第6話

 せきとめていたものが一気に崩壊する音がする。ルネは止まらない涙を止めようと必死にハンカチで目元を押さえた。


「ご、ごめ…っなさい。どうして…っ」

「君は我慢しすぎだ。もう、楽になってもいい。逃げてしまってもいい。私が隣にいる。これからは君が倒れないように、我慢しすぎないように、見張っていてあげよう。ルネ、君はもう十分苦しんだ。今はまだ自分を許せなくても、もう甘やかしてやれ、優しくしてやれ」


 ミカエルの顔をぼやける視界で見た。どこまでも優しいペリドットが2つ見えた。


「君は十分頑張っている。今は休息のときだ」

「う、ぁ、はぁっ、ううぅ、うわああああっ!!」


 抑えきれない涙がミカエルにもらったハンカチをさらに濡らしていった。ルネはこの時、母親が死んでから初めて声を出して泣いた。今まで何年も我慢してきたいろいろな感情が壊れたダムのように流れ出す。ミカエルはそっとルネの頭をなででやり、静かに立ち上がるとまた、暖かいココアを作ってくれた。その間も、ルネはずっと泣いていた。


「飲みなさい。そんなに泣いては干からびてしまうよ」


 ミカエルがココアをルネの前に差し出したとき、ルネはまだかなりしゃくりあげていたが、話を聞くくらいはできるまで落ち着いてきていた。

 ミカエルからココアを受け取り、ルネは小さく会釈する。その様子がなんだか可愛らしく思えて、ミカエルはふっと頬を緩めた。ちみちみとカップに口を付けるルネ。ミカエルは今日はもういいだろうと、壁掛け時計を見上げる。


「ルネ、もう遅い。これを飲み終えたら眠りなさい」

「っ、え、でも…」

「今は、私の言うことを聞いていなさい、いい子だから」


(ミカエル様は、たまに私を子供のように扱うのね)


 でも不思議と嫌ではない。ルネはこくんと頷きで答えると、ミカエルは満足したように笑って、また頭を撫でてくれた。

 こんな風に優しく撫でられたのはいつ以来だろうか。リリィでさえ、最近はしてくれていなかった行為だ。思いだそうとしても嫌な思い出ばかりが浮かんで、ルネはまた少し苦めなそのココアと一緒に心の闇を飲み込んだ。

 ミカエルはその日、最後まで気を遣ってくれた。カップを洗おうとしたルネを止め、とにかく早く休むようにと最初に寝ていた部屋まで半ば押し込まれるようにして促された。

 ルネは他に着るものも無かった為、普段着のドレスのままベッドに寝転ぶ。雑に切られた髪が視界に入ったが、見えないふりをして目を閉じた。


 その日は、幸せな夢を見た。ルネはまだ小さな子供で、庭を走り回るルネをリリィが追いかけている。その様子を母が日傘をさして見守っていた。母はルネは手を振ると、笑顔で振り返してくれた。


(思えばあの時が、今までで一番幸せだったのかもしれない)


ルネが目を覚ました時、彼女の目からは涙の痕が一線残っていた。



□□□□□□□□



 次の日の朝、ミカエルはルネより早く起きて朝食を買いに行った。移動魔法で家から1番近い街に繰り出した。そこでサンドイッチとフルーツジュースを買って、さっさとそこを後にする。まだこの街には何も変わった様子が無い。誘拐犯の情報など、街の人間は知らない様子でいつも通りの人の温かさが印象的な朝だ。

 ミカエルは街の端まで歩くと、足元に魔法陣を展開する。至って何の変哲もない3重の呪文が書かれた魔法陣だが、ミカエルはそこにもう1つ違う魔法を追加した。

 ミカエルが緑の光を残して消える。その瞬間、この街の人間は、朝に三毛猫がパンとジュースを2人分買いに来たことなど、忘れ去っていた。





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