第6話 暗闇の中でこそ見える灯り
「お、おい……何、してんだお前……」
数秒の沈黙を打ち破ったのは近くで静観していた中岡だった。まるで得体の知れないものを見たような顔をしている。
「……さすがに殴るのはやべえって……」
もう一人の佐竹も震えた声でじりじりと俺から距離を取り始めた。
殴った。……そうか、殴ったんだ俺。
二人の反応、通りがかった不審に思う同じ学校の生徒たち、そして仰向けになっている井上。周囲の状況は速やかに身体の熱を奪っていき、同時に拳に痛みが走る。痛みの元へ目を向ければ手に血が付着していた。俺の血か井上のものかはわからない。
だがそれを見た瞬間、息が詰まる気持ち悪さを感じた。
「……ってぇな……」
徐に起き上がり、ゆっくりとこちらに歩を進める井上。
幸いなのか、井上の顔に大きな外傷は見られなかった。血はおそらく俺が転んだ時と殴った時のものだろう。
「……お前終わりだぞ……? これ、傷害事件だからな普通に」
井上は殴られた所を指さすが、彼もまた取り巻き同様に声も腕も震えていた。あれだけ俺を下に見ていた井上が俺に恐怖している。
殴った手の感触と痛み。ある程度理性が働いている今では、これが全部自分が引き起こしたことなのか信じられないでいる。
ただ一つ言えるとしたら、もう、手遅れなのかもしれない。
「はは……まさか、お前がこんな馬鹿とは思ってなかった……ほんっと、やばいやつだったんだな」
いくら嫌いな相手でも、どれだけ人生をめちゃくちゃにされたとしても、暴力を奮った方が罰を受ける。小さい子どもでも分かるようなことがさっきまでの俺の頭にはなかった。林檎のためでも三吉さんを助けるでもない、自分自身の欲のために力を見せつけたのだ。
最悪な事態だというのに何故か心は落ち着いていた。
たぶん、これ以上何を考えても無駄だ、と。
そう悟ってしまったのだろう。
「──何を言ってるの?」
口を開いたのは後ろの女の子だった。
「仕掛けてきたのはあなたたちでしょ」
三吉さんは俺の隣まで来てしゃがみこむ。
すると俺の右脚を掴み、ズボンを膝辺りまで捲し上げた。よく見ると膝頭から出血がある。
「ほら。彼も怪我してる」
「それが、なんなんだよ」
「先に足を引っ掛けたのは井上くんよね?」
「はっ。卯月は殴ってんだぞ!? 引っ掛ける程度で何が──」
「足を引っ掛けるのは暴行罪。怪我までさせたのなられっきとした傷害罪よ」
「……っ」
三吉さんは井上が反論できなくなるのを見て、捲し上げたズボンを元に戻した。
「それを言ったら先にこいつからぶつかってきただろ!」
「卯月くんは痴漢から助けるために必要なことをした」
「誰が痴漢だよ……ッ!」
「それに言い忘れていたけれど、もう全部撮ってあるから」
三吉さんは後ろに隠し持っていたスマホを相手に向けた。撮ってあるというのは今の状況を録画していたということだろうか。だとしたら用意周到すぎる。
「だから何を言っても無駄。もし被害を訴えてきてもこっちには二人分いる。というか忘れたの? 彼と首藤さんはとても仲がいいの。言いたいこと、分かるわよね?」
三吉さんの流れるような怒涛の反撃により井上はいよいよ口を開かなくなった。押し黙ることおよそ十秒、観念したのか取り巻き二人とともに足早に去っていった。
三人の姿が視界から消えると、三吉さんは大きく欠伸をし、またコリをほぐすように腕を伸ばしている。
なんというか……メンタル強そうだな。
「み、三吉さん。その……た、助けてくれてありがとう」
自信満々だった卯月朔はどこへ行ったのだろうかと思うほど自信なさげでか細い声。俺は結局俺のままらしい。
林檎以外の人、ましてやルックスが整った女の子になど、まともに他人とコミュニケーションできた試しがない自分にはハードすぎる。
「何言ってるの。助けたのは私じゃない」
しかし三吉さんは何も動じる事なく前を向いたまま言葉をくれた。
「彼らから私を離すと、すぐに手を掴んで一緒に逃げようとしてくれた。誰がどう見てもあなたが私を助けたの」
彼女はこちらをゆっくりと振り向くと、口の端を小指ひとつ分ほど上げた。
「かっこよかった」
一本一本が独立していて絹のような白銀の髪。
それらを纏める丁寧な編み込みと、綺麗な海底を思わせる空色の瞳。
