第十一話「咎人の旋律」



 部屋に差し込む朝日。頬にこそばゆく当たる柔毛。

 ホテルの一室で目を覚まして、大きく体を伸ばす。


 何だか妙な夢を見ていた気がする。

 視界に見えるのはその元凶――司がムラサキの横腹に顔を埋めながら、気持ちよさそうに寝ていた。

 

「……ほんと、僕に襲われたらどうするつもりなんだよ、司?」


 今まで意識したこともなかったが随分と無防備だ。今も身体的には異性の僕が横にいるのに、呑気にだらしない顔を見せていた。






 名古屋市に向かって国道を進んでいく。

 昨日までと同じ旅路。ただその足取りは以前より軽い。

 それは警戒網の維持が安定したから、ということもあるし気持ち的な問題も大きかった。

 なにせ、あそこには二人で十五日分の水と食料があったのだ。これで当分は食事の心配をしなくて良くなった。これはかなり大きい。


 量の多いそれらは、二つの運搬用の式神に乗せて運ぶことにした。

 自動で僕らと一定距離を保ちながら浮動する、巨大な式神だ。御度消費量は増えたものの、大した量でもない。


 あとは卓球でのこともある。あれから司の態度が良い方に変わった。

 結界術などの殊の術にも興味を持ち始めたのだ。今も霊符を作り方を教えているところだった。心のつかえが取れたからだろうか。ありがたい。


 話が終わり一息。そういえば、と司がムラサキを向きながら続ける。


「篤史はムラサキをどこかに隠したり出来ないのか? 

 ほらゲームでよくあるだろ、影の中から使い魔を呼び出す、みたいな」


「あー、式神にしてたら出来るかも。霊的存在を契約で縛るのが、本来の式神術だから。今は、あくまで協力して貰ってるだけだから無理かな。契約するにも専用の道具が必要だしね」


「色々制約があるんだな。道具ってのは、篤史の実家に?」


「だね。果たして今はどうなってるか……。

 それにさ、技量の問題もあるんだ。

 例えば透明化には、光の反射とか色々考えて術を設計することが必要。

 どこかに住んで貰うにしても、全く異なる空間を作るっていう神に等しい行為をするんだ。アイテムボックス? の時に言ったように、きっと相当な量の御度も要求されると思う」


「なるほど。しかもそれを長時間維持する必要があるわけだもんな。中々難しそうだ。残念」


「まあ、発想自体は良かったと思うし、気付いたことがあったら遠慮なく言ってみて。何かの役に立つかも知れない。

 今の術も色々と試してみたら何とかなる可能性もあるし」


「よっしゃ、まかせろ。

 色んなアニメを見てきたからな、アイデアとイメージはぱっちりだぜ」


「頼もしいことで。因みにどんなアニメを参考にするの?」


「そりゃあ、やっぱり王道のーー」


「ついてるなあ。まさか人と出会えるとは」


「っ」


 突如聞こえる見知らぬ声。

 気がつくと目の前にはーー黒い何かが立っていた。

 端的な言い方をすれば、人の形をした瘴気の塊だ。しかしそれとは細部で明らかに異なっている。全てを塗りつぶす漆黒、瘴気が轟轟と燃えるように荒々しく蠢いている。

 そして極めつきは、現実の肉体を持っていることだ。まるで陽炎のように揺らめきながも、それでも確かに存在している。


 一体、何だ? そもそもどうやって警戒網をくぐってきた?


「……あなたは、誰ですか? どうしてここに?」


 司が僕の方をチラチラと見ながらあれに問う。

 その言葉に、態度に、最悪な予想が証明されてしまう。


 やはり、人なのか。

 そんなはずはない、と信じたかった。なにせそれは、人の体の瘴気があれほどまでに禍々しくなったということを意味するのだから。


 司の傍に寄って危険人物だと耳打ちし、密かに式神を配置する。ムラサキが唸りながら警戒態勢をとる。

 男は口角をつり上げて、狂ったように笑った。


「はは、僕のことなんて知って、どうするんだい?

