第7話
ルネが起きてきたのは、ミカエルが街から帰って来て30分も経たないくらいの時間だった。
「おはようございます。ミカエル様」
「おはよう、ルネ」
ルネに顔を洗うよう勧め、ミカエルは先程買ってきたサンドイッチとフルーツジュースを低いテーブルに置いた。
ルネが戻ってきて、まぁ美味しそう、と花にも負けない笑顔で言ったので、ミカエルは目を細める。
「ここから1番近い街に行ってきたが、まだ君が攫われたというような情報が流れている様子は無かった。ここはイリス国ではないから、まあ暫くは心配しなくても大丈夫だろう」
「その街というのは、イリスですか?」
「いや、隣国だ」
それを聞いて、ルネは大事なことを聞いていなかったことに気が付く。
「そういえば、ここはどこなのですか?ミカエル様の家だということは昨日教えていただきましたが、詳しい場所を聞いていません」
「ここはどこの国にも属していない、不可侵の森だ。君も名前くらいは聞いているんじゃないか?」
「あまり深くは知りませんが、イリス国と隣国の間にある、どこの領地にも属していない森だと、家庭教師が言っていましたわ。たしか、詳しい広さは不明で、魔物や凶暴な動物が多く生息していて、ほぼ人が入り込む事はないと、皆が恐れている場所だと聞いております」
ルネは少し心配になって、サンドイッチを食べる手を止めた。
そんな所で寝ていたとは。何も知らなかったとはいえ、無防備すぎる自分に寒気がする。分かりやすく怯え始めるルネに、ミカエルは、大丈夫だと東側の窓に目を向けた。ルネからすると斜め後ろだ。
「ここには誰も入れないように結界魔法が張ってある。私が死なない限り、ここに君が今考えているようなものは入れない」
「そう、なのですね」
ルネもつられてそちらを見やるが、大きな木々以外何も見えない。もう一度ミカエルに視線を戻して見ると、ミカエルはじっと同じ窓を見ていたが、木々ではないその向こうの何かを見つめているようだった。
「ミカエル様?」
「ん?なんだ?」
「あ、いいえ、なんでも」
ルネはかぶりを振ってまたサンドイッチを口に運んだ。ルネが選んだのはレタスとハムが挟まれたお腹に優しそうなものだった。ミカエルは、卵とレタスが挟まれたものだ。どちらも脂分が少なく、脂っぽいものが苦手なルネの事を考えて選んだのだろうなということが、手に取るようにわかる。ルネは少し嬉しくなって、目を伏せた。
朝食を食べ終えてしばらく、ミカエルはさて、と不意にルネを見つめた。
「ルネ、昨日君に言ったことだが、私は君に魔法を覚えてもらいたいと思っている。私が教えよう」
「ミカエル様、昨日も言いましたが、私は魔法が本当に使えないのです。家庭教師もお手上げの問題児なんです」
「この世界に、魔力があり魔法が使えない者は居ない。それは、君が無意識に魔力を制限しているからだと私は思っている。君は昨日、自分には膨大な魔力量があるといっていたな。そしたら、魔法が使えないはずはないんだ」
「でも実際に使えないのです。1度見ていただければ信じていただけるはずです」
ミカエルは挑むような姿勢でにやりと笑った。
「では、見せてもらおうか」
「え…」
(まさか、これを狙ってたのかしら。まんまとミカエル様に誘導されてしまったみたいだわ)
2人は朝食を食べ終えて片づけを済ませると、外に出た。玄関を出て木の階段を数段降りる。ミカエルはルネに家の前に立つように促し、ミカエルはルネの前に立った。
その面差しは真剣そのものといった風で、口を挟む隙も無い。
「さあ、君が今できる精一杯の魔法を見せてみなさい」
「あの、本当にやるのですか?」
ミカエルはうむと頷いてみせた。
憂鬱でならないルネは、深いため息と、冷や汗をかく。緊張しているのだ。同時に怯えてもいる。失望されやしないかと、不安で暗い気持ちがもこもこと泡のごとく生まれていくのを、だがルネ自身は気付かない。
どうしたらいい、何を見せれば目の前の猫は満足してくれるのだろう。そればかり考えてしまう。
「ルネ。大丈夫だ。これは君を格付けるためのものではない。ただ今君がどういう状況なのか、見極めたいだけだ。君が何をしたところで、私の中の君の印象は傷付かない」
ミカエルには、人の心を読む魔法も使えるのだろうか、と不毛なことを考えてしまう。それほどまでに、彼はルネのほしい言葉をほしい時に与えてくれる。
ルネは大きく息を吸い込んで、ゆっくり吐いた。緊張で震える手には汗が滲み、心なしか震えているようにも感じられる。でも、彼がそう言ってくれるのなら。
「いきますわ」
ミカエルの双眸が細められる。見定められている緊張感の中、ルネは随分と久方ぶりに魔方陣を展開した。
「風よ、我の視界に見える木々に揺らぎを与えよ!」
詠唱を終えた瞬間、魔方陣が青白く光り、霧のように散った。
それは一瞬のことだった。
霧散した光に導かれるように、木々が葉を揺らした。
わずかに音が聞こえる程度に、だが。
ルネはかざしていた手を下ろした。顔は俯いて、垂れた前髪からは表情が見えないが、明らかに落ち込んでいる雰囲気を全身から醸し出していた。
「ごめんなさい」
「何故謝る?」
肩を落として謝るルネにミカエルはそっと自分の手を差し伸べて問い掛けた。
「やっぱり駄目でしたわ。私、何も出来なくて…」
「木の葉を揺らして見せたじゃないか。詠唱通りだ。よく出来ている」
「でも」
「でも、そうだな。自分の身を守るにはかなりの実力不足は否めないな」
クスリと笑ったミカエルの手は取らず、ルネは口を尖らせて無視した。ミカエルはおや、とおどけたような声で肩を竦めた。ルネは頬を赤くして、恥ずかしそうにミカエルを睨む。
「もう!意地悪ですわよミカエル様!分かったでしょうこれで。私が本当に魔法が使えないことが」
「ああ、分かった。君がやはり無意識のうちに力を制限してしまっていることが」
「は……ミカエル様!ふざけないでください!」
勢いよく言い返するルネの姿は新鮮で、ミカエルは笑みを堪えきれない。
「ミカエル様?何を笑っておいでですの?私は真剣ですのよ!」
「心外だな。私も真剣だ。ただ、君のこんな荒ぶる姿は初めて見たから、楽しくて、ついな。すまない」
それを聞いたルネは、また恥ずかしそうに頬を染めて、そっぽを向いた。本当に意地悪だわ、とルネは唇引き結ぶ。目を合せてくれなくなったルネを、ミカエルが優しく呼ぶ。そのバリトンで呼ばれると、吸い込まれるように目が声のするほうに行ってしまう。2人は再び視線を通わせた。ミカエルが満足したような笑みで言葉を継いでいく。
「ルネ。君は魔法を使うとき、何かをとても恐れているのではないか?」
ミカエルの目の前で、ハッと目を見開くルネの姿があった。
自分が何かを恐れている。そのことにルネは今初めて気付いたのだった。
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