教室で一度すら見た事のない笑みが今自分に向けられているのだと気付くと変に胸が騒ぐ。
どうして俺はこの人のことを知ろうとしなかったのだろうか。
こんなに、綺麗なのに。
その美しさは今、弱々しくなった心に温かい火を灯してくれている気がした。
***
外へ出るとすっかり日も暮れて夜になりつつあった。
薄暗い階段を下りると、目の前のベンチに当然のように彼女は腰かけていた。
「帰ってていいって言ったのに」
「あ。もう終わったの。早かったね」
三吉さんは近づく俺に目もくれず、自販機で買った飲み物を飲みながらノートを開いている。完全にプライベート化しているようだ。
すぐに終わる気配はなさそうなのでもう一つの方のベンチへ向かおうとすると、三吉さんは占領されていたベンチから鞄を退けてくれて、その流れで同じベンチに座ることになった。
ん……? どういう状況だ。急に緊張してきたんだけど。
前にある自販機を見たまま放心していると急に右腕を掴まれた。
「けっこう痛む?」
三吉さんは目を細めて包帯が巻かれている手を見る。
突然触られたのでドキッとしたが、興味は怪我だったようで胸を撫で下ろした。
「いや、痛みは全く」
「そう。良かった」
安心してくれるのはありがたいが、全部自分が起こしたことなので申し訳なく思う。
井上たちが立ち去った後、さすがに怪我を放置するのは良くないということから、歩いて10分ほどの所にある皮膚科まで行った。
中までついてこようとしたので一人で大丈夫だと言ったが、万が一のことがあったらという理由で断りきれずに一緒に入ることに……はならなかった。
中に他のお客さんがそこそこいたというので別れたのだが。
もしそうじゃなければ変わっていたのだろうか?
病院で高校生の男女二人が一緒にいようが何も思われないだろうけど。
いたらいたで、何か非現実的なことが起こっていたんじゃないかと残念がっている自分がいる。
そんな哀しき思春期高校生の妄想をしていると、三吉さんはそっと俺の膝の上に腕を置いて、観察するようにじっと俺を見つめた。
あの、そんなに見られたら目合わせられないどころか身体すら動かせないんですけど……。
それとさっきの妄想よりレベル上がってるような……。
「あの時の卯月くん。なんというか、らしくなかったね」
俺の胸中などお構いなく、三吉さんは思ったことを口にする。
あの時の、らしくない、というとやはりさっきの井上を殴った辺りのことだろうか。
それは自分でもそう思っていた。
「うん。三吉さんとか、林檎……幼馴染の首藤さんのこととか、俺のこととか色々考えたら、その、なんであいつにこんな苦しめられないといけないんだろうな、って思って……。気づいたら」
「殴ってた」
彼女の相槌にこくりと頷く。
「今考えたらなんであんなことしたんだろうって思ってるよ。もしあそこに三吉さんがいなかったら、俺たぶんあそこで詰んでたし……ははは……」
井上が許せないことに変わりはないが、もっとマシな、賢い選択があったはずだった。今まで他人に怒ったり、深く関わろうとすることなどはなかったので、感情に動かされた時、俺はああも周りが見えなくなるんだなと今では反省している。
「でも私がいた」
「うん。本当に助かった、あり──」
「運命だ」
「……へ?」
ん、なんて言った? 運命?
そのまま呆けていると、三吉さんは突然小刻みに震えだしけらけらと笑い始めた。
「ふふっ。あー面白い」
「え、面白いって何が。というか運命って」
「だって全然気づかないから。私のこともう忘れたの?
笑い泣いた目をこすると彼女はグイッと顔を近づけた。
三吉さんの声も表情も何もかも教室のものとは思えないくらい差がある。ただ脳は不思議とこの現実を受け入れているようだった。
「百寧だよ。三吉……前は、
「……百寧……?」
その名前を聞いてすぐに納得してしまう。
三吉さんの下の名前を覚えていなかったのだ。
控えめな笑みにどこか浮世離れしたような存在。
見た目は変わり過ぎているのに、昔と変わらない百寧が確かに目の前にいた。
「君のもう一人の幼馴染。運命の再開だ」
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