 全部奪われて、無駄になるにさあ」


 瘴気が蠢動し、男の頭の上に一つの突起物を形作る。まるで角のように。

 あれはきっとその精神すら侵されている。


 同時に懐より取り出される黒色の塊――拳銃。

 男がかつての暴力装置を司の方に向け、引き金に手をかけた。


「結界っ」


 それが使える状態だと分かり、即座に術を発動する。

 二人の間に形成される三点結界。

 発砲音。刹那、結界が破壊される。許容量を超えたのだ。


 跳ね返った銃弾が頬をかすめる。

 

 ……っ。あと数センチずれていたらーー。


「司、戦わないと。あいつは普通じゃないっ」


「くそっルートバインドっ」


 司が戸惑いながらも戦闘行動に入る。

 省略された呪文。男の足下より現れた茨が対象を縛り上げるーー前に炎で焼かれる。黒色の、瘴気で出来た炎によって。

 すかさずムラサキが男に突進するも、最小の動作で避けられ、奴の強烈な蹴りを食らってしまう。吹き飛び家の壁に衝突するムラサキ。


 一連の行動すべてが瘴気の力によって支えられていた。ステータスを持つ人間は、自身の瘴気をリソースに奇跡を行使するのだった。


「そっちは魔法使い。もう片方はテイマー? 

 まあ戦えば分かるか。いい『職業』だと良いなあ」


 軽い口調で独り言を続ける男。

 瘴気が四散、集約し、男の周囲に幾つもの球が作られる。瞬時にそれらは無数の雷の球に変化した。

 バチバチと紫電を帯びた球。その一つ一つにとてつもない量の瘴気が込められていた。当たればひとたまりもないだろう。 


 まじ、か。格闘も魔法も高水準かよ!?


 対して、こちらの主な防衛手段、簡易結界はあと二つしかない。

 流石にこれは地獄が過ぎるっ。


「どうして、こんなことをするんだよ!?

