた感じの耳に心地いい声。睫毛の長い、ぱちりと開いた瞳。少しだけ丈が余っている袖口。
おはよう。
優しい声で話しかけて欲しい。吸い込まれてしまいそうになる瞳に映りたい。丈が余った袖に隠れている手を握りたい。
私と
誰よりも
今の私は、これまでのどんな時よりも気持ちよく走れている。
ローファーから上履きに履き替えて立ち止まる。数度の深呼吸で息は整ったし、夏はまだまだ先だから汗臭くはなってない。どうしても気になってしまうけれど、デオドラントでなんとか誤魔化せる、はず。
お手洗いで身支度をした後、しっかりと背筋を伸ばした。ここから先はどこで喜佐美くんに出会うかわからない。彼が見る私は、いつだって可愛いいクラスメイトでありたいから。
駅から学校までの全力疾走で遅れはだいぶ取り戻せた。喜佐美くんはまだ教室に着いてはいないはず。だとしたら、体力の低い彼がいる場所はだいたいの見当がつく
。
廊下に入ったけれど、喜佐美くんの姿は見当たらない。ここまでは予想通りだ。
階段を登ると、ガラス越しに陸上部の朝練が見える。恵宝高校は校庭が広いから、運動部は余裕を持って活動ができるのが良いところだ。校庭と同じように、校舎も大きくて広かった。授業毎に別棟に移動することも珍しくない。
恵宝高校が持っている広い空間はバリアフリーの導入の簡単さにも繋がっていた。他校に比べれば至れり尽くせりと言えるほどに手が入っているのだけれど。喜佐美くんの体力では、一人で好きなように過ごすのは難しい。
喜佐美くんが快適な高校生活を送れるように。同じクラスの保健委員である私が彼を支えてあげなくちゃいけないのだ。
時間がある時の喜佐美くんは、エレベーターではなく階段を使いたがる。適度な運動は身体にいいから、どんどん利用して欲しいけれど。階段を使うのは私が傍にいる時だけにして欲しいのが本音だ。
喜佐美くんは小柄で華奢だから、階段で乱暴に動く人にぶつかったら簡単に転げ落ちてしまう。リハビリや勉強を頑張って入学してきたのに。私だってせっかく仲良くなったのに。また入院でしばらく会えなくなるのは、お互いにとって良くないことだから。
一階と二階を繋ぐ階段にはいなかった。三階への昇降口にもいない。今日の喜佐美くんはとても頑張っているらしい。
だとしたら、喜佐美くんがいるのはこの先の踊り場だ。登りきっていることは、絶対にない。一気に登ると息が上がって動けなくなってしまうからだ。階段の上り下りは無理せず、途中で休まなくちゃいけない。
思った通り、喜佐美くんは二階と三階に繋がる踊り場で立ち止まっていた。
後ろで結んだつやつやの黒い髪。きっちり着こんだ制服から覗く白い首筋。上に辿っていくと、淡い色をした薄い唇があって、微かに乱れた吐息が漏れていた。
やっぱり。少し頑張り過ぎているみたいだ。私なんかは、見た目くらい気にせずさっさと階段まで行けばよかったのに。
「久留巳さんおはよう。今日は何かあったの」
「お、おはよう。喜佐美くん。ちょっと色々がたくさんあって」
反省に吞み込まれそうになる私に、喜佐美くんが声をかけてくれた。不意に声をかけられてしまったけれど、人懐っこい笑顔に緊張はあっという間に解けていく。
「今日は調子がいいんだね。辛かったり、苦しかったりしない」
「お陰様で。久留巳さんやみんなが支えてくれるから」
「カバン、私が持つよ。苦しかったら手も繋いでいいからね」
お願いします。と頼まれて喜佐美くんのカバンを持つ。
恵宝高校はバリアフリーの一環で、教科書や参考書も電子版を持ってくることが認められている。私の手荷物も、中学の頃と比べてだいぶ軽くすることができた。
喜佐美くんの手荷物は私や他の生徒よりもっと軽くて、カバンもみんなより一回り小さい。持って歩くだけならお茶の子さいさいだ。なんなら喜佐美くんを背負って教室まで運んであげるのだって楽勝だと思う。カバンと一緒に喜佐美くんも背負わせてほしい。
喜佐美くんが私に寄りかかるのだって本当にキツそうな時だけだから、私からは言い出しはしないけれど。
手すりを使って一段登ってまた一段。丁寧に登っていく喜佐美くんの横で私もゆっくりと歩みを進めていく。
すぐ側に私がいても、喜佐美くんの顔には少しだけ緊張の表情が浮かんでいる。当然だ。万が一登っている最中に発作が出たら、学校に通えなくなる可能性が何倍にも膨れるのだから。
最後の段を登って、焦らずにまた数歩。これでやっと私たちは安心して階段を登り終えることができる。
後は教室まで無事に喜佐美くんを運べれば上々だったのだけれど。
「おうおう。随分遅かったじゃないの」
大事に抱えていたカバンが断りもなく取られて、喜佐美くんに投げ渡された。
下品に染まった金髪。だらしない胸元。意地の悪いにやけ顔。勢い余ってよろける喜佐美くんを見て楽しそうに笑う目の前のお邪魔虫は、同級生である彼のことなんか考えていないのがよくわかった。
「呉内くん。人の物をそうやって扱うのは良くないし、喜佐美くんを危ない目に合わせてどうしたいの」
「わっかんないかな。人のモノ持ち主へ返してやってるだけだが。家から学校まで喜佐美が持ってるのに、なんで階段入ったらお前が持つんだよ。おかしいだろうが」
「それは」
「わかってるわかってる。じゃあな喜佐美、教室で会おうぜ」
しょうもないことを言いながら呉内は教室へ歩いて行った。途中で振り返って、握った拳で反対の腕を二回叩く仕草をしてくる。私を煽ってるつもりなんだろうか。
意味なんか通じてないんだからこっちがなんとも思わないこと、わかっていないんだろう。可愛そうなやつだ。
「呉内にはあんなこと言われちゃったけど。階段を登るのを手伝ってもらえてすごく助かったよ。ありがとう、久留巳さん」
端から見れば、喜佐美くんは女の子に甲斐甲斐しくお世話されている線の細い男の子だ。ああいう風なやっかみを受けることもある。
でも。いつもこうやって自分より、私の気持ちを考えてくれる喜佐美くんだから。私も他のことなんか気にせずに彼のために頑張ろうと思った。
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