 オレらは同じ人間だろ? こんな世界なんだから、助け合って生きていかないと!」


「それは出来ない相談だなあ。

 だって、僕はね、奪われていたものを返しにもらいに来たんだよ。

 君らみたいに未来があって、恋人もいて、全てが許されている人からねっ」


 男が話す度に体の瘴気がグニャグニャと変形する。

 まるで、異形の化け物が人間の姿と言葉をまねているようだった。


 パチリと指が鳴らされると共に、瘴気の群れが飛来する。

 司が慌てて、同数の鉄の矢を生み出し、迎え撃つ。金剋木、金行は木行にうち克つ(鉄と雷はそれぞれ前者と後者)。五行思想の基本だ。


 あちこちで激突する矢と球。

 破壊のエネルギーが空気を焼き、切り裂く。

 優勢なのは男の魔法の方だった。練り込まれた気の量も精度も司が負けている。当たり前だ、司はまだ二日前に陰陽術を覚えた素人なのだから。


 じりじりと後退する鉄の矢たち。司が歯を食い締めながら必死に霊気を込めているものの、押し返せていない。

 このままだと空中戦は敗れ、戦線は崩壊するだろう。

 ただ、僕もムラサキも状況を好転させる手札を持っていなかった。


 男の周囲を瘴気の風が吹いているのだ。半球状の、防護壁ともいうべきそれに僕の式神やムラサキの突進は防がれていた。

 瞬間火力を最も出せる司が防御に徹しているのが痛い。

 しかし、司以外にあれを耐えられそうなのはーー


 きゅうううう。ムラサキが鳴く。その瞳に強固な意志を宿して。


 本当に、僕って奴はっ。


「ムラサキ、盾役を頼まれてくれる?」


 きゅうん。ムラサキが当然、といわんばかりに尻尾を振りながら頷いた。

 ありがとう、とムラサキを強く撫でる。

 そうだ、今までもそうやってきたじゃないか。

 どれだけ敵が弱かろうと命の危険はあった。それでもムラサキは、最も死に近いこの役を引き受けてくれていたんだ。威力が桁違いだからといって躊躇する必要がどこにある。


 ごめん。死ぬ、なよ。


「司、役割交代だ。守りはムラサキに任せて僕らであいつを倒す」


「了解っ。オレもそろそろ限界だ。

 ……頼んだ、ムラサキ」


 その言葉と同時に、形を失う鉄の矢。

 抑えを失った数多の雷がこちらに接近し、僕らの前に出たムラサキに直撃する。

 世界が白く染まり、すさまじい衝撃音が響く。


 それでも、ムラサキは耐えていた。その前面に押し出されているのは、大量の霊気。どうやらムラサキも妖術(陰陽術の妖怪版)を習得したらしい。

 頼もしいことだ。あとで色々と確認しないと。


「スティールアローっ……くそっ」


 自由になった司が鋼鉄の矢で(風も木行の一部だ)攻撃するも、風の檻を壊すことはできない。

 やはり、攻撃も守りも向こうの方が上か。


「仕方ない、“あれ”を試してみようか」


「だなっ、ぶっつけ本番でもやるしかねえ」


 司のどこか興奮した返事を聞いて、あれ――試作中の新技の準備を始める。

 司の強い要望で出来たそれは、二人に共通する弱点、同時に別の術を使えないのを補うことが目的だった。

 司が鋼鉄の矢を出し、僕はその前に風の霊符を付けた式神を展開していく。筒状に螺旋を描くように。

 名付けて、ジャイロ効果(?)で精度と威力を上げよう作戦。

 司も太鼓判を押していたし、陰陽術にも似たのが載っていたから効果はあるはずだ。


 幸いなことに僕らが話している間も男は妨害してこなかった。ただ見せつけるように数多の属性の魔法でムラサキを攻撃しているだけだ。ムラサキもある程度は防げている。

 ただ、この状況が長くは持たないのは明白だ。

 やじりにも何個かの式神を貼り付け、起動。司に合図する。


 射出される矢。巨大な質量を持ったそれは霊符の風を受ける度に回転と速度を増し、瘴気の壁と激突する。

 凄まじい音をたてながら、壁を押し込んでいく矢。


 風の壁は大きく弛み、やがて限界に達した。解除される魔法。鋼鉄の矢が空気中を突き進む。


「司っ躊躇しないでっ」


「わかってるっ!」


 汗を流し、顔を青くする司に非情な決断を下すよう迫る。

 たとえ気が進まなかったとしても、全力を尽くすほか道はないのだ。

 

「やるなあ。でも、僕の方が上だ」


 余裕を持ったその言葉と共に、男の前に氷の壁が現れるも、それすら突き破り、迅速で男へ向かう矢。

 ちい、と舌打ちをした男はそれを避けようと体を横へ動かす。

 すかさず、矢に付けた式神の効果を発動させた。


 白く染まる世界。たった一瞬の発光だけど、それで十分だった。


 ずぶり。肉を潰す嫌な音が辺りに響く。

 首から伸びる巨大な棒。男の急所には確かに鉄の槍が刺さっていた。


 ふ、と槍が消失する。傷口から噴水のように吹き上げる大量の血。

 見れば、司が呆然とした様子でへたり込んでいた。きっと自分が殺してしまった、と後悔しているんだろう。

 ただ、それは違う。奴の御度はーー未だ尚動き続けている。


「あー、久しぶりだなあ、こんな風に怪我をしたのは。

 だけど、残念。僕はね、他人の『職業』とスキルを奪えるんだよ。今持ってるのは各属性の『魔法使い』『治癒士』『修理士』『格闘家』『暗殺者』とかかな」


 男の声が、致命傷を負ったはずの体から聞こえてくる。出会った直後から変わらない、落ち着いた声音がどこまでも異質だった。

 瘴気が男を包み、その体を急速に癒やしていく。男の言葉を信じるなら、『治癒士』とやらの力で。

 三秒もしないうちに、無傷な肉体が再現した。


「だからさ、何をやっても結果は変わらないんだ」


 突如吹き荒れる爆風。後ろから響く衝撃音。

 見れば、ムラサキの姿が無くなっていた。代わりにあるのは、瘴気を纏う男の姿。


 分かっていたことだ。

 監視網を搔い潜れて、銃が使えて、ムラサキを躱せて、規格外の魔法が使えた時から、相手はその全てにおいて、僕らを上回っているのだと。

 ただそれでも諦めきれずに足搔いてーーその結果がこれ、か。


「はは、まあ僕の『陰陽師』には及ばないかな。

 なにせ人を蘇らせることが出来るからね」


 一縷の望みをかけて、男の興味を引きそうな嘘を話す。

 ムラサキは後方、司はさっきとは別の意味で顔を青くして呆然としている。

 ここで動けるのは僕しかいない。


「へえ、それは面白いね。

 本当だったら……そうだ、あいつを殺し続けられるじゃないか。父さんを追い出しやがったあいつをっ。はは、それはいいっ」


 男の声に初めて色が混ざる。

 刹那、僕は男に首を絞められていた。ざらりと冷たい手に喉を絞められ、両足が宙に浮く。

 何て、力だ。

 尋常じゃないほど痛いっ、まともに息が出来なくて、苦しいっ……。


「ごめん、死ぬのはこわいよね。

 でも、仕方ないことなんだ。だってこれは神様に与えられた能力なんだから。

 神様が、可哀想な僕を見かねて助けてくれたーーああそうだよ、あんな生活にも意味はあったんだっ」


 瘴気が僕を囲み、御度に入り込んでくる。きっと、『職業』を奪う能力を使って。

 その瞬間、男は最後の詰めで油断しきっていた。


 これを待っていた。


「けっ、かいっ」


 男の背後に滑り込ましていた六つの式神を発動させる。

 三角柱の結界が空中に張られ、奴の瘴気の根本ー-御度の深部を封じる。

 一気に弱体化する男の力。支えを失い、僕は地面に倒れ落ちた。


「は!? 何をしたんだ、君は!?

 おい、『強奪』はどうして発動しない!? 『解呪』っ、なんで!?」


「はあっ、はあ」


 息を整えながら、博打の成功を確信する。本当に良かった、予想通りの性質で。

 初めて狼狽を見せる男。瘴気の心臓がグニャグニャと結界の中で暴れまわる。


 浄化しようにも御度の根元にまで入りすぎていて、途方もない数を繰り返さないと意味がありそうにない。

 ただ今にも結界が破られそうになっているのだ。そんなことは絶対に不可能。


 答えは、決まってしまった。


「司っ、今のうちに攻撃をっ。……司!?」


「い、いや、でもっ何とか説得してーー」


「あああああ、くそ、ふざけやがって。

 また僕から奪うのかよ!? てめえ、ぶっ殺してやるっ」


 煮え切らない司。激高し、僕を押し倒す男。瘴気が一際暴れ、ぴしりと結界にひびが入る。

 これ以上抑えるのは無理だ。


 くそ、仕方ないかっ。

 何とか別の式神を動かして、喚く男の口の中に突入させる。そのまま食道を通り喉の辺りで搭載した霊符を発動。

 鈍い爆発音。男がごぶり、と血を吐いた。僕にかかる男の血。それを繰り返す。


 何度も、何度もーー


「篤史っ、もういいんじゃないか……?」


「あ……うん、そうだね」


 いつのまにか男は力を失い、僕に倒れこむようにしていた。何とか下から這い出ると、彼はそのまま地面に平伏する。

 その頭から角がゆっくりと消えていった。


「はは、僕はこのまま死ぬのか……?


 ああ、これは罰なんだね。あの時復讐を諦めていたから……。

 でも……そうか、あいつに会社を奪われたまま、何も出来ずに終わるのか……」


 掠れた声で男が言葉を零していく。

 急速に力を失っていく瘴気。その働きがなければ、回復力は普通の人以下だ。ボロボロな体からして、その予想は正しい。


 ふーんふふーん、ふーんふふーん。

 どこかから鼻歌が聞こえてくる。これは、男の声だ。さっきまでとは全く違って、何かを懐かしむような、慈しむような優しい音色。


 ふーんふふんふん、ふーふふふんふん。

 彼の演奏は続く。何となくその旋律に聞き覚えがある気がしてきた。


 ああ、そうだ、あそこの古い応援歌だ。

 淡い記憶が蘇っていく。



 ……。

 …………。



「ねえ、おじさん。おじさんもそこのファンなの?」


「うん? ……ああ、そうだね。ずっと昔から、好きなんだよ」


 頭にかぶったボロボロの帽子をさわって、はにかむ彼。


 とあるプロ野球チームの本拠地がある街で暮らしていた時の話だ。当時、前の家庭の影響で別の球団のファンだった僕は、地元球団のファン一色の環境に、寂しい思いをしていた。


 そんな時出会ったのが、僕の推しチームの帽子を被る彼だった。

 彼とは色々な話をした。仕事のことや、人生教訓、はてには会社の経営権についてなんかも。

 勿論、選手や球団のこともよく話してくれた。古い情報が多かったけれど、それでもその知識量と熱に圧倒されて、聞き入ったものだ。


「アダムとイブは知ってるかい? ――」


 いつの日か、そんな話もした彼の、ご機嫌の時の癖がーー



 ……。

 …………。



「っ」


 意識が現実に戻される。まるでそれ以上思い出してはいけないと本能が警告するように。

 バクバクと心臓が脈打ち、背中を冷たい汗が流れる。


 いつの間にか男はかなり弱っていた。

 もうその命は風前の灯火だ。慌てて結界を解除する。しかして、瘴気は機能しない。傷を塞ごうと御度を動かすもーー間に合いそうになかった。


 ふー、ふふふ。

 途切れ途切れの小さな歌。

 それが、終わりに差し掛かった。


「ふ、ふーん。

 ……ああ、どうせ死ぬなら、最後にもう一度、父さんと野球を見たかったなあ……」


 その言葉と共に完全に力を失う男。

 ふわり、とその体から紺色の球体が飛び立つ。彼の霊魂だ。

 生命の核たるそれが体を離れた以上、生命を維持することはできない。


 何もできないまま、霊魂は空へと消えていく。

 良かったじゃないか。危険が去って。

 心の冷徹な部分が囁く。そうだよ、殺さなかったら死んでいたのは僕らだ。

 

 ……でも、僕はちゃんと対話しようとしただろうか。

 最初から敵だと決めつけて、戦闘以外の道を諦めてはいなかったか?

 あの時攻撃を躊躇う司を煩わしいとすら思っていなかったか?

 どうして、男にも過去があると、理由があると考えなかった?


 宿主を失った瘴気が体から消えていく。

 その姿が次第に化け物から人へと変わっていく。

 目をそらす。見ては、駄目だ。


 ぼすん。何か大量の重い物が落ちる音が辺りに響いた。

 男を見ないように視線を動かすと、その周りには大小様々なものが転がっていた。

 段ボールに詰められた食料類、寝袋などのアウトドア用品など。明らかに誰かが集めてきた物資だ。


 異空間収納。司が以前言っていた『アイテムボックス』というスキルだろうか? 

 使い手を失って、効果が切れたとか?

 

 不意に、その中の一つに目がとまる。

 随分と色あせ、ボロボロの帽子。新しい物品達の中でそれだけが古めかしい。まるで子供の頃からずっと使い続けているかのように。

 その柄はーーああ、駄目だ。みちゃいけない。絶対に後悔する。やめるんだ、僕っ。

 それでも、吸い寄せられるようにーー。


「あ、篤史っ。何かが来る、何か大きいのがっ」


 突如、取り乱した声を上げる司。


 地鳴りのような低い轟音が前から近づいてきていた。

 思えば思考に集中していて、式神による監視はまともに機能してなかった。

 急いで空中の式神へと意識を送るが、もう“それ”は肉眼で見えるほど近距離にいた。


「な、何て量だよ……こんなの、防ぎようがない」


 そこにいたのは、真っ白な、虫に似た何かの大群だった。

 ザリガニの体に、赤い瞳のワニの顔を付けたとでも表現すれば良いだろうか。ともかくそんな気持ち悪いモンスターの群れが接近してきている。それも地面が見えないほど大量に。


 奴らは、対処も出来ず呆然とする僕らを雪崩のように飲み込みーー何もしないまま通り過ぎる。


 ぐちゃり。背後より聞こえる咀嚼音。


 ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ。


 幾千ものモンスターが一心不乱に“何か”をかみ砕く音がなっている。

 僕らは恐れて、目の前の光景を理解するのを脳が拒んでいた。


 やがて音がなくなり、モンスターの気配が消える。

 恐る恐る目を向けると、そこにあったのは大量の血の跡と僅かな物資だけだった。あの帽子の姿もない。


 不思議、だったのだ、今まで死体を一度も見なかったのが。

 ようやく理由が分かった。奴らが全部掃除していたのだ。


「……オレたち、生き残ったんだよな」


「……うん、そうだね」


 重苦しい雰囲気で生存を祝い合う。

 喜ぶだけの元気を、僕らは持っていなかった